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2022年 2月

勝ち負けよりも大事なもの

2022/02/16

勝ったり負けたりする勝敗のある事柄を人間は古来から好きなようで、それに人生をかけたり、職業にしたりすることができるようになった時代は、ある意味で恵まれていると言っていいのでしょう。ギリシャ時代からプロがいたそうですが、将棋にしてもスポーツにしても、その勝敗のレベルがどんどん高度になっていくにつれて、そのレベルに到達できる人たちは、本人の才能や努力が大いに影響するにしても、幼少期のうちからそれに没頭できるだけの恵まれた「何か」が左右するようです。子どもの頃に没頭して打ち込んだことが、将来の経済的自立に結びつくかどうかは、あまり考えても仕方がないことで、そういうことに左右されない生き方の真ん中を探りたいと思いながら、冬季オリンピックを見ています。

趣味ではなく、それが仕事になったりプロになったりできるのは、それを観て対価を払う人たちがいるからで、その分野が商業として成立する必要があります。それはマスコミが大きな影響力を持ちます。例えば日本で野球がこれだけ国民的スポーツになったのは、読売テレビが巨人戦を毎日放送してしたからですが、最近ではサッカーやバスケット、卓球など、リーグが成立しています。観たり応援したりする人が増えると、そのスポーツがメジャーになっていきます。それにはマスコミやSNSの視聴率とスポンサーがタッグを組む必要があります。その結果、多くの人が見て、それがカッコよかったり、素晴らしかったりして、やってみたい!という青少年が憧れるようになります。

冬のスポーツは雪や氷の上で行うので、滑ったり、躓いたり、溝に挟まったりと、予想外のアクシデントも起きて、力量だけではなくて運も左右することが、今回よくわかりました。その時、日本的美徳かどうかはわかりませんが、人によって競技への挑み方や勝ち方、負け方に差があって、負け方が潔かったり、悔いのない言葉を聞いたりすると、その心の姿勢に感動したりします。勝ち負けを超えたところにある競技への臨み方に魅力を感じます。その競技に向かい合ってきた姿勢のようなものですが、人間性がそこに現れてきます。その日本的情緒の質について、私たちが直感的に良し悪しを感じるのはどうしてなのでしょう。そんなところにアスリートの潔さや美しさを感じてしまいます。

 

当たり前かもしれないけど・・・

2022/02/15

今日は実習生との最後の振り返りの会があったのですが、二人の実習生が語る保育をめぐる出来事は、本人とって意味があるので、その意味を理解したくて、じっと耳を傾けて聞いてみました。そして、大事なことに気づきました。それは二人が印象に残ったこととして取り上げた事例は、私たちだときっともう、話題にしないようになってしまっていることだったからです。私たちは、当たり前のこととなっていることが、実習生には新鮮なことに見える。これは案外、私たちが心しておかなければならない意味があるような気がしたのです。当たり前になってしまっていいことと悪いことがあるかもしれないという話です。

私たちは生活のなかで、いろいろなことをやっています。そこで見聞きしたことを人に話すとしたら、その話の内容は相手によって違うし、そこにいる人たちによっても異なります。何を語るかは、その人間関係の模様が違えば、話題も変わって当然です。実習の反省会ですから、保育のことを語り合い、何某かの意味ある気づきを持ち寄りたいわけですが、いつもと同じメンバーで子どもの姿を語ると、大抵は同じ角度、切り口になりがちです。そこで実習生から見えた子どもの姿や事例への気づきが、私たちに新しい気づきをもたらすこともあります。あるいは、語られずに終わっていた先生の思いや意図が、初めて明らかにされるということもあります。

実習生が子どもに楽譜を用意したことについて「それが保育なんですよ」と語る先生の、その心は?という話が聞けたのも、園長としてはとても嬉しくなりました。また旧今川中校庭で遊んだ日、そこの三輪車で遊んで片付ける時に、年長の二人が率先して動いた姿が、実習生にはとても印象的だったそうです。実習生曰く「教育的にさせたというのではなくて、自分たちでやるように援助した」といった言い方をしていました。その事例について、担任の先生は、年長さんに人的なモデルになってもらうことが意図されていたことなど、幾つもの視点やねらいが隠されていることが説明されました。

そうなんです。保育というのは、ある「ねらい」があって、そのためにこうやったら、こうなった、みたいに単純な話ではなくて、輻輳した線や網目で織り込まれているようなものなので、指導検査などで「ねらいを書いて、それが達成できたかどうか振り返って、ちゃんとPDCAを回して」という趣旨のことをいう方が時々いるのですが、保育所保育指針はそんなことを言っていないのに、自治体レベルでは曲解されてしまっています。これでは日本の心情や情緒を大切にしてきた保育の伝統が薄っぺらいものになってしまいます。当たり前と思ってやっていると、正しいけど浅はかなことになってしまっていないか、そこへの危惧も大事なんだろうと思うのでした。

早く終わってほしいコロナ禍

2022/02/14

「コロナ禍で休園になって、働けない保護者の方が困っているニュースに接すると、それと同じように、子ども集団での経験が失われていることへの危惧も、併せて報道してもらいたい」。藤森統括園長は今日のGT会議で、この間コロナ禍で失われた保育園の教育的機能を取り戻そう、と強調しました。子どもは集団の中でこそ、その子どもらしさを発揮します。子どもの本分は集団の中にあります。そのことを思うと、早くコロナ禍を終わらせなければ、と思います。幸い、東京都の感染のピークは越えたようです。もちろん、油断大敵、感染対策に緩みは禁物です。

4月で年度が切り替わる日本では、子どもの月齢の合計は3月末が最も大きくなります。子どもたちは4月が最も若く、3月が最も成長していることになります。それは数字の話ですが、子どもたちの暮らしていると、この時期の成長は目を見張るものがあって、大きな成長を実感します。

今日、2月26日に開く成長展でお配りする「子どもたちの育ち」(担任によるクラス別の集団の育ちを記述してもの)を読んでいて、改めてそれを感じたからです。誰にでも公平に与えられた時間であっても、子どもの頃の1年、1ヶ月、1週間というのは、とても貴重な時間に思えます。登園を控えてもらうお願いをしなければならない状況を、本当に早く終わらせたいものです。

 

3回目のワクチン接種

2022/02/13

(樋口区長のホームページ)

コロナ禍で政府が切り札と考えている3回目のワクチン接種ですが、千代田区は2月8日現在で65歳以上の接種率が51.4%だそうです。東京都全体ではまだ17.5%(2月6日現在)なので、千代田区は接種を急いでいると言えそうです。私たちエッセンシャルワーカーも2月8日から始まりました。当園は12日から開始。今月中には完了予定です。ただ副反応もあるので、翌日、翌々日の勤務ができなくなっても、できるだけ保育に支障が出ないように打つ順番を検討しました。連休明けの明日14日(月)から、また健康な状態で保育園生活を始めたいと思います。もし体調が悪そうだったら、大事ととって療養して元気な状態で登園しましょう。登園の様子はまた連絡アプリでお知らせします。

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

子どもが体験している意味を伝えたい

2022/02/08

今年4月に入園する方が今日7日(月)決まりました。この「園長の日記」はこれから保育園に入園される方にも、保育や教育の営みについて、お伝えしているつもりなのですが、1月28日の「園だより」2月号の巻頭言から始まった教育論は、一つの区切りに差し掛かってきました。子どもをコップに例えると、教育はコップに水を注ぐことなのか、それともすでに入っているコップの水を引き出すようなことなのか、そんな譬え話から始まりました。

子どもは教えなくても自ら環境に関わろうとするのですが、つまり何かを体験することで、すでに最初から持っている力が、使われて伸びるという側面(コップの水を外へ)と、そのとき体験する事柄自体が、その文化が編み出してきた歴史的な営みでもあるので、そのやり方なり内容なりを身につけていく側面(コップに水を中へ)とがあるのでした。たとえば赤ちゃんは、どんな国で生まれようと、持って生まれた力を使って言葉を聞いたり話したりできるようになっていくわけですが、一方で、それが親が日本語を話すから日本語を身につけることになります。

このように、本人の持って生まれてきた力を十分に発揮できるような生活を創り上げていくために、生活や遊びの中の、さまざまなシーンを取り上げて、その体験の意味を捉えていきたいと思っています。

子育ては子どもを支えること

2022/02/07

子育てとは、本人が自立するまでに必要な援助です。子どもが大人になれば、なんでも自分できるようになり、援助がいらなくなります。自立すると言うことです。そして今度は自分が子育てをする側に回ります。子どもは大きくなるにつれて自立していき、援助する側になっていくことが大人になる、と言うことになります。すると、子育ては自立に向かって支えることですから、大人がさせてしまっては自立する機会を奪うことになります。本人の代わりになんでもやってあげてしまったら、自分で伸びようとする力を使うチャンスを失うことになります。これを過保護、と言います。

一方で、子どもの体験は、初めてのことが多いので、最初からうまくいくことはあまりありません。繰り返しやっていくうちに、身についたり、覚えたり、できるようになっていきます。その過程には「自分で考えて試す」ということが含まれてきます。いわゆる試行錯誤の過程です。自分でやってみようとしたり、挑戦してみたり、できるかな、でもちょっと怖いな、どうしようかな・・といった過程で、子どもは自分自身と向き合い、自分のことを振り返ります。決断して前に進むか、助けてと援助を依頼してくるか。このプロセスがとても重要な自立の過程になります。失敗を繰り返しながらも、試行錯誤しながらなんとかゴールに辿り着くと、達成感と共に自分への自信を持てるようになっていきます。

ところが、このプロセスがない子育てがあります。それは子ども自身に考える時間、試してみる時間、自分で創意工夫する時間がないような子育てです。ことある度に「ああしたら」「こうしたら」と指示を出し、言ってさせようとします。これを過干渉と言います。大人はできるだけ本人が困ったときだけ、援助してあげるようにします。「手伝って」「助けて」と言われたら支えてあげればいい、と言うことになります。

過保護は自立の機会を奪い、過干渉は考える機会を奪います。いずれも受け身な姿勢になって、自分からこうしたい、ああしたい、という意欲や自発性が損なわれてしまい、自信のない子どもになってしまいます。本来子どもは好奇心旺盛な心を持ってこの世に生を受けるのですが、過保護にされてしまうと、努力しないで目標に辿り着けるので、依存的な子どもになってしまいます。また過干渉にさらされると、本来自分で決めたい、自分で判断したい、という欲求があるので、自分なりの理屈や方法を編み出そうとして、反抗的になりがちです。

もう一つ、やってはいけない子育てが「放任」です。ネグレクト、育児放棄です。大人は子どもをしっかりみて理解し、子どもが困ったときに駆け込める避難場所、安全基地になってあげる必要があります。愛着(アタッチメント)というのは、この安全基地に大人がなるということです。不安になったり、困ったりしたときに、あそこに行けば助けてもらえるという見通しを持てる位置に、大人はどっしりと構えてあげるといいのです。エネルギーを補給に来たら補ってあげてください。気持ちをうけとめてあげて、しっかり応答しましょう。しっかりと抱きしめてげましょう。そうすると、子どもは回復してまた元気に遊び始めるでしょう。自分から離れます。大人は手を離すだけです。これを「ハンドオフ」するといい、日本語では「見守ること」に相当します。

自ら考えて判断する力、失敗しても挫けずに立ち直る力、自分で目標を立ててそれに打ち込む力、こういった力を使う機会を保障しましょう。すると、結果的に、その子育ての姿は「見守る保育」という姿になります。しかし、見守ることができるためには、いくつかの条件が必要になります。その一つが、自分らしさを発揮できる生活であること、一人ひとり異なる欲求が満たされるようなことを選べる環境になっていること、そして、子ども同士の豊かな関係があることです。この3条件が揃って初めて、見守ることができます。ただ3つ目の条件は家庭では難しいかもしれません。家庭には子ども同士で何かをして遊んだり、協力して何かを生み出したりできる環境に乏しいからです。

自分と相手の間にコミュニケーションを取りながら生活を作り出す当事者になること。これを生活への「参画」と言うのですが、昔、倉橋惣三はこれを「生活を生活で生活へ」と言いました。今では「環境を通した保育」と「子ども主体の保育」を併せて「社会生活者の一員として責任を持って、よりよい生活づくりに参画する」という意味になります。

遊びの中の学び

2022/02/04

いつもは2階で生活している、にこにこ組(2歳時クラス)の子どもたちが、今日の午前中3階で遊びました。4月からの生活に向けた移行保育です。絵本、ごっこ、制作、パズル、運動などのゾーンを選んでいます。この時期の移行保育で大切な事は、それぞれのゾーンに何があり、どのように使えば楽しい体験ができるのか、その使い方や遊び方を学ぶことです。

遊び方を学ぶ。遊びが学びである。似たような言葉ですが、実は内容は随分違います。遊び方を学ぶと言うのは、そこにあるものとの関わり方を学んでいます。ものをどのように取り出して、どのように扱うのか、終わったらどこにしまうのか、危なくないよな扱い方や、ものが壊れないような使い方などを学んでいます。

遊びが学びであると言うのは、そのものや場所と関わりながら体験していることが、身に付いていくと言うことです。どの場所で何をして、どのように遊ぶかは、それぞれの子どもたちが自由に感じ、考え、試したりして、いろいろやってみていいわけですが、その時に使っている身体的な機能や、精神的な機能、そして子ども同士の関わりの中で生まれる社会性の機能などが、使われています。

子供たちは、自分たちが既に持っている機能を、新しい環境の中で、新しい関わり方を覚えながら、自らの機能をより発達させていることになります。自分が既に持っている様々な能力を、環境と関わることによって、さらに伸ばしているわけです。自分が既に持っている能力が、コップの中の水だとしたら、新しい環境で過ごしながら、新たな能力がコップの中に注ぎ込まれているといえます。

自分が持っている力を、自発的に使おうとする傾向は人間は必ず持っており、これを「自発的使用の原理」と、昔、イスラエルの研究者ジャーシルドは言いました。子どもが、これもやりたいあれもやりたいと、何かをやりたがるときは、発達における意味がそこにあって、それをやることによって使われている能力が伸びようとしている、と捉えます。

にこにこさん達のやりたがっている様子を見ていると、「あーこんな所の力が伸びようとしてるんだな」と見えてきます。人の能力は、使わないと伸びないのです。そして、その能力が十分に獲得されて、新たな機能を伸ばそうとして別のことをやり始めることを「熱中転移の原理」といいます。その子にとっての次の発達課題、熱中してやり始めるテーマがそこに現れます。

これらは遊びの中の学び、と言うことが言えますが、小学校以降になってくると、意識して行う学び、自覚的な学び、と言う傾向が強くなっていきます。遊びと学びが分離されていくのですが、遊びの持っている要素が漂白されていて、繰り返し使用することが自発的ではなくなり、繰り返し行う内容が指定され、やり方も統一されることを勉強といいます。

学校教育の学びは、こちらの傾向がどうしても強くなるので、本来広い意味を持っている学びと言う言葉が、場合によっては狭い意味の勉強と捉えられてしまい、本人も学ぶ事は苦痛なものだと勘違いしてしまう不幸が発生しています。

そして本当にクリエイティブな仕事や、創造的な仕事に熱中している時、遊んでいるときのワクワク感や楽しさが含まれていて、本来の学びに近いものになります。ルドルフ・シュタイナーは、学校の授業も芸術的なやり方にしなさいと言っていました。それは質の良い遊びは、自身の発達にとって深い意味を持つ探究活動になっていると言うことです。移行保育中のにこにこさん達の姿を見ていると、遊びの中に自分にとって必要な能力を使える場所を探しているように見えました。

節分の日に出ていくものと入ってくるもの

2022/02/03

自らの力を引き出すことが教育であり、期待されていることを取り入れることも教育である。そんな話の続きを考えていたら、今日は子どもたちが元気に「鬼は外、福は内」と豆まきをしたので、なんだか、水ではなくて豆の話をしたくなりました。なぜ節分で豆を巻くのかという「いわれ」に関する絵本を、先生に読んでもらった後、実際に豆まきをしたのですが(クラスブログをご覧ください)、ここで追い払う鬼が象徴しているものは、人間につけ入ってくる「魔」たちのことですから、これを「滅」するために、豆(まめ)を撒くという説があります。語呂合わせ説です。

その真偽はともなく、邪悪なものと善良なものが、何かの力や人間の知恵などによって交代する、入れ替わるという話が、世界中に見られる物語であり、邪悪なものとして、鬼や悪魔や怪物や化け物などが生み出されてきました。そして、大抵、それらの「魔」たちは、人間に謎めいた問いを投げかけ、人間が答えられたら、魔の仕打ちから解放されたり、許されたりするというパターンになっています。

この物語の構造は、ずっと昔から、人生の謎、命の神秘といった事柄の真実を会得した者たちが、その真実をこの世の言葉で喩えたときに出来上がるお話なのでしょう。約束をして守らないこと、嘘をついて人を騙すこと、そういった行為は自分と他人の人生を傷つけることになるため、人々の間で戒められれてきたことがわかります。鬼や福は、一体何を意味しているのか。寺や神社で節分の豆まきをするのは、この年中行事によって「謂われ」の中に息づいている倫理的な人間性の意味を、思い出すためなのかもしれません。

コップの水としてのエージェンシー(主体性)

2022/02/02

屋上で遊んできた子たちが玄関に戻ってきました。年長のTくんが私に鬼ごっこで遊んだことを説明してくれます。ん、すごい!面白い!と感じたのは(成長を感じたのは)、彼の話の中には「楽しかったこと」もありますが、集団として思い通りにいかないことへの不満が含まれていることです。自分のことだけではなく、年長組すいすいとして期待されていることがうまくいくことを望んでいることがわかります。子どもの成長は自分ができたことへの喜びだけではなく、自分も含めて、その集団が目指している目的が達成されることへの喜びへと発達してきていることがわかります。

このような個人の成長は、個人の「自立」であると同時に、仲間意識が色濃い集団の中でしか望めない「協同性」の育ちと言えます。自分が所属している小さな社会(ここでは、年長組)が、よりよくなることを望み、その一員としての自分と他者を振り返ることができるようになっているのです。この子は友達の行為について、目的を達成するための行いとして捉えています。このような主体性は、これからも時代に必要な力の中で、ますます重視されいくものになっていくでしょう。

こんなこともありました。3階の積み木ゾーンに、新しい遊具が導入されて、ビー玉がジグザグに転がってきて、ポトンと落ちる受け皿として、まだ箱に入って出されていないパーツを使いたい、というのです。ところが、私が出してあげようとすると「まだ◯◯先生がいいと言ってないから」と、合意を得るプロセスを優先させようとします。「小さな社会」の中で決まっているルールを変更するためには、ある種の手続きがあって、そのプロセスにこだわるあたりにも「協同性」を感じます。

ここで、あえて「これからの時代に必要な力」という言い方をしたのは、昨日までの話で出てきた外から中に注ぎ込まれる「コップの水」だということに、着目して欲しいからです。ここで紹介したよう子どもの主体性をエージェンシー(Agency)といいます。OECDの「エデュケーション2030」プロジェクトで、最重要なキーワードになっています。その定義は「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する力」のことで、行為主体、とか行為主体性、などと訳されているようです。

しかし、一方でこの水は、社会の中でこそ発揮される力でもあるのですが、ポイントはその社会がよりよくなるために、そのメンバーである個人が責任感を感じながら目標を達成させようとする自発性が育っているかどうかにあります。つまり「コップの中の水」が引き出される側面もあるのです。自発性が発揮される場面は、子ども同士という集団が生み出す活動(鬼ごっこ)や目的(より楽しい活動など)であるのでしょう。主体性という育ちは、外からとも、内からとも区切られない「水」だと言えます。社会性の育ちは個人と集団の両立の中に見られます。

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