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絵本(保育アーカイブ)

絵本を何度も繰り返しよむ意味

2020/08/21

「こたえ、いっちゃダメだよ。つまんなくなるから」と年長のSさんが言います。お友達が絵本のページを開くと、すかさず「これとこれと・・」と答えを言ってしまうからです。絵本を楽しむ流儀というものが、子どもたちなりにあって、ちゃんと楽しみたい、という感覚を求めていることが伝わってきた場面でした。

私は今日夕方、3階の絵本ゾーンの整理をしていたら、二人が私の両隣に座って「これよもう」と誘ってきたのですが、何冊目かの絵本が「トリックアートおばけやしき」だったのです。見開きページの左側に、クイズのように「○○はどこにあるでしょう?」のような「問い」があって、その問いにしたがって「だまし絵」や「錯覚図」など楽しむ絵本になっているのです。

私が、その絵本の文章を読み終わってから、Sさんは「髑髏(ドクロ)はここだよ」とか「コウモリはここ、とここ」とかやりたいのです。なのでSさんはフライング気味のお友達に「まだ、言っちゃダメだよ」と嗜めるのでした。

この言葉というか、その時の仕草や口調、雰囲気には「自分がやりたいんだから邪魔しないでほしい」という感じもあるのですが、それよりも「ちゃんと手順を踏んで楽しみたいんだから」というニュアンスの方が強いのです。二人とも何度も読んでいる絵本だけに、答えは9割がたわかっていても、面白いからまたやりたいという、その気持ち。ちゃんと最初からやりたいという感覚。これ、なんだから、よくわかります。この感覚は「きちんと」とか「ちゃんと」とかの言葉で表す何かなのですが、鑑賞や探究や学びの質と似ていてる、あるとても大切なプロセス感覚だと思います。そういう姿勢を育て、引き出す力があるのは、絵本がアートになっているゆえんでしょう。

何かをよく味わい尽くすとき、ある種の方法や手順が重視されるということがあります。例えばプロ棋士は将棋の勝負が終わると、感想戦というのをします。初手から巻き戻して、戦局の節目で「どっちが良かったのか」を指し直してみるのです。実践では頭の中で数十手先までシミュレーションした上で、最善手を選んでいくのですが、それが本当にそうだったのか、もう一度盤上で再現してみます。

絵本も何度も何度も読んでいる時、子どもにとって初読と再読と再々読と・・そのたびに深まっていったり、別の観点に着目していたり、新たな発見があったりしていて、概ねその多面的な探索を経て味わい尽くしたら、いったん「おしまい」になるのかもしれません。そして数年経って、同じ絵本を見てみると、きっとまた新しい発見があるものなのです。

ただ、この時期の子どもたちの最大の特徴は、ここで何度も繰り返してきたことになってしまいますが、棋士の感想戦と同じように、遊びとして再現すること、つまり模倣遊びやごっこ遊びとして繰り返されるということです。絵本を何度も読みたいということが、模倣遊びの衝動と同じだということです。ですから、ごっこ遊びもまた、「きちんと」「ちゃんと」再現されていくことが楽しいのでしょう。

進め!子どもたち。

2020/08/20

子育ての長い旅の途中には、思いもよらない出来事があるものです。例えば、今日も遊んでいるときに、子どもが列を作って並んでいました。子どもたちは、早くそれをやりたいから、順番を競ってケンカになったり、涙さえ流します。またある時は、大人の目から見たら、とるに足らないような小さなことなのですが、当事者にしてみれば、絶対に譲れない大事なことなんだろうと想像できることがありました。

子どもたちのこの「切実さ」たるや、大人には決して「かなわないな」と思えます。その時は私は「もう勘弁してよ」と降参気味だったり、あるいは「ハア、どうして、そうなちゃうのかな」と諦めモードになったり。でも、こうやって今振り返ると「子どもって凄なあ」と本気で感心していまうことだらけです。私たち保育者も、個人差はありますが、そういう感情の揺れ動きを味わいながら、自分とも向き合って子どもと接していることになります。

ただ、どんな大人にも、こんな幼少の頃の時間があったに違いなく、みんな自分のことは、きれいさっぱり忘れてしまっているだけでしょう。自分の過去のことは棚に上げておいて、大人が生きている世界の価値観やら、待ってくれない刻まれていく生活の流れの中で、子どもの行動の結果を問題にしてしまいます。昔からきっとそんなことが繰り返されてきたのでしょうね。それにしても、子どもの切実な願いは、どうやったら理解できるのでしょうか。

ただ泣くばかりの子どもを相手にしている時は、なおさらでしょう。その状況の中に放り込まれたら、誰だって平常心ではいられません。今日も私は、そんな出来事の連続の中で、自己との対話を繰り返しています。というと、ちょっとかっこいいですが、要するに、今日も悩んだり困ったりしていました。しかし、それをなくそうとも思わないし、またそうあることが自然なことでもあるのです。

私はこう思うようにしています。子育ての大前提としての心構えは、こうです。

「子どもはまだ数年しか生きていない。だから、自己中心的だし、失敗もするし、他人のいうことなんか聞けない。それが当たり前なんだ。これを裏返せば、こんなに自分というものをしっかり持ち、伸び代がいっぱいあって、はっきりとやりたいことを自己主張できる。最高じゃないか!」

「もし、これが反対だったら、もっと困ることになる。まだ数年しか生きていないから、自分というものがなく、何事も興味がなくて挑戦もせず、相手のことばかり優先して自分を抑えていい子になっている。こうなったら大変だ!」

時代は止まってくれません。忙しいこの世界の中で、未来の可能性をどこに見出すことができるでしょう。それはやっぱり子どもたちなのでしょう。子どもたちのパワーがどこから来るのか。その「しるし」を表しているなあと思うのが奈良美智の描くベイビーです。8月15日に取り上げようと思っていた絵本ですが、これは大人向け絵本でもあるので、こんな文脈の日記での紹介となりました。進め!子どもたち。

うんとこしょ、どっこいしょ

2020/08/19

今日は朝から大根3本、サツマイモ4本、ゴボウ2本を引き抜きました。とても大きく育っていて、なかなか抜けないので「うんとこしょ、どっこいしょ。それでも、ゴボウは抜けません」と、何回かやって、やっと抜けるのでした。抜けた野菜はその場で洗って、生のまま「むしゃむしゃ、美味しいなあ」といって、いただきました。根菜は洗われるときも、食べられる時も、ケラケラ、ぎゃあぎゃ笑って幸せそうでした。

朝9時ごろから3階で運動遊びをしていると、いつの間にか子どもたちは野菜になっていて、私に「引っ張って」(抜いて)というのです。うつ伏せになって、床のマットの端を両手でしっかり握って、私が両足を持って引っ張るという「野菜抜き遊び」なのですが、抜かれるもんか!と必死でしがみついているので、最初はなかなか抜けないフリをしてあげるのですが、徐々に力を入れて「うんとこしょ」とやると、スコーンと抜ける時、子どもたちは、それが嬉しいのです。もう一回!といって、またうつ伏せに寝転がります。

「うんとこしょ、どっこいしょ」

何気なく、調子のいいリズムで、それでもかぶは抜けません。とやっているのですが、もちろん、そうさせているのは1962年発行の『おおきなかぶ』があったからです。私たち保育者と子どもたちは、知らず知らずのうちに、日本ならではのこの児童文化に浸っているという事実に気づきます。さらにトルストイのおかげかもしれませんが。

このロシア民話を訳したのは、1928年東京生まれの内田梨紗子さん。私が前いた保育園ができた年の1997年に亡くなられていたことを後で知ります。早稲田大学露文科を卒業しているので、さすがロシア・東欧の児童文学にすこぶる詳しい方で、東欧の昔話や民話を日本に多数く翻訳して紹介してくださいました。ロシア語では、なんと発音するのか分かりませんが、よくぞ「うんとこしょ、どっこいしょ、それでも〜」と訳されたものです。この『おおきなかぶ』をはじめ『てぶくろ』や『ちいさなヒッポ』そして『しずくのぼうけん』も、内田さんです。

さて「うんとこしょ」が終わると、子どもたちは今度は野菜から動物になっていました。というより、私がエンチョウライオンにさせられていたのですが、ライオンは高いところに登れないから、小猿たちが枝振りのいい大きな木(ネットやクライミングウォール)に登って「ここなら捕まらないよ〜」とか「ここまでおいで!」などと囃立てるのです。私はライオンだったりワニだったりして、見守る保育どころか、まだ遊びの相手をしているのですが、どうやったら子どもたち同士で遊びへと発展していくのか、その見通しを想像すると楽しくなります。

そうなるには、子ども同士が再現したいと思う「物語」を共有することが必要なのです。子どもたちが再現したがるお話が、まあテレビのアニメやレンジャーものであってもいいのですが、そこには繰り返し味わえる心情やリズムが乏しい。呼吸を合わせて、ハラハラドキドキできるような物語、例えば北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』(1959年)のような世界を楽しみたい。私がトロルをやらされている時、きっと子ども同士での遊びが作られていくことでしょう。

「がらがらどん」は、これを手掛けたのは日本の児童文学の大御所である瀬田貞二。あのトールキンの指輪物語を訳した人です。「こどものとも」でも、ダントツに多いのですが、福音館書店の絵本をホームページでざっと拾い上げてみると、「あふりかのたいこ」「かさじぞう」「 ねずみじょうど」「三びきのこぶた」「ふるやのもり」「おんちょろちょろ」「お父さんのラッパばなし」「きょうはなんのひ?」など、よく知られるものばかりですね。岩波書店の「わらしべ長者」も瀬田貞二の再話です。

子ども同士の遊びの中でも、年中、年長ぐらいになると、登場人物を演じ合う<物語遊び>を楽しめるようになっていくのですが、そのためにも絵本による物語が大きな力を持っていることになります。内容が楽しく、それを再現したいという衝動をもたらすアート性、つまりごっこ遊びが表象になるということですが、これは「こどものとも」が発刊される頃にはびこっていた「童心主義」の絵本では、できなかった遊びなのです。

童心主義とは子どもの感性を絶対視して子どもの世界を理想化するような傾向のある、一種、センチメンタルな物語です。これらの絵本は教育臭くて子どもが再現したいという衝動になりにくいのでした。

幼少期の実体験が心を豊かに

2020/08/18

今日も一冊の絵本を4歳の男の子とよんだ。いわむらかずおの「ねずみのかいすいよく」。いま大きめの書店にいくと「夏の絵本特集」をやっていて、1986年に発行されたこの絵本も並んでいるから、かなりのロングセラーだろう。いわむらかずおといえば、「14ひき」の方を思い浮かべるはずですが、ねずみの7つ子シリーズの方も、あの自然と家族をあったかく描いていて、同じ世界が展開されています。

彼の絵本は、見開きの絵を、じっくりと味わえるのが楽しい。1匹ずつのやっていることを、確かめながら、次の展開をワクワクしながら進んでいく。先にお話があって、それに理解を促すために挿絵が付いているようなものとは次元が違うんです。絵のクオリティがすごい。一枚一枚の絵とその世界が深い。本人も雑木林に住み、農作業をしたり、丹念に取材して生き物を深く理解していないと描けない世界だから、ずっと大切にしておきたいと思える絵本ですね。

ところで、彼の描くどうぶつは、みんな純粋でいい人(動物)ばかりで、野ネズミたちが、自然界の厳しい現実や生活の知恵に目を見張る姿に、こちらまで共感してしまって、大人も心を動かされるのですよね。それにしても、このねずみたちが驚いたり、心配したり、ほっとしたりしている気持ちを、7ひきにしても14ひきにしても個性的に描ききる表現力はすごいですね。点で描いた目があんなに豊かな表情を描き出すというのは、見事です。

1939年生まれの本名、岩村和朗が、どうやって絵本作家になっいったのか、そこで何を大切にしてきたのか、どうして美術館の活動をしているのか、そうした経緯を辿っていくと、ちょっと話は長くなるのでやめますが、ただ保育と絵本の関係を考えるとき、彼が大切にしている1つの信念を紹介しておきましょう。実に平凡な結論なのですが「自然の体験が心を豊かにするもとになる」ということです。

「絵本だけではなく、自然の実体験をたくさんもつことは、心を豊かにするもとなると思うんです。音楽を聞いたり、絵本や小説を読んだときでも、そこに描かれたことが心を揺さぶるのは、そういう自然の体験がもとになっていると思うんです。ふーっと風に吹かれた時の感覚が、ある表現と接した時によみがえるような、何かそういう体験をたくさん持っているといいんじゃないかなあ」(「別冊太陽〜絵本の作家たちⅢ」2005年)

 

 

どうぶつたちのいるところ

2020/08/17

もう少し絵本の話を続けましょう。絵本には洋の東西を問わず決まって動物が出てきます。改めて考えてみると不思議なことですが、動物の出てこない絵本の方が珍しい。子どもは人間だと生々しくて想像の翼を広げにくいいのでしょう。動物だったら、どんなことだってできそうだし、突然、現れたり、いなくなったりしてもおかしくありません。ワニの尻尾にキャンディーを結びつけたり、ノネズミが大きな卵焼きを焼いたり、お風呂の中から動物たちがたくさん出てきて鬼ごっこを始めても、ちっともおかしくありません。どうも子どもというのは、もともとそんな世界の中に住んでいたのに、まちがえて人間の子どもの格好をしているんじゃないかしらん、と思えるほどです。

これは絵本を読んでいる時に限りません。今日17日も朝、緑の島から緑の島へ、ターザンロープにぶら下がって飛び移るという遊びを始めたので、私が「ここはジャングルだよ。青いマットはアマゾン川だから、落ちたらエンチョウワニが食べちゃうからね」と、大きな口を開けて、ガブっ〜とやっていたら、クライミングやらネットやらトランポリンやら、バイク乗りごっこやらをやっていた子どもたちが、あっという間に、列を作ってしまったのでした。いま思うに、これは「ごっこ力」のなせる技であり、地球のような「引力」じゃなくて、その代わりに「想像力」が働く「子ども星」に住む彼らは、動物たちと自然に心を通わせることができるのでしょう。きっと、そうに違いありません。ガブ〜。

 

「生きている絵本」を子どもに

2020/08/16

絵本の歴史を遡っていくと、明治30年代中頃に成立したと考えられる「口演童話」にまで遡ります。その代表は児童文学者の巌谷小波(いわや・さざなみ)ですが、現代に伝わる日本民話を「童話」として再生させたました。

それが私たちが絵本で知っている「桃太郎」や「浦島太郎」です。江戸時代まで語り継がれていた伝説や民話はその地方の方言ですから、その語りを標準語化したものが、明治期になって盛んに「再話」されたことになります。

その具体的な本が私の手元にあります。ずいぶん前に古本屋で手に入れた平凡社の東洋文庫シリーズ220「日本お伽集」(昭和47年初版)があるのですが、これは培風館が大正13年に発行した「標準お伽文庫」全6巻の復刻版です。巻末の解説で、瀬田貞ニが、この文庫が正式に省みられず、なんら言及されないで放置されていたことがおかしいと書いています。それだけ、「子ども向け」はまだ、社会全体が重要視していなかったのかもしれません。

日本の創作児童文学の歴史が始まります。小川未明、浜田広介、坪田譲治、酒井朝彦らの作品です。ただ、これらはあまり読み継がれていないのは、どうしてでしょうか。上笙一郎と山崎朋子の「日本の幼稚園」(1964年理論社)はこのように書いています。

「日本の創作児童文学のほうをながめると、こちらは、どちらかというと子どもから背を向けられることが多かったーーーと言わなくてはなりません。発展してくるあいだに、芸術的には高度になったけれども、それと引きかえに、おもしろさをなくしてしまい、ために、読者たる子どもたちにそむかれてしまったのです。」

まだ誰も子どもの保育をしたことがない文学作家による高尚な文芸作品になっていったのかもしれません。

その一方で、古来から語り継がれてきた民話や伝説は、子ども向けの「お伽話」になっていく過程で、富国強兵と和魂洋才によって歪んでしまいます。時代は当時の幼稚園にも影響を与えています。

この「日本の幼稚園」という本には、口演童話家が創設した2つの幼稚園が紹介されているのですが、いずれも、桃太郎主義の保育(体育主義の訓練や鍛錬が「桃太郎は泣きません」という精神主義、団体主義に陥っている保育)になっていたと書いています。

そしてその記述は、最後にこう続きます。

「第二次世界大戦ののち二十年近くたった昨今(1964年)になって、日本の児童文学の世界には、いるい・とみこの「長い長いペンギンの話」や「北極のムーシカ・ミーシカ」、それに中川李枝子の「いやいいやえん」など、すぐれた幼年童話が誕生しました。・・これらの作品は、小波以来、分裂してしまってまじわることのなかった<芸術性>と<おもしろさ>との統一の端緒を、ようやくつかんだものということができます。・・・日本の創作児童文学の<子ども忘れ>を乗り越える幼年童話が、幼稚園や保育所に深いつながりを持つ作家によって書かれはじめたのは、決して偶然なことではなかったのです」

それでは、中川李枝子さん本人は、どんな絵本を目指していたのでしょうか。彼女が実際にいいと思った絵本101冊のリストとコメントの載った本があります。「絵本と私」(福音館書店、1996年)です。「てぶくろ」に始まって「あおい目のねこ」まで。保育で実際に読んだ時の反応なども書いてあって、私たち保育者には必携書です。この101冊も「ちよだせいが文庫」に揃える予定です。

最後に夫で画家の中川宗弥さんが、絵本の条件をこう書いています。

「絵本の表現でも文章の表現でも、そこにあるものが生きているようにかかれてるのではなく、生きていなければならないのです。つくりこごとであったら、子どもは絵本の世界のなかで喜んだり、恐れたり、悲しんだり、楽しんだりすることができません。それから、きたならしく、みにくく、まずしく、あわれな、そういう絵本のなかに子どもを連れこんではならないと思います」

ちょっとわかりづらい話になってしまいましたが、現在の絵本は、子どもにとって面白く、楽しいものになっているのは間違いありません。おとぎ話ぐらいしかなかった時代に比べれば、いかに恵まれていることか。

ただ返って、多すぎる絵本の中から、子どもたちは何を読んだらいいのか、子どもたちに何を手渡したらいいのか、その選択に悩む時代になったと言うことです。福音館書店のサイトには絵本の選び方が載っています。

https://www.fukuinkan.co.jp/pdf/ataekata.pdf

絵本はその世界に一緒にいるだけ

2020/08/15

今週は子どもと一緒に絵本を楽しんだ時間が多かった気がします。「これよんで」と持ってくるので、「どれどれ」と読み始めるだけ。お気に入りの絵本を私とわかり合いたいという気持ちでいるので、要するに絵本で一緒に遊ぼう、と誘われているのです。

その時はぐんぐんの子でした。読んであげていたら、お話の内容は知っているからなのか、私がまだ読み終わらないうちに、どんどん、次のページをめくりたがります。そしてお目当ての絵が出たら、指差して「これ」(ね!という気持ちなんですが)というので、私も「(そうだ)ね!」と、応えてあげます。

子どもの「お気に入り」は、絵本のお話の展開とは関係のないことが多くて、よんでいると「こっちはライオンいないんだよ」と教えてくれます。ピンク色のウサギが3羽出てくる絵本では、指を器用に広げて、三箇所を同時に指します。手が小さいので、やっとのことで指先が届くのですが、それをしないと気が済まないようです。

「こどものとも」創刊の編集者である福音館書店の松居直さんが雑誌「東京人」(2001年NO168)で、あの「おふろだいすき」の松岡享子さんと対談していて、絵と文のバランスについて語っています。絵本に向いている文とそうでない文があるというのです。

「原稿を読み終わったときに、私の中に絵本ができていたんです。あっ、絵本なる! 子どもが喜ぶと実感して、大村百合子さんのところに、絵を描いてくださいって、飛んで行きました」。どの絵本だと思いますか。最初は「たまご」という題だったそうです。そう、あの「ぐりとぐら」です。

1963年に出版されたこの大ロングセラー絵本「ぐりとぐら」は、日本では親子2代、あるいは3代に渡って親しまれているかもしれません。作者の中川李枝子さんは保母さんだったので、その前年のデビュー作「いやいやえん」は保育園で働きながら書いたそうで、同名の絵本には「ちゅーりっぷほいくえん」「くまのこぐちゃん」など7篇が収録されています。

挿絵はずっとペアで作り上げてきている、実の妹の大村百合子さん(のち結婚後は山脇百合子)です。今では、子どもをものおきに、忘れた約束を思い出しにいかせたりはできませんが、子どもの心の動きが生き生きと描かれていいます。

ちなみに「くじらとり」はスタジオジブリがアニメにしており、三鷹の森ジブリ美術館の上映作品リストに入っています。私はこちらの童話の方が、子どもの想像力=イマジネーション力がよく描かれていて大好きです。

教室にどんどん水が入ってきて、船が浮かび、出航する光景は子どもが想像している世界を、そのまま映像にしたような作品になっていて、大人が見ても心動かされました。その16分のアニメを見たとき、宮崎駿が子どもの「想像世界」を、さらに動くファンタジーに仕立てたいと思う気持ちがよくわかりました。

そういえば昨日14日、となりのトトロがテレビで放映されていましたが、「さんぽ」などの歌詞も中川さんです。

 

(今日は戦争ものの絵本について書こうかと思いましたが、それはまた別の機会しましょう。ただ戦争中は、戦意高揚の絵本がいろいろ出回ったのですが、その挿絵を拒否した画家の女性たちがいたことに触れておきたいと思います)

お盆の日に

2020/08/14

子どもが熱中して遊んでいる証(あかし)をどのように伝えたらいいのだろう。最もいいのは、それを家でも園でも子ども本人が「またやりたい」という気持ちを伝えてくれる時かもしれません。いくら上手な絵になったり、他人が撮った一瞬の写真を見ても、本人がそうかどうかは、本当は本人しかわからない。だから、「ああ、面白かった」「ああ、楽しかった」「ああ、美味しかった」という、素直な満足感が、もっとも信用できるんじゃないか。子どもは楽しかったことを、楽しくなかったと嘘はつけないものなので、素直な笑顔を見ると、幸せな気持ちになります。今日14日も、そんな安心感を持って眺めていた時間がたっぷりあった1日でした。

微笑ましかったのは、どうして泣いているのかな、と思って見ていたら「お腹減ったよ。早くお昼ご飯にして」とせがんでいるちっちさん。あの絵本、この絵本、あのお話、あのうた歌って!と、リクエストが終わらないぐんぐんさん。飽くなき好奇心に溢れています。

レゴブロックを長く繋いで「たか〜い」と見せ合っているにこにこさん。いろんなことを僕も私も「自分で」やりたいよね。

動物将棋にハマっているわいわいさん。うーんと考えている姿は立派な棋士だね。

つながる花形ピースで大きな怪獣を作っているらんらんさんは、すごい造形家です。

クーゲルバーンでビー玉を転がしては、自分たちが笑い転げているすいすいさん。君たちこそビー玉だね。

どの子も、いい感じです。

こんな時間がずっとずっと続きますように。そしてこの時間は、過去の多くの人たちによって叶えられ、支えられていることに感謝しなければなりません。納涼会の前から飾っている盆踊りの提灯ですが、もしお目見えいただいているご先祖様がいらしたら、この子どもたちの姿にきっと喜んでもらえるんじゃないかと思います。

よい絵本ってなんだろう?

2020/08/12

◆「ちよだせいがぶんこ」の蔵書方針

今年はこの7月ぐらいの間、ずっと保育における「言葉」について考えてきました。大学生にそのテーマで15回分の資料を作ったからです。その中には、絵本などの児童文化も含まれるのですが、保育園で使う絵本の他に、お貸しする「ちよだせいがぶんこ」もあるので、絵本についての考え方を少しお話しします。絵本に関して「別冊太陽」の特集など、いろいろなものがあるので参考にしてきましたが、毎年、幼児向けの図書は3000点も出版されているので、星の数ほどある絵本の中から、何を選ぶのかは大変です。そこである程度、ロングセラーとなっているものや有名なものから選ぶことになるのですが・・・。

◆よい絵本の3条件

まず、よい絵本とはなんでしょうか? 長らく保育の世界で仕事をしてきた私としては、この質問については、次のように答えてきました。良質な絵本と言われているものは、大抵は大人が良かれと思って選んだものであり、子どもに聞いて決めたことはほとんどありません。そうなってしまっているのは、もちろん子どもに聞いてもわからないから、という事情もあります。そこで私が「よい」絵本だと思うものは、次のような特徴があります。

その1つは、まずは子どもがそれを「好む」ということです。2つ目は良質な物語(ストーリー)があり、絵本の絵や言葉が「アート」である、ことです。3つ目は大人にとっても魅力的であることです。大人が魅了されていないと子どもに伝えようと思えないからです。いい絵本というものについては、細かな条件がいろいろありますが、大きく分類すると、この3つの要素が重なり合っているように思えます。子どもにとってという視点、それから中身、内容のよさ、そして大人にとっても「これはいい」と思えること、この3要素があってほしいのです。

◆全国学校図書館協議会(SLA)

実際にどんな絵本があるのか、どうやって選べばいいか、いろいろなものを紹介していきたいと思いますが、まずは安全パイになりそうなのサイトであり、困ったときには、このサイトをお勧めしています。全国学校図書館協議会(SLA)のホームページです。ここには「よい絵本」の選定基準と絵本リストの解説が出ていて、とても便利です。

https://www.j-sla.or.jp/recommend/yoiehon-top.html

 

むかし話に学ぶシンプルな価値観

2019/12/30

テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。

せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。

「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。

これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。

もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。

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