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保育アーカイブ

青山星灯篭のダンス

2021/09/23

最近よく考えていることは、子どもの中にある「イメージの可視化」です。旧今川中学校の校庭で「鬼ごっこ」をしたときに、地面に引いてある線の上を夢中で歩き始めた子(9月14日)。アゲハ蝶を外に放すときに迸り出てきた言葉の数々(9月22日)。青木さんのダンスの時間に「こんなのどう?」っていうふうに見せてくれるポーズ(9月21日)。こんな瞬間はたくさんあるのですが、それでも旧今川中へ行かなかったら、アゲハを育てなかったら、コンテンポラリーダンスをしなかったら、そうした子どもの姿を確認することはできなかったでしょう。やってみなけりゃわからない(9月18日)ものです。

子どもの内面は「どうせ本人にしか分からないもの」と諦めてはいけません。やり方によって、子どもはそれを「表現」してくれることがあるのです。その「やり方」は色々で、こうじゃないといけない、というわけではないのですが、ただ共通するのは<何かと強く関係する状態のとき>であるのは間違いありません。校庭の地面の線に触発されて(ギブソンのアフォーダンス)その上を歩き出したことにも、<地面という物との関係>があります。何日もアゲハの世界に向き合いお世話をして育てたからこそ、子どもの中に優しい心情が育ったという<生き物への関わりという関係>があります(ノディングスのケアリング)。そしてインプロビゼーション(即興的表現)のダンスにおいても、自分と自分の身体との関係、あるいは自分の身体と見られている他者との関係があります。

昨日9月22日(水)の夜、北青山で青木さんのダンスグループZerOの野外公演を観てきました。高層住宅マンションを含む再開発された街「ののあおやま」の敷地中には、雑木林やビオトープ、遊び場やステージができています。夜空は満月。お彼岸のこの時期らしく、雑木林の中に22の灯篭が並んでいました。よそぐ風が涼しく、秋の虫の音も聞こえてきます。赤い灯籠が並んでいるのは理由があって、地元の有志が集まって江戸時代のある風景を蘇らせようとしているそうです。その風景とは歌川広重が約160年前に描いた浮世絵「青山星灯篭」の景色です(下の写真)。灯篭は二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うもので、5年前から地元のギャラリーや善光寺で始まり、2年前から「ののあおやま」も加わりました。

なぜこんな経過を説明しているかというと、この歴史と舞台環境を知っていないと、青木さんのダンスの意味がわからないからです。この夜に演じられたダンスのタイトルは「もりのダンス」です。江戸時代から明治時代初期まで、青山・百人町周辺で行われてきた「星灯篭」がコンセプトです。イベントの企画者の意図は「逝きし人を偲び、土地の記憶を訪ね、地域の環境と文化を体験すること」というもの。ダンスを観るということが、古の祖先や両親、周りの方々へ感謝するような気持ちをダンスで表現しているように思えました。

子どもの内面に限らず、外から見える「表現」は、その表現を生み出している側の内面に動いているイメージがあるからです。現代アートが難しく思えるのは、その関係が見えにくいからです。どんなふうに「見えにくいのか」というと、見えやすいものと比較してみるとわかりやすいかもしれません。

子どもが「象さん」のイメージを持てば、象さんのつもりのダンスになります。見ていればすぐに「象さんね」とわかります。それは他の子どもにもわかります。では、そのイメージが「はらべこあおむし」だったら? アゲハ蝶だったら? これだったらその「お話」を知っているので、知っているもの同士でお互いに通じ合うでしょう。一年目のお楽しみ会の劇にもしました。誕生会でペープサートにして楽しみました。さあ、ここからが今日の日記のお題です。

それでは満月だったら、どうなるでしょう? お彼岸だったら? 人間も自然の一部、という考えだったら? 祈りだったら? 感謝だったら? それはどんなダンスになるでしょうか。それを青木さんたちは演じたのです。そこには、こうじゃなければ、という統一された振り付けがあるのではなく、それぞれの演者が直観する動きが折り重なって「わあっ・・すごい」という日本らしい風情を目の前に表してくれていました。素晴らしいものでした。

きっと子どもの表現にもそれがあるのです。言葉、作ったもの、積み木を並べたもの、描いたもの、叩いてみる楽器、鳴らしてみる音、走っている姿、飛び跳ねている瞬間、何かに感動しているとき。子どもの心の動き、イメージの躍動。それをなんとか「表現」にしていく営みの工夫が、創造と協働(協同)を目指すレッジョ・エミリア市の保育実践でしたし、イメージを可視化して子どもと子ども、子どもと大人、園と地域が繋がっていくために記録(ドキュメンテーション)があるのでした(9月17日)。

中秋の身体で表現する「なんかいいやつ」

2021/09/21

今日は中秋の名月にふさわしい表現活動の日になりました。

アーティストのダンサー青木尚哉さんがやっていることは、子どもが描く自由画に似ています。写生ではなくて、子どもがイメージしたものを画用紙に自由に表現してみる絵のようです。輪になって「鬼さん、鬼さん、何するの?」と尋ねるられた子が即興で「これするの」と応え、それをみんなで「これするの」と真似します。リズムはイチ、ニイ、イチ、ニイの二拍子です。

イメージを形にすることは、紙やキャンパスの平面なら描く、といういのでしょうが、身体を使うのでやはり「踊り」や「舞」や「ダンス」なのでしょう。まあ、それはどうでもよくて、大事なのはその表現の起点と終点です。身体を動かし始める始まりがあって、終わりがくる。そしてまた始まり、終わるという短い時間の中で、身体が形作るものが存在して消えていく。絵画や造形物のように残ることがなく、なくなってしまうのですが、確かにそこには「子どものうちにあったものが引き出されていく創造」が行われているのです。

体を動かすといっても、「運動」でも「スポーツ」ではなくて「踊り」や「ダンス」であるのは、その「身体の形」に子ども自身がセンスの良いものを、なんだかいいと感じるものを、必死で嗅ぎ取ろうと、引き寄せようと、生み出そうとしていることがはっきりとわかるからです。その表現が楽しそうです。

身体表現として、「どうやろうか」と考えながら、「こんなのどうだろう」と試しながら、思い思いに体の動かし方をデザインしているのです。

それは「鬼さん、鬼さん、何するの?」に限りません。「ステップシークエンス」も「マネキンとデザイナー」も「じゃあ、今度はこんな風にしてみたい」という試行錯誤の身体表現です。

らんらん、すいすいの子たちにとっては、その意味あい、というか勘所、面白さがわかってきたようです。一方で、にこにこさん、わいわいさんには、「動物遊び」のような、ごっこ運動が楽しいようです。

そして、やっぱり花より団子です。こっちも歓声が上がっていました。

体験を表現して共有したい

2021/09/19

根が出たメロンの種が育つかどうかや、水をかけたら黒くなるか「やってみないと、わからない」ことを、子どもと一緒に試してみるのは、大人も楽しい。種も水も自然界の話ですから、そこには一定の理(ことわり)、法則、因果関係が見つかるものなのですが、いかにも「自然科学」とか学校の「理科」につながっていく傾向を見つけることができます。身の回りの「物質」や「生き物」には、そうした特徴を見出すことができます。対象についての「知」です。

確かに、保育は対象そのものの特性に気づくということも「保育内容」(特に領域「環境」など)にあるのですが、日本の保育内容は、それを「子どもの姿」で捉えることになっているのです。面白いと思いませんか? メロンの根が出たね、今度はどうなるかな。早く芽が出るといいね。・・・ここには「メロンの種についての知識」を得ることが保育内容になっていない、のです。

子どもたちは、メロンの種を見て、触り、土にそっと大事に埋めてみて、水をかけて、「どうなるかなあ」「芽が出てくるかなあ」って、感触を味わったり、生き物に気にかけてあげること、そんなことに何かを「気づき、感じ、試したりすること」の姿があるようにしましょうね、ということが保育所保育指針や幼稚園教育要領の保育内容なのです。

(うちわ話ですが、これが乳幼児の「考える」姿だというように捉えています。なので子どもの「思考力」の育ちは、領域「言葉」ではなく、領域「環境」に位置付いているのです。)

アゲハの幼虫が今、また蛹になっていますが、もうすぐ蝶になります。これに「驚くこと」や「不思議がること」や、「面白い、やってみたい」と子どもの興味や意欲が動くのです。子どもの情動的知性が働くことが大事だからです。生き物の飼育がいい経験になるのは、ある程度の時間がかかり、その繰り返される観察と餌やり、水やりなどの「お世話」が生まれるプロジェクト型の活動になっているからでしょう。

さらに、本当はもっと大事なのは、それを見守る大人側の方が、本気で「驚くこと」「不思議がること」「面白い」とおもうこと、なのでしょう。研修でレッジョのDVDを見て、「先生たちが楽しそうだった」という感想を持った先生がいたのですが、私たち保育者が大事にしている色々なキーワードの一つが「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)でもあり、それは保育者の専門性として持ち続けたい資質です。

レッジョから学ぶとすると、この子どもの心の動きを、ここから、絵にしたり、粘土で造形したり、ダンスにしたりします。20年前の映像でも「古典的な道具である粘土や針金だけでなく、パソコンで絵を描いたり、プロジェクターで光を当てること」などをしていたのですが、今なら多分、最新のテクノロジーも使いこなしながら、子どもの内面を外に表す遊びをするのです。それをまた共有し合います。アート表現が他の子どもたちや大人たちと生まれるコニュケーションの「道具」に位置付けているのです。さらに大きな価値の創造のために。当園での例でいうと、はらぺこあおむしの歌を歌ったり、ペープサートや劇にしたりしていることと同じです。一年目のお楽しみ会で、その世界を親子で親しんだことが子ども文化のコミュニティ作りになると確信しているからです。

自然界の営みを知ることが「知」なら、そこへ向かうだけではなく、子どもが受け取る内面の体験を、再現遊びや表現としてのアート(=アルス=手や体を通した技)にすることも保育なのです。「自然界」と「人間界」が「子どもの内面を外の表すこと」でつながるのです。自然科学と文化的活動を繋げているものが「人間の内面の躍動」なのだと思います。それが小学校以降の学習や生活につながっていくのです。

お店屋さんごっこはアナログな拡張現実

2021/08/19

お店屋さんごっこ、といっても昔のような市場でやられていたような「売り買い」を、このあたりでみかけることは滅多にないような気がします。三井記念病院の先にイトーヨーカドーがありますが、そのちょうど向かいに八百屋さんがあって、そこでは「今日は〇〇がお得だよ」などと、威勢のいい声を聞いたことがあります。

ある調査で子どもの「お手伝い」の内容が時代でどんなに変化したのかを調査したものがあって、それによると昔よくあった「おつかい」が、今はほとんどなくなっているという結果が載っていました。それはそうかもしれません。交通事故や誘拐事件などの事故に遭わないかと心配ですし、今は宅配という便利な方法も増えました。さらにこの、コロナ禍で人と会って言葉を交わして何かを買う、という行為そのものを避けるような便利さがさらに進行しています。レジで「レジ袋入りますか」と「〇〇円です」しか話さないアルバイト店員のコンビニでさえ、さらに自動支払い機の導入で、全く無言で買い物が成立するようになってきました。

≪・・お客さんたちは受付でチケットにハンコを押してもらい、どれを買おうかとお店の商品をじーっと見て・・・恥ずかしそうに「これください」。本格的なお店屋さんごっこに、お互いちょっと照れながらのやりとりがありました。≫

昨日までの納涼会プレイベント「屋台のお店屋さんごっこ」では、そんな会話の様子が報告されています。

人と話すという基本的なスキルを身につけるには、人と話す機会を設けることですが、赤ちゃんが言葉を獲得する(学ぶ、ではありません)ためには、他者に何かを伝えたい、という心情がなければそうなりません。自分の思いや考えを他人に伝えようとするには、伝えたい相手と伝えたい気持ちがないと言葉は動き出さないのです。その状況は生まれた直後から、親と子の関係を起点としがら発達していくのですが、核家族だけでは、その相手が不足します。保育園のような集団のある場所で、さらに年齢の異なる色々な子どもや大人との交流が起きる生活は、家庭にも地域にも、全くなくなっているのです。

地域で人と人が出会い、会話をかわし、気持ちを交流するような公的空間、井戸端会議や立ち話を含めて、人が何かをやりとりするアナログな機会を、私たちは子どもの生活から奪っているんだという事実を知っておくべきです。それを補うかのように、保育園の生活は色々な人間関係の体験の場になっています。「いらっしゃいませ」「これください」「〇〇円です」・・ごっこ遊びの世界は、こうやって現実では体験できにくいことさえできる機会だと考えると、このアナログな拡張現実(AR)こそ、大事な経験のような気がしてなりません。

今日の夕方、妄想公園に行ってきました。デジタルデバイスを使って、目の前の空間を魚の群れが泳いだり、電車が走ったりします。それはそれで大変面白い体験だったのですが、子どもへの与えたかは微妙だなぁと思いました。その話はまたしますが、アナログな「お店屋さんごっこ」こそ、子どもにとっては必要な拡張現実だと思います。その前に実際の体験がもっと必要なのですが。そこで、子どもが大好きな模倣遊びのことを、デジタルのARに代わって、アナログのAを頭につけて、AARこそ大事と言っておきたくなります。

活況だった屋台のお店やさん

2021/08/18

「いらっしゃ〜い、いらっしゃ〜い」。屋台のお店から売り子の声が聞こえてきます。「園長先生も買ってって〜」と呼び止められて、「わあ、おいそうなアイスに綿菓子、ドーナッツもカラフルで綺麗だなあ」と返事。ちょうど入園先を選んでいる見学者の案内をしていたのですが、2階の屋台マーケットは、活況を呈していました。

お祭りにつきものの屋台ですが、コロナ禍でまともにお祭りを経験してない子どもたち。でも4歳のらんらん、5歳のすいすいの子どもたちは、お祭りの夜店で「買ったことある〜」と教えてくれる子もいて、屋台のイメージを持っているようです。この2年間、ブランクを感じさせない子たちで、私はホッとして、嬉しくなりました。

昨日と今日の2日間、子どもたちが作り上げた屋台マーケットですが、すでに「お持ち帰り」でご覧になった方はご存知だと思いますが、どれもよくできていて、物をよくみているなあと感心です。焼きそばの上に乗っているのは、キャベツとにんじん、赤い紅生姜のトッピング。わたあめの袋は、「せいがぼうや」のお見本を真似て描いた子どもたちの絵です。たこやきの緑色は青のり、パックにはかわいいタコの絵もついています。

世の中はVR(仮想現実)やAR(拡張現実)が流行っていますが、子どもたちにとってはアナログな模倣が創造力の源泉です。実際の生々しい体験が大切で、その生々しさが何事も基準になっているからこそ、何かの模倣、何かの仮想、何かの拡張ということもわかることになります。最初から仮想や拡張だけの体験は、実に危なっかしい。

五感をフルにつかった実体験の面白さがあって初めて、それを再現したい!という強い欲求が生まれます。幸いなことに「食べる」ことだけは、代わりのもというわけにはいかないので、食べ物屋さんがメインの屋台になっているのは、わかる気がします。子どもたちにとっての食体験は、やっぱりインパクトが大きいのですね。

妄想公園(8月20日まで) ARでぜひどうぞ!

2021/08/16

7月19日にこの蘭でお知らせした「妄想公園」イベントが8月20日で終了します。会場は「アーツ千代田3331」です。主催者の方からメッセージをいただきました。以下紹介します。ARを試しましたが、びっくり仰天。室内を魚が泳いでくれます、楽しいですよ。ぜひお試しあれ。

20210727 フライヤー「妄想公園」

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外出困難なこの時期だからこそ、お家で楽しめるように、公式サイトから会場と同じARやクラフト、ぬり絵をダウンロードすることができます。是非以下のURLもご紹介いただけたら幸いでございます。
https://mosokoen.weebly.com/

魚のARは特に人気がありますので、先生も是非園内でお試しください。どうぞよろしくお願いいたします。

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子どもたちにとっての納涼会

2021/08/13

コロナ禍で軒並み中止になってしまった夏の風物詩の数々。大人にとっては懐かしいと感じるお祭りの屋台や盆踊り。

そうであっても、未曾有の感染爆発真っ只中にあるからこそ、彼岸から現世を心配されているご先祖さまをお迎えするのがお盆の礼儀というもの。地域でそれらを準備して、実施していく大人をみながら、子どもは育っていくのです。その光景を無きものにしてしまうことが、現代の残酷さでもあります。

子どもたちは「納涼会プロジェクト」をはじめました。というとなんだか凄そうですが(笑)、要するに「お店屋さんごっこ」です。

納涼会はやることにしました。それに向けて7月上旬から、幼児組の子どもたちは、お祭りの屋台に並ぶ「美味しいもの」を作ろうと話し合っていました。

室内にちょうちんを飾った今日13日(金)。制作ゾーンを覗くと、お寿司を握っていました。

まぐろやしゃけ、玉子焼きなどができていました。屋台でお寿司はあまり見かけませんが、それはまあ、いいとして・・

これまでにも作ってきた様子を主任が玄関に張り出してくれました。焼きそば、たこ焼き、ドーナツなど、どれもおいそう・・・ぜひご覧ください。

真夏のダンスの向こうに江戸情緒を感じよう

2021/08/03

今日は7月に続き、今年2回目となるダンスの日。青木さんと芝田さんがいらっしゃって、乳児から幼児まで全クラスで体を動かして遊びました。

いま「ダンスの日」と言いましたが、実は青木さんは「ダンスと言うと、その言葉のイメージに引っ張られてしまって、意味が狭くなってしまうよね」と話されています。青木さんの活動は、ダンスの枠を超えて「身体」そのものの可能性を、いろいろな世界に切り開くような営みを探究されています。園の生活の中では「楽しく体を動かす」としかいいようがありませんが、でも、ただ動かすというのではありません。動き全体をデザインしつつ、子どもから生まれてくる創造力を上手に引き出していきます。

例えば今回もいくつかの新しい試みがあったのですが、その一つは「わらべうた」の導入でした。わらべうたは、日本に昔から伝わる児童文化財です。「い・れ・て」「い・い・よ」もわらべうたなのですが、「い・れ・て」(ソ・ファ・ソ)「い・い・よ」(ソ・ファ・ソ)のように、シンプルな音階と休符からなり、会話と音楽を繋ぐような位置にあるのですが、併せて身体遊びと密接に結びついています。

今日の「にこにこ」(2歳)で見られたのは、「おふねがぎっちらこ」です。大人が膝を伸ばした両足の上に、子どもが向かい合ってまたがって座ります。そして、手を持ち合って「ぎっちらこ、ぎっちらこ、おふねがぎっちらこ」と、前後に体を揺らします。最後にブルブルと膝を揺らして揺さぶってあげると、子どもは大喜びです。

わらべうたは、簡単な音階とリズムなので、子どもは自然と覚えてしまいます。しかも、この種類のわらべうたは、体も一緒に動かすので、記憶に残りやすく、言葉、リズム、メロディ、体の動き、動感などが快感とセットになって、いわば身体に染み込むのです。皆さんも、なべなべそこぬけ、とか、ずいずいずっころばし、とか忘れずに覚えていることでしょう。実際のところ、これを「ダンス」と呼ぶよりも「わらべうた遊び」そのものです。しかし、この「わらべうた」がアートに変わっていく瞬間を目撃しました。それは、らんすい(4歳5歳)で「わらべうた」をやった時です。

今年はダンスにわらべうたを取り入れたい、と青木さんにリクエストしたのですが、早速、オリジナルのわらべうたを用意してくださいました。それが「鬼さん鬼さん、何するの?これするの、これするの」というものです。小学生向けのインプロ・キッズ(インプロビゼーションは即興の意味)を、幼児向けの「わらべうた」にアレンジした青木さんのオリジナルなのですが「これするの」のところで、即興的に体を動かしてみるのです。子どもたちはそれを見て、2回目の「これするの」の時に真似して一緒にやります。

この即興による身体表現の「瞬発力」は、自分の中に引き出しをたくさん用意して、それを再現する場合と、全く何も考えず(用意せず)に、その瞬間に何が飛び出してくるか、自分自身も楽しみなっていく場合があるようです。その表現の生み出し方はまさしくアートですね。そして、問いと答えという言葉の意味、身体で答える表現、語りのようなメロディとリズムと間(ま)。遊びの中で、子どもたちは知らない間に、四分音符と休符からなる日本的リズムという音楽的素養も身につけていきます。

こんなことをプロデュースしながら、幼児教育としての身体活動遊びを繰り返していくことで、子どもたちには「自然の営みとしての身体を取り戻していく表現者」に育っていってほしいと願っています。それは本当の健康や幸せに通じるからです。そして江戸情緒など、日本的な文化へ感覚も身近なものになってほしいと思います。

さて、今日はさらに、保育園に素敵なお客さんがやってきました。カナヘビくんとカマキリくんです。ある保護者の家で飼われていて、夏休み間しばらく保育園で過ごします。カナヘビくんは北の丸公園に棲んでいました。

好物は虫ですが、よく水を飲みます。そんなカナヘビくんのことを、まずよく知ろうと、小林先生が用意した動画を見ながら子どもたちは上手な飼い方を勉強です。観察ゾーンにやってきたカナヘビくん、どうぞよろしくね。

連日暑い日が続いています。夕方にはすいすい(年長)の子たちが玄関前の歩道で「打ち水」もしました。クーラーも冷蔵庫もない江戸時代、この柳原通りの夏は、打ち水や柳ごおりが「夏の涼」を演出していました。

 

からだが嬉しがる運動

2021/07/27

私たちの体は色々なものを求めています。お腹が減って何か食べたい。ぐっすり眠りたい。疲れをとりたい。そして体を動かしたい。色々な欲求を満たしながら、生きているのですが、食欲、睡眠、休息、運動などは生理的欲求ですが、生きている限り不可欠なものになります。しかし食べて満腹になりたいだけではなく、「美味しいもの」を探したり、ただ寝るのではなく質の高い睡眠を願ったり、体の疲れだけではなく心身ともにリラックスできる癒しを求めたりします。

ダンサーの青木尚哉さんと芝田和さんによる、運動遊びが今日から始まりました。昨年から来ていただいているので、3歳以上の子ども達はよく覚えていて、みんなとても喜んでいました。一緒に体を動かして遊ぶことが楽しいからです。

ところで体を動かす、運動するといっても、これまた、それには「質」というものがあって、からだが嬉しい運動というものがあることに今日気づきました。昨年の親子運動遊びの会でもやりましたが、「グーパー体操」覚えていらっしゃいますか。じゃんけんの「ぐー」と「パー」を、にこにこ組(2歳)は手でやります。足でもちょっとできました。わいわい組(3歳)は、足をぐーで閉じ、パーで開くが楽しそうです。音楽に合わせて跳んで開いたり閉じたり。さらに顔でも「ぐー」と「パー」をします。この辺りの自由な発想が楽しい。

トンネルを作って通る遊びでも、いろんな形のトンネルができます。足と腕で2箇所のトンネルができたり、大人のトンネルを子どもが潜るだけではなく、反対に子どもにトンネルをつくらせて大人がその小さい穴を通り抜けます。わいわいまでは2階のダイニングでやったのですが、らんらん組(4歳)とすいすい組(5歳)は、3階の家具を移動して広くして、そこで、リズムに合わせて、歩く、片足で移動する、音楽が止まったら静止する、さらに片足で静止する、などだけでも、実に楽しそうです。

その次は2人ひと組になって、ポイントワーク(マネキンとデザイナー)です。体が動くこと、動く場所と動かない場所があることに気づき、なんとなくいい形を作っていきます。

できたマネキンの姿をデザイナーも真似してポーズ。交代したり、一度できた形を崩さずに続けたり、体を造形対象にしながら、「えーっと、どうしようかな」と頭もフル回転です。

こんな体の使い方を小さい時から体験しているのとしないとでは、何かが大きく違ってきそうです。体が嬉しいと感じる運動のバリエーションが増えるからです。

運動学では、この体の感覚を「動感」と言います。いわゆる五感の中には、近いものに触感がありますが、体全身の感覚ですから、姿勢や身のこなしや運動やスポーツなど、ありとあらゆる身体の動きを、この「動感」が記憶していくセンサーのような役目をはたしています。体の動きを司どるセンサーの感度を高めておくには、それが快感であるような(つまり体が喜ぶような)経験をたくさんしておくといいわけです。

青木さんとは今朝、こんな話になりました。ダンスというからそのイメージに囚われてしまうけど、実はいろんな分野で同じようなことが求められています。芸術だけではなく、スポーツや医療や教育や建築やランドスケープデザインでも、色々なところで身体そのものの動きについての「善さ」の探究が始まっているそうです。面白いですね。

身近な環境を生活に取り入れる

2021/07/26

自分たちで作ったもので部屋を飾ること。大人になると、買ってきたものを飾ることが多くなるような気がしますが、子どもの頃から、何かの材料を変化させて、あるまとまった形にしていき、あるところで何かが「できた!」と「完成」するというのは、どんなことなのでしょうか。

ブロックや積み木は完成すると、一旦壊してなくなります。大抵は毎週金曜日にそうしているのですが、制作ゾーンで作ったものは、部屋に飾ったり、持って帰ったり、別の遊びで使ったりと、生活の中に取り込まれていきます。

ちなみに教育の五領域「環境」のねらいは「周囲の様々な環境に好奇心や探究心をもって関わり、それらを生活に取り入れていこうとする力を養う」となっています。

どのように生活に取り入れていくのでしょうか。生物なら観察したり、飼育したり、栽培したり、料理に使ったり。物ならちぎったり、切ったり、折ったり、貼ったり、繋いだり、色をつけたり、あるいは膨らませたり。

こうしたことをやりながら、ある物へ加工していく、造形していくことで、最後は何かに使える道具だったり、装飾物だったり、遊具だったり、集めるものだったりします。

今日はらんらんのSさんが家から石を持ってきてくれました。1階玄関の水槽で漂っている海藻が、底で繋ぎ止めておくために「石が欲しいなあ」と話したら、早速持ってきてくれたのです。さて、これをどう使うか。こんなこと、私たちの生活の中に、色々ありますよね。

私は何か材料を探すときに、100円ショップに立ち寄ります。これ何かに使えないかな?とよく考えることがあります。それと似たような思考は、様々な身近な環境の中らか何かを選んで、収納のインテリアを考えたりするときと似ています。

子ども達の「できた!」の世界は色々ありそうです。アートになったり、エンジニアリングになったり、何かのつもりや再現が、今度は他人から見られて「すごい!」や「面白い!」や「きれい!」になるように作ってみる意識も芽生えてきているように感じます。

 

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