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園長の日記

卒園する子どもたちへ

2024/03/17

今日は卒園式でした。

子どもたちには、わくわくしながら明日を登園の気持ちと同じように、卒園していく世界にわくわくしながら、歩んでいってほしい。そんな思いが流れている式でした。

改めて、ご卒園おめでとうございます。

 

「大きくなったら〜になりたいです!」について

2024/03/16

今日16日(土曜日)は姉妹園の「新宿せいが子ども園」の卒園式に参加しました。全園児数も170人を超えるので、卒園児も30名近くいます。保育証書を受け取って「大きくなったら〜になりたいです」というのですが、内容を聞いていると、その子どもにとっての世界がいろいろあって、当園よりも多様な感じがします。規模が大きいと職員や子どもの多様な個性と触れ合う機会も増えるのかもしれません。

この話になると、よく時代が大きく変化するから、今の職業があるとは限らないとか、何がなくなって何ができるといったことがよく語られます。確かにそれを見通して保育や教育を考えることは大事なことです。

でも、将来の変化もそうでしょうが、実際は今でも、過去も本当に世界は多様で広いものなので、それに保育者がアンテナを張ってできるだけ興味を広げ、探究できているか、という視点も大事な気がします。子どもが実現したいと思うものを一緒に実現できるように支えること、あるいはどうやたらそうなるかを調べたり考え合ったりしていくこと。それに似たことが保育で、もっとできるようになっていくといいなと思います。

そう考えると「子ども発」の何かも大事なのですが、世界は誰かが、何かが「〜発」に相当することをやっていて、その組み合わせで複雑に動いているので、大きくなたったら「〜になりたいです」ということと同時に「〜をどうしたいです!」と思う気持ちがうごめいて膨らんでいくだろうなぁと、感じるのです。

実際に、これまででも〜になって終わることなんてなくて、常に何々になり続け、なり変わっているわけでもあるし。でもワクワクすしながら、憧れや夢を持てることは、やっぱりいいな(子どもが羨ましい?)と思うのでした。そして、それが実現できるように応援するよ!って思うのでした。

子どもの感じ方を大切にしていく意味

2024/03/14

大人はつい言葉で思考してしまいますが、子どもを見ていると、言葉や大人の考える思考ではない方法で、世界と対面しているように感じることがあります。

ある哲学者(パース)は「思考は信念を形成するためにある」と言います。信念とは疑念の反対で、問いに対する答えです。問うことと答えること、ここに思考の役割があるというのです。

さらに信念の形成というのは、いわば私たちが考えている常識のようなもので、改めて意識したり説明されることもなく、信じてやっていることになります。ですから、改めて「どうして?」と問うと、途端にはてな?となることもあるのです。

疑念とか問い、というと難しく感じますが「おもしろい」「ふしぎだね」という経験を思い浮かべてみましょう。それを経験してしまうということに、子どもの人間としての尊厳の起点があるようにも思えます。

その感じ方や、その子特有のものに違いなく、そこから世界に参入していくあり方は、決して同一のものではないからです。私たちが理念としての自由や人権を大事にしようという「考え」を持つなら、この子どもの感じるかけがえのない唯一性と、そこから世界ときり結んでいく出会いの表し方を大切にしたいものです。

それをここバラバラではなくて、子ども同士の認め合いということも含めた他者との関わり中で考えていきたいと思います。

 

グループで遊ぶ様子を例えると・・

2024/03/13

保育や教育では時々たとえ話が使われます。当園の子どもたちが先生と一緒に、あるいは時々保護者も交じって、何か忙しそうに活動している様子。いろん音と話し声がしてきて、何が出来上がるのか楽しみな時間と空間。

それを例えるなら、広い厨房で何人かのグループが、いろんな料理を作っている光景に似ているかも?と思うときがあります。それぞれ作っている料理は違っているけど、完成に向けて一生懸命、切ったり、混ぜたり、こねたり、丸めたり、炒めたり、揚げたり、ぐつぐつ煮込んだり、時々、味見なんかして、「もうちょっと、~しよう」だとか、「これをこうしてみたら」だとか、わいくわいガヤガヤ、飽くなき味の探究が展開されているかのような光景。

子ども集団の思い思いの遊びというのは、オリジナル料理を学んでいるカルチャースクールのがやがや感に近い気がしてきました。生徒たちは料理研究家の端くれで、入門者からベテランまでいるのですが、そこは美味しい味の出し方や伝統的な調理法などの知恵が渦巻いていて、結果的に「う~ん美味しい!」というゴールに向かって、語り合いながら料理を創り上げていくアート作品づくりのようなものだからです。

それは別に制作遊びだけのことではなくて、楽器をならしたり、将棋をさしながら「う~ん」と考え込んでいたり、トランポリンで2歳の子が「1,2,3と数えて、にじゅう何、とさんじゅう何を行ったり来たりして、60ぐらい跳んだんだけど、・・37、38」「39!!すごいでしょ!」とか、やってます。

美味しい料理を作るって、大変なことですよね。いろんな知恵とスキルが投入されていますよね。ちょっと味が薄いかな?と感じて塩が足りないと気づいたり、火加減やゆで加減を考えて工夫したり。子どもたちの遊びは楽しくてもっとやりたくて、真剣に学んでいるということがよくわかるのですが、この例え話は、どうでしょうか?

 

まったりと過ごすアフター・ランチタイム

2024/03/12

みなさん、ランチタイムはどのようにお過ごしですか。外食?弁当?リモート勤務で自宅で食事? いろんな「お昼ごはん」があると思いますが、ランチタイムの後のひとときは、どんな気分でしょうか? お腹は満たされて、その後の「ほっと一息」、気持ちの方の空腹を満たすような、休息のひとときでもあるでしょう。12日火曜日の昼間、ちょうど今が、何も考えない束の間のちょっとした「白紙」の時間です。

それでも私の仕事は午後からの仕事(保育に関する運営に関する業務)が休憩とは関係なく舞い込んでくるので、場所を離れないと、ぼんやりしたりできません。そんな時に、子どもたちが事務所にやってくることがあります。私の机の下に潜ってみたり、カーテンの裏に隠れて友達とヒソヒソ話をしたりしています。その子どもなりに「くつろぎの空間」なのでしょう。子どもたちのアフター・ランチタイム。昔ならタバコでも吸って一息入れるような時間です。今は会社の中にお菓子コーナーがあったり、お茶やコーヒーのサーバーがあったりするのでしょう。

1日にはリズムがあって、食事が済んだ後、まったりと過ごす時間が子どもにもあるようです。保育園の生活にはそんな姿がよく見られます。子どものために、ごろりと横になる場所があります。カーペットにふわふわのぬいぐるみや毛布があるような場所です。午睡の空間とは別です。会社にもあると、いいアイデアとか浮かびそうですけどね。

資質・能力をもっと私たちの身近なものへ

2024/03/11

今日は午前中にオンラインライブで国の審議会を視聴し、夕方は第三者評価の関係者とオフラインで会議をもちました。これからの保育や教育をめぐって、真剣な議論をしている空気に触れたり、気になる「論点」や「見え方」に出合うと、自分がこれまで慣れ親しんできた世界の中に、知らない道の入り口が立ち現れてくる感覚がして、刺激や示唆をもらいます。

「そうだった。そのことがこれにつながるんだ!」とか、という「通路」が見つかったり、これまでよく考えたことがないようなことを知り、ちゃんと知りたい、理解したいと思います。保育のことなのに、なぜ保育の仕事をしている現場にいながら、会議やミーティングで語られていることを考え続けることができないんだろう。いったん自分の中に理解して思い出せることなら、実践のなかで使いながら考えることができるはずなのですが、そこまで理解できていないことがよくわかります。何ごとも、やはり、まずはそこからなのです。

この1か月ほど、私は次のフレーズを何度も何度も頭の中で繰り返しています「資質・能力とは、一種の行為における総合的な動きであり、勢いであり、絶えず伸びていく運動であり、たえざる関わりと変化によって変容する過程である」。このことが、目のまえで起きている子どもの姿として、だんだん見えてくるようになるから不思議です。

何度も振り返ってみて初めて、自分の考えになっていきます。目のまえに子どもがいて、事実はそこで起きているのに、その事態の作用や意味など見えていないかぎり、大事なことにたどり着けないかも。

プロセス志向である幼児教育の「資質・能力」と言うのは、平たく言うと「感じたり、気づいたりすること」そして「考えたり工夫したりすること」、そして「情意ともに協同性を発揮すること」。そういうことが起きるべきして起きるということを目指します。

私たちが使いこなす必要のある七つ道具の使い勝手がどうなのか、使いこなしてみて初めて「もっとこうしたらどうか」が出てくるのでしょう。

私の提案は、事実を概念で分析してつなぐときに意味が生まれるようになっているとしたら、そうしないでジェームスや西田幾多郎が述べたように「多即一」として子どもの姿をそのままにとらえたらよろしいのではないか。つぎの文章を子どもの遊ぶ姿になぞらえて読んでみると、その意味が分かってもらえるのではないだろうか?

「知覚と概念の重要な相違点は、知覚が連続的で概念が不連続的だということである。(中略)知覚の流れはそれだけでは何ものをも意味しない。それはただ存在しているだけである。近くの流れをいかに細かく分断してみても、それは常にmuch- at- once(多即一)であり、概念作用によって、そこから無数の側面や特徴を選び出し、分離し、そこに意味を与えることができる。(中略)知覚の流れを分断する操作は、全く概念上の操作に他ならない。もし、いまただちに概念的な見方をすっかり捨て去って、むき出しの感覚的生活に首尾よく逆戻りすることができるならば、<百花繚乱のなかを昆虫がぶんぶん飛び交っている状態を大規模にした混乱状態>と誰かが形容したような状態があらわれるだろう。このmuch- at- once(多即一)においては、矛盾はなく、すべてのものが生き生きとしていて、しかも明瞭な姿で存在する」

どうでしょうか。子どもの姿はこのように日常的にはとらえているということでしょう。そこに創発的に生まれる学びの契機や相互性を見出すために、一から多を導きだす、一旦は「資質・能力」の物差しで分析し、概念化してみる、というというわけでしょう。

「一」中にどんな「多」を見出すのか、そこを行ったり来たり。私たちは何かを見て理解するときに、そういうことをしているのでしょうね。

小学校訪問を終えての気づき

2024/03/09

小学校を訪問して感じたことはたくさんあります。そのなかで幼児教育と小学校教育の「幼小」のつながりのところに焦点をあてて、私の感想をまとめておきたいと思います。

子どもたちが切り開いていく世界への探究を支えていくことが教育だとしたら、幼児教育ではまずは遊び性が横溢し、楽しいという感情が基本に流れている「面白空間」が基本になります。今日はあれをしようと、わくわくしながら、園にやってきてわき目もふらずに遊び始めます。そこに遊びを通した学びがいろいろ起きていて、その学びの芽生えのところを、小学校での学びに生かしてもらいたいと願っています。

(1)まずは学習空間について。この園の「面白空間」と学校の「学びの空間」との差を、子どもたちが肌でどう感じるだろうか。まずはそこが気がかりだったのですが、訪問での出会いは学習そのもとというよりも、授業の雰囲気とか、知っている子どもとか、やさしそうに教えてくださる先生とか、また遊び時間の交流とかの体験を通じて、学校という空間を楽しそうなところだと感じてもらいたくて計画しました。

3学期のこの時期でも1年生は、あまりキチキチやっていません。1年生の終盤として、幼児期の遊び性のなかの無自覚な学びの芽を、系統的な学習の学びに生かしてもらうためにも、その遊び性から自覚的になって行く学びへのなだらかな、つながりを図ろうとしているようにみえました。

(2)教室の環境。幼児教育の場合は「もの」と「先生」が「子ども」に呼びかけ合うような形で展開している共主体的な活動としての遊びが多く、それが諸所の「世界」への導きになっているわけですが、小学校では、子どもがそれまでの感触として経験している、個別具体的なある意味で<想像している世界>が、もう少し<本当の世界>として立ち現れてくるように、確かなことを学んでいくことになっていくのでしょう。

そういう意味では、子どもの活動の軌跡として目に見えると途中経過的な具体的なこの詳細は、一時的な訪問だけでは見えないので、1年間を通じて、どんなことが意図されているのか、先生たちとの今後の交流で学んでいきたいと思います。

(3)個別に学ぶ姿。これがもう少し多様にあっていい気がしました。見る限り一斉授業の進め方が大半でした。どこまでそこを多様にするかは別にして、何をいつどう学ぶかのバリエーションはもう少し広がっていっていくことでしょう。それは生活科を中心にほかの教科との合科や関連をどこまでやるかということと関係します。そこを創り出していく時代になっているのは間違いないのでしょうから、できるだけ期待しつつ応援していきましょう。

(4)学習規律について。授業中の雰囲気と中休みの遊びの時間との境があるのは仕方ないにしても、静かに前を向いて先生の言うことを聞く、という学習スタイルがどこでも前提になっていました。そのためなのか姿勢正しく座るといったことが学びのスタイルとして前景化しています。そこれから外れるいろいろな要素と、本来必要な個別支援と重なってしまうのは、(3)のことと関連しそうです。

・・などと、こちらから期待を述べるのはやさしいのですが、それを創り出すのは並大抵ではないこともわかります。私たちも「幼児期の終わりまでに育てたい10の姿」をどうやって小学校へ伝えるのか。それを幼児教育が用意しないといけないでしょう。要録でそれが伝わるとも思えないので、工夫が必要でしょう。

個別にそれまでの芽生えを小学校へ伝えて生かしてもらう仕組みをどうやって作っていくのか。ここからは、自治体として取り組む仕組みづくりになります。千代田区は来年度から小学校区で幼児教育施設が集まって話し合う機会をもつことになりました。子どもたち一人ひとりの人権としての主体性の発揮をどう保障するか、それは一人ひとりの世界への探究の歩みをどう支えていくかということになるのでしょう。

 

小学校を訪ねて(4)4つの園で一緒に交流する

2024/03/08

久しぶりに朝から雪模様の今日、就学予定の年長児2人を連れてC小学校を訪問しました。近隣の3つの他園と一緒です。2時間目の途中から、1年1組は体育館へ行っていなかったので2組の算数と、そのすぐ隣の2年1組の国語を見せてもらいました。その後の中休みには卒園児を含めて教室や廊下で交流でき、幼小それぞれの子どもたちが楽しそうでした。

幼児は何かを「そうだ」と実感するのは、実際にその場に行くなど体験して初めて自分のことと分かるのではないでしょうか。でも今日の二人は、すでに姉や兄がいる小学校なので、何回か行ったことがあるようで、最初からあまり緊張感はありませんでした。

教室と廊下の間に壁のないオープンな配置になっているのですが、階段から上がったところで副校長先生と挨拶を交わすときまで、シーンと誰もいないかと思うほど子どもたちの声も聞こえません。どうしたんだろう? 誰もいないのかな?と思えるほど静かです。

そっと教室の方を覗くと理由がわかりました。机に向かっている真剣な横顔で何やらやっています。算数でした。青くて丸い図形を並べて何かを考えています。私たちも固唾を飲んで静かにしていると、先生が「こんにちは」を私たちに気づき何か声をかけてくださり「みんなこれが勉強しているってこういうこと?」と、冗談を言うと、わあっと笑い声が沸き起こりました。

すると、あっという間に教室は明るい柔らかい空間に変わりました。集中して何かに取り組んでいたことがわかり、それを中断させて申し訳なかったのですが、それでもそんなことは気にならないほどの、何か「弾力性のある空間」であることがわかります。中休みになると、卒園児と戯れあったり、会話を弾ませていました。椅子に座らせてもらったり、手作りの絵本を見せてもらったりと、のびのびとした時間を過ごさせてもらいました。

 

小学校を訪ねて(3)生活科と体育を参観する

2024/03/07

今日は中休みが始まる頃に小学校を訪問しました。担任の先生が1年生の教室に案内してくださり、授業で使った「てんつなぎ」というプリントを体験させてもらいました。

1から番号が振ってある黒い点を鉛筆で線を書いてつないでいくと、ある形になるというもの。先生が「すぐにできたねえ」と喜んでくれるとKさんもニッコリ。3時間目は生活科でした。

この時期の小学校では一年の振り返りをしています。今日見せていただいた授業では、「生かつかカード」というオリジナルの日記を用いて、今年の1年間を振り返っていました。

A4サイズぐらいの、絵と文字でその日の出来事を記録できるもので、先生が4月ごろは「絵だけだったけど、ひらがなが出てきて、だんだん増えてきて、この頃になると4行も書いているね」などと電子黒板に、ある子どものそれを大きく映し出して、一年を振り返っていました。記憶がよみがえるように思い出してから「自分で自分に手紙を書いてみよう」と展開していきました。

1年生は2クラスあり、もうひとクラスは体育館で体育でした。縄跳びでやっていて、前回し、後ろ回し、片足とび、大縄跳びなど、保育園でもやっているような活動でした。

保育園と違うのは、全員が縄跳びをしないといけないことで、その範囲の中で、何々跳びをしていいこと、何回跳ぶかの目的を持って挑戦していくような活動になっていました。

卒園児の他に、この小学校で開かれている活動を通じて知り合った友達がいたこともあり、見学を終えて「楽しかった」と。入学に向けて安心して迎えることができそうです。

「そうか面白い!」から「やばい!」まである学び

2024/03/06

何かを学ぶために、ある「空間」へ出かけるとします。あえて場所と言わず空間というのは、オンラインの場合もあるからです。そこでは、あるテーマについての情報がやりとりされることになります。その情報の中から、参加者がそれぞれにとって「そうか!」とか「なるほど!」とか、いろいろなこと「気づき」が起きているでしょう。


例えば「どう考えればいいんだろう?」と思っていたことに視界が開ける感じがあると、それは嬉しいものです。数学なら問題が解けたというアハ体験がありますが(実は私の場合は、ないことが多かった。ふ〜ん、そういうものか、の方が多い)、そういうのはともかく、保育の場合は、ちょっとそう事とは違う気がします。ずっと追っかけていくと、納得できる記述というか、説明に出会うことができると、まるで「雲がはれる」という言い方に近いことが起きます。そういう見方をしだしたら、そういう風にか見えなくなる、みたいかことに近いかもしれません。

そういう経験を研修報告で他の人たちに伝えることができるものでしょうか? それは決して不可能ではなく、あるまとまった量の知識をきちんと理解して、その長めの言葉で言い表された事柄を、事実と思えることと照らし合わせながら自分の文脈で並べ直して考え直してみる、といったことが必要になる気がします。何度もそれを頭の中で反芻するかのようなことなのですが、その上で保育の事例について、そのスポットライトを当ててみると、そういう理解の仕方がいいかもしれないという、保育を進める上での行動指針のようなことをイメージすることにつながっていきます。


保育をよくしていくには、どうしても、子どもの理解なり、関わり方なり、どんな活動をするかなりの判断に向かって、その事例に関して、いったん、ちゃんと立ち止まって振り返るという営みが不可欠でしょう。

振り返る中で、よく理解できていないことが見つかったりします。でも、それと同時に「じゃあ、これはどうなるのよ」も生まれてきます。そうやって保育の探究のテーマがまた見つかっていくのですが、それは会議などで話し合って出てくるというよりも、日々の保育の話し合いの中で展開されていることであって、無理やりこれでいいだろうと結論づけて疑問を残さないような進め方では、それ以降の展開の可能性が少ない気がします。変な言い方かもしれませんが、「ちゃんとわからないこと」がちゃんとあったほうが良いのです。

もうこんな歳にもなって(あるいは保育をこれだけ積み重ねてきていながら)「もっと早く知っていたら」とか「そういうことなら、これはどうなるの?」といったことが起きることもあって、恥ずかしさや悔しさを覚えることもあります。自分の不勉強を棚に上げて「そういうこと、早く言ってよ」と言いたくなることだってあります!まあ、結局は自分のせいなのですがね。そんなことをしていると、また調べたいことが増えてしまって困ってしまいます。でもそれは、楽しみでもあるのですが、締切がないので先延ばしになっていくことも多いのです。

一方で、そういうこととは別に、疑問などにも思ってもいなかったことが、「やばい、違ってた!」とか「まずいなあ、そうだったのかあ」みたいになることだってあります。そこまででなくても「その辺りは気をつけよう」とか「みんなに伝えなくちゃ」とか、修正や再確認などになります。こういうことは早く行動に移すことになります。

何かを学ぶということについて、もっと他の整理の仕方もあるのですが、何かの学びが「気づき」になるのは、それが「わかる」という経験だという言い方ができるのなら、すると、何か世界が開かれていくような感じがして、世界の見方が変わってくるようなことが面白いと思います。こういう楽しみは動物にもロボットにもないものでしょうけれど、人間の生きている世界の狭さであり広さなのかもしれません。

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