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園長の日記

自分の手と身体で確かめる子ども

2026/10/05

「保育と生成AIの関係」について考察しています。では、この問題が乳幼児の環境にも当てはまるのでしょうか? もちろん小さい子どもがスマホなどでAIを使いこなせるような状況までは来ていません。ここで対象となっている「子ども」は年長さんぐらいから小学生以上の子どもたちでしょう。もちろん油断はできません。小さい子どもがひらめいたことを、何らかの仕組みでAIが拾い出し、子どもの探究プロセスを飛び越えて「答え」に導く、といったことが出てこないとは限りません。

それでも、生成AI の登場によって、これまで保育で大切にてきたことが、より鮮明になってきたように思います。どいうことでしょうか?

それは子どもの行為するということの大切さです。経験といってもいいです。これは当たり前といえばそれまでですが、混同されないように、ここに明確な一線があることを確認しておきたいのです。

それは子ども自身の発達は、子ども自身が脳と身体を使うことでしか、成し遂げられないといことです。その代わりは何が登場しようと置き換えることはできないのです。身体的発達も心理的発達も、社会的発達もそうです。歩行の確立、言葉の獲得、基本的生活習慣の確立、人との関わり方、決まりや社会性の獲得・・などなど、どれひとつとっても、何かが代わりにやってあげることでは育たないのです。

そこで子ども自身の行為と経験を促すために、生成AIを大人が活用することの検討が始まっています。たとえば子どもとの対話の相手として、うまく行為を引き出し、望ましい経験が起きるように支えていくことも可能かもしれません。もしそのような使い方ができるなら、生成AI の機能を活かした、上手な教育者、学びの伴奏者、探究のコーディネーターになりうるかもしれません。

自由進度学習が再び注目されている「令和の日本型教育改革」

2026/10/05

保育環境セミナーの初日、藤森平司代表の講演のなかで、令和の教育改革の取り組みが紹介されました。その一つがこの芦屋市の公立小学校の授業改革でした。自由進度学習という名前の学習方法は、文部科学省も推奨しており、その実践を50年も前に産んだ愛知県の緒川小学校には、全国から視察が絶えません。

子どもに依存をうむSNSの機能、世界は規制へ

2026/10/04


SMSによって、自分で選んでいるかのように見えて、実は誘導されているかもしれない、という話をしました。

・・・画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。・・・いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。

こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。・・

このことの被害が認められた裁判を調べてみました。

今年3月、米国カリフォルニア州ロサンゼルス郡の裁判所が下した裁判が大きな話題になりました。幼い頃からインスタグラムとユーチューブを使い続け、自分の容姿に対して強い不安を抱くようになり、抑うつに苦しむようになった20代女性が、米国のメタ社とグーグル社を訴えたのです。その結果、裁判所は双方の会社に合計600万ドルの賠償を命じたのです。

注目したいのは、争点になったのは、投稿の内容ではないということです。それが際限なく表示される「無限スクロール」や「アルゴリズムによるおすすめ」が流れてくる仕組、動画が「自動再生されてしまう機能」の方なのです。

さらに今年8月には、メタ社はSNS依存をめぐる一連の訴訟で莫大な金額の和解金の支払いに応じて、今後18歳未満の子どもはインスタグラムとフェイスブックを合わせて1日2時間までしか利用できない初期設置が施され、深夜0時から朝6時までは利用そのものができなくなるような機能になります。

このようなソーシャルメディアの規制は、すでに世界的な潮流になっていました。オーストラリアではすでに昨年12月から16歳未満のSNS利用を禁止しました。また上記の依存を生むような機能そのものを制限しようと、たとえばEUは13歳未満は原則利用禁止、13〜15歳は1日1時間まで、などの規制を事業者に課す法案を審議しているようです。

こうした潮流のなかでの生成AIの登場です。

オープンAIもすでに訴えられていました。チャットが未成年者に心理的な依存をうみ、それが自傷行為や自殺につながったとされる訴訟がいくつも起きています。こうしたなかで先月9月、ニューヨーク市が中2までの公立学校での生成AI の利用を1年間だけ原則禁止して、その影響を検証することにしたというニュースが流れてきたわけです。

さて、日本はどうするのでしょうか?このテーマの有識者会議が議論しています。どのような方針が出されてくるのでしょうか?

 

知らない間に設計されていく私

2026/10/03

これまでの話を振り返ると、AIを使っていると、だんだん、知らないうちに自分の主体的な思考や判断や表現が毀損されていく、というプロセスを説明してきました。ところが、お気づきの方も多いでしょうが、この話、これまでも散々聞かされてきた話と、とてもよく似ています。

そうです、メディア一般のなかで語られてきたことと、そっくりなのです。私は昔メディアのなかで働いていたので、そのことはよくわかるのです。AIを待つまでもなく、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネット、SNSで言われてきた危険性とそっくり同じではないでしょうか?

これはAIだけの問題ではなく、メディアが人間の注意・欲望・判断を、本人に気づかれないまま形づくる問題なのでした。

ただ、これまでのテレビや映画などの従来のメディアとAIには大きな違いがあります。それは付き合い方の違いです。

テレビや映画では、基本的に同じ作品が多くの人に提示されます。一人の受け手は影響されても、ほかの受け手は異なる受け取り方をすることが、時間的な差はあっても確認できます。距離を取って批評したり、他人と感想を比べたりできるのです。新聞の社説の読み比べ、テレビ時評、各種の論壇、などがメディアそのものに載っています。

ところがAIやSNSは、一人ひとりの反応を学びながら、その人に最も響く内容を返してくる。しかも、一見、私たちが主体性をもって、私たちが問いかけ、選択し、操作しているように見える。だから、

「自分で選んでいる」という感覚を残したまま、選び方そのものを誘導される

ことが起こり得るのです。

これは単純な「洗脳」よりも捉えにくいものです。本人は命令されているとは感じないし、禁止もされない。警鐘を鳴らす人がいても、聞こえてこない。むしろ選択肢は増えているように見えるでしょう。

しかし実際には、画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。好みではない感情を引き起こしそうなものは、無意識のうちに見ない、選択しなくなります。いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。

こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。

ちなみに、忘れてはならないのは、この主体的な思考や判断や表現というのは、私たちが保育の中で、あるいは日本の学校教育の中で育てている「資質・能力」の3本柱の一つ「思考力・判断力・表現力」と同じです。平たくいうと学校の通信簿の評価項目になっています。教育現場で子どもたちからAIを上手に使うためのポイントがここにあるのではないでしょうか?

年長さんの活動に集中する姿

2026/10/02

今日のクラスブログを紹介します。金槌で釘を打ち、思い思いの遊具を作っていました。担任はそこに子どもの育ちを感じたようです。一見すると、その育ちに「集中力」が育ったと、表現してしまいそうな姿なのですが、担任はその表現をあえて避けているようです。どうしてでしょうか? そこにこの保育のポイントがあります。

集中力がついているようい見えるとき、新しい遊びや活動に夢中になっていることが多いのです。周りからいろんな情報を受けていても、それを気にせず、成し遂げようとしている目的を達成するまで、途中で辞めようなどとは思いません。こんなふうなものを作りたい、そういう目的があってやっていることを途中で投げ出すわけがありません。もし、他のものが面白そうだと思ったとしても、よっぽど面白そう!と思わない限り、その活動をやめることはないでしょう。

とくに自分でこれをやってみたい!とひらめたことは、試してみたくなります。自分でやってみたい。そしたらどうなるだろう。できた、じゃあ、今度は? そうしたらいいんだ、それならこうしてみよう!新しい知識と方法を使って考えて試してみると、こうしたらいいんだと気づき、できた!という効力感を感じ、さらに自分からもっとやりたい!という循環が生じます。この循環の入っている時の人間の集中度はとても高いものがあります。

ですから、子どもは新しいものが好きなのです。新しい遊具や遊びには目がないですし、私が誘い出す「すいすいタイム」も「今日はなんだろう?」と興味津々です。子どもは好奇心の塊なのです。ですから、よく人が集中力をつけるとか、育てるなどといいますが、あれは嘘です。好きだから長くその活動に取り組んでいるだけであって、無理に諦めずに取り組ませれば集中力がつく、などというのは、間違いでしょう。

新しいものが好きだというのは、生まれつきです。生まれたばかりの赤ちゃんがどんなことが好きか、どちらに関心を持つかなどを調べる方法として「選好注視」という方法がよく使われます。この方法に信頼性をおく根拠は「子どもは新しいことに注目する」という特性があるからです。私が赤ちゃんの部屋でいくと、何をしにきたのだろうという顔をして私を見ます。入園前の見学者を案内すると、見慣れた私ではなく、お客さんの方をじっと見つめます。好奇を向けるということは、教えなくても子どもは持って生まれてきています。

さて、こんな解説を踏まえて、今日のクラブグログをご覧ください。とてもいい顔をしていますよ。
・・・・・・・・・・

今日はお部屋や屋上、運動ゾーンなど、それぞれの場所で子どもたちが自分の興味に合わせて遊びを選び、じっくりと取り組む姿が見られました。特に運動ゾーンでは、小林が中心で進めていた鬼ごっこを坪井先生と一緒に楽しく展開する姿があり、展開する大人が変わることで、同じ遊びの中にもまた違った面白さが生まれることを感じました。大人が一人で遊びをつくるのではなく、それぞれの大人の関わり方が子どもたちの遊びの広がりにつながっているように思います。

朝のゾーン選びでは、わいわい組の子が「虫のゾーンを開けたい」と自分から伝え、幼虫の観察をとても丁寧に行っていました。わいわい組の子どもたちの中でも、自分が興味をもったものを選び、実際に見たり触れたりしながら活動を進めていく姿が増えており、日々のゾーンでの経験が「自分で選んで遊ぶ」ということにつながってきていることを感じました。

また、すいすい組では、トンカチと釘を使って板に釘を打つ遊びを行い、「パチンコを作ってみたい」という思いをもって、集中して取り組む姿がありました。今回特に印象に残ったのは、周囲でさまざまな話題や会話が生まれている中でも、そこにすぐ注意を向けるのではなく、トンカチや釘から目を離さず、自分のやっていることを続けていたことです。

こうした姿を見ていると、道具を安全に扱えることだけではなく、興味をもったことに注意を向け続け、周囲の刺激がある中でも自分の活動に集中していく力も、こうした遊びの中で育っていく大切な経験なのだと感じました。子どもたちが「やってみたい」と思ったことに十分に時間を使える環境をつくりながら、それぞれの興味や集中の深まりをこれからも丁寧に見取っていきたいと思います。

 

AIで主体性を拡張できるか、それとも代行されてしまうか?

2026/10/02

AIとの付き合い方は道具として使っているときはいいけども、第2段階なら「主体性の拡張」として利用価値が高いのですが、だんだん、何かの判断まで任せるようになっていくと、第3段階の「主体性の代行」になっていってしまうのでは、というのが前回の話でした。

しかし、厄介なのは、その境目がはっきりしないことです。

たとえば、AIから「こんな見方もあります」と材料が提示されます。私が自分の経験と照らして「いや、そこは違う」「これは使える」と選び直したり、修正したりします。これは第2段階で、AIとの対話によって、私は自分の考えがより明確になっていると感じ、AIが有効だと肯定します。

一方で、

AIがそう言うなら、たぶん正しいだろう
うまくまとまっているから、このままでいいだろう

とだんだんなっていくと、自分の違和感を確かめなって、第3段階へ入り始めるかもしれません。これはまずいです。AIの文章は流暢なので、間違っていても「完成した考え」に見えやすいのです。ここが普通の道具より危険なところではなないでしょうか。

AIは、かなり自信たっぷりに、ほかの考えはないかのように肯定したり、場合によっては褒めてきたりして、知らないうちに、誘導されている可能性もあります。いや、こうじゃないか!と突っ込むと、あっさり修正したりします。このやりとりがないと、とっても危ういのです。

さらに、判断を任せる以前に、何を問題として考えるかまでAIに決めてもらう危険性も出てきそうです。人間が答えを手放すだけでなく、問いを立てる力まで弱くなるかもしれません。ワープロ(って、若い方には分からないそうです、ワードプロセッサー)が出てきた以降、漢字が書けなくなっていることを実感します。それと似ていますが、とても気づきにくい。

この違いは、子どもの主体性を育てる保育と、そうでない保育の違いとも重なる話なのです。

保育者が子どもの活動を豊かにする環境を用意し、言葉を添え、別の可能性に気づかせるのは「主体性の支援」です。しかし、大人が先回りして目標を決め、手順を示し、望ましい答えへ誘導すると「主体性の代行」になるからです。

AIとの関係もほぼ同じに思えてきます。この差をAIが表にしてくれました。

主体性を広げるAI 主体性を代行するAI
選択肢を増やす 結論を決める
問いを深める 問いを奪う
違う見方を示す 正解らしいものを押し出す
人間が経験と照合する AIの流暢さを根拠にする
最後は人間が引き受ける 結果だけ人間が受け取る

このように考えると「最終決定を人間がしたか」だけでは不十分なことがわかります。AIが示した案をそのまま選ぶだけなら、形式上は人間が決めても、実質的には代行されているかもしれません。

大事なのは、

AIとの対話を経たあと、自分の考えが以前よりよく見えるようになったか。それとも、自分で考えなくても済むようになったか。

という見分け方ではないでしょうか? 一度得た結論までのプロセスや思考の筋道を再現できるかどうか?子どもたちは「ごっこ遊び」で再現し、そのプロセスを見事に習得していきます。見ているだけでは身につかないのです。実際にやってみることが遊びなのです。

ここまでの話をAIに問うと、さらに次の問題があると、説明してくれました。

AIの性能がさらに上がり、その人らしい文章まで先回りして完璧に作れるようになるので、実はもっと注意が必要になります。便利さが増すほど、違和感を覚える機会が減っていくでしょう、というのです。

したがって未来の問題は、「AIを使うか、使わないか」ではなく、

AIに考えてもらうのか、AIと考えるのか

にあるのでは?と。

そして「AIと考える」ためには、ときどき立ち止まって、反論し、書き換え、現実の経験へ戻ることが必要になるのでしょう。

もう、お分かりだと思いますが、これは保育者の役割にも似ていますね。よい保育者は子どもに代わって生きるのではなく、子どもが自分で世界と関係を結ぶための応答的な環境になることです。AIは、その人の代わりに考える存在ではなく、あくまでも主体者の心が動き出すための環境の一部にとどまっていること、なんでしょうね。

AIに任せていると主体性が蒸発する

2026/10/01

私は、AIが人類を滅ぼす最大の危険は、AIが突然人間を攻撃することよりも、人間が少しずつ判断することをやめ、自分たちの関係までAIに預けていくことだと思います。

チャットの性能が向上すると、人間との関係は、おそらく次の三段階を進むでしょう。AI自身が次のように整理してくれました。

  1. 道具として使う段階
    調べる、要約する、文章を整える。ここでは人間が主体で、AIは便利な補助者。

  2. 対話相手として使う段階
    話しているうちに、自分でも気づかなかった考えが言葉になる。何かを相談したり、あることを話し合ってふかめていくと、知らない間にAI側の考え方に染まっていく可能性がある。

  3. 判断や関係を代行させる段階
    誰を採用するか、子どもをどう評価するか、相手に何と返事をするか、人生をどう選ぶかまでAIに委ねる。ここから危険が大きくなる。

一番重要なのは、第二段階と第三段階の境界ではないでしょうか。

AIとの対話によって自分の考えが深まることと、AI の判断を自分の判断として受け入れてしまうことは、似ているようで全く違います。前者ではAIが人間の主体性を広げます。でも後者では、AIが主体性を静かに肩代わりしてしまいます。

しかも、AIは、その人に優しく応答してくれます。疲れず、否定せず、すぐに返事をし、その人に合った言葉を返してくれます。これは大きな可能性ですが、同時に、人間関係にはない危うさも生んでしまいかねません。

なぜなら、人間同士なら、相手にも都合があり、疲れがあり、誤解があり、こちらの思いどおりになりません。その「思いどおりにならなさ」のなかで、待つ、譲る、謝る、相手の立場を想像する、といった力が涵養されるのです。AIがいつでも自分に合わせてくれるようになると、他者と生きるために必要な摩擦への耐性が弱くなるかもしれません。

保育との関係でいえば、ここは決定的です。子どもが他者と出会うということは、自分の要求を即座に満たしてくれる存在と出会うことではありません。積み木を壊される。遊びたいものが重なる。思いが伝わらない。それでも相手と関係を結び直していく。その経験から、社会性も言葉も自己も育つからです。

だから私は、AI時代に保育の価値はむしろ高まるだろうと、考えています。

AIは子どもの記録を整理し、保育者の気づきを言葉にし、異なる見方を提示できます。実際にそのようなツールとしては大変便利です。しかし、AIは子どもの表情を見て「今日は少し違う」と感じ、その子のそばに黙って座る責任は負えません。そこには身体があり、時間をともにしてきた記憶があり、「この子を大切にしたい」という人間の願いがあるからです。AI にそのふりはできても、愛情からではありません。

このことをAIが次のような一文に整理してくれました。

AIが人類を滅ぼすかどうかは、AIが人間に似ること以上に、人間が他者と生きることをやめ、AIに似た存在になってしまうかどうかにかかっている。

なるほど、と同感するのですが、それも危ないでしょうか?

 

ホテルの壁から、石の物語へ ――9月30日 アンモナイトの探究

2026/09/30

散歩で出会った、秋葉原ワシントンホテルの壁にあるアンモナイト。その不思議を追いかけて、今日は子どもたちとホテルへお話を聞きに行きました。支配人の亀井英雄さんが、壁の石について説明してくださいました。

この壁に使われているのは、ドイツから運ばれてきた石灰石。約1億5000万年前の海の底で積み重なったものが、長い年月を経て隆起し、地表に現れ、やがて建築の材料として使われるようになったのだそうです。

いつも歩いている秋葉原の街に、遠い国の、はるか昔の海につながる石がある。そう思うと、見慣れたホテルの壁が、地球の歴史を伝えてくれる場所に見えてきます。

子どもたちは支配人のお話をよく聞いていました。途中のクイズにも、ほとんど正解していました。自分たちが気になっていたものについて、その場所の方から直接お話を聞ける。そんな出会いが、子どもたちの関心を支えてくれているのだと思います。

ただ、教えていただいたことを覚え、正しく答えられたところで、この探究を終わりにしたくはありません。今日のお話が子どもたちの中でどんな物語になったのか。何が心に残り、何をもっと確かめたくなったのか。そこを、これから一緒にたどってみたいと思っています。

実際、ある子は、アンモナイトの「中」に関心を向けていました。中に人がいるのではないか、と想像しているようです。

大人の知識からすると意外な発想ですが、この子にとって、壁に見えている形の向こう側には、まだ見えない世界があるのでしょう。表面を見ることから、内側を知りたいという気持ちへ。そこに、次の探究の入り口を感じます。

明日以降の「すいすいタイム」では、今日教えていただいたことを、子どもたちともう一度振り返ってみようと思います。子ども自身の言葉や表現で石の物語をたどりながら、実際に石に触れたり、その中を確かめたりする方法も考えていきたいと思っています。そこから、どんな疑問や「いいこと思いついた!」が生まれるでしょうか。

子どもが見つけた小さな不思議に、地域の方が応えてくださる。そのお話を受け取って、子どもがまた考え始める。こうしたやりとりを重ねることで、街は子どもたちにとって、ますます親しみのある、知りたいことに満ちた場所になっていくのだと思います。

亀井さん、子どもたちの関心に応えてくださり、ありがとうございました。ホテルの壁から始まった石の物語は、まだまだ続きそうです。

鉄棒は、身体を使って考える遊び

2026/09/16

今日の午前中、年長のすいすい組4人がそろって、「鉄棒をやりたい」と言い出しました。

千代田せいが保育園には園庭がありません。そのため、開園当初から3階に運動ゾーンを設けています。

ここでは、ネット遊び、クライミング、ぶらんこ、赤い球を脚で挟んでぶら下がる遊び、ロデオ、トランポリンなど、都市の中でも子どもたちが多様な身体の動きを経験できるようにしています。

今日は、その一角に鉄棒を用意しました。

子どもたちは、つばめ、前回り、豚の丸焼き、コアラなど、自分たちが知っている動きを始めました。友達がやっている間は、順番を待ちながら、その身体の動きをよく見ています。

鉄棒というと、私たち大人は、前回りや逆上がりが「できるか、できないか」という結果に目を向けがちです。

しかし、子どもたちの姿を丁寧に見てみると、技が完成するまでの過程に、豊かな学びがあることがわかります。

ESさんは、鉄棒の上でつばめの姿勢を取ろうとしました。しかし、自分で跳び上がっても、鉄棒の上まで身体を持ち上げることができません。

すると、鉄棒の横の支えに足を掛け、そこを足場にして登る方法を考えました。自分なりの方法で鉄棒の上に身体を乗せると、腕を伸ばし、つばめの姿勢をつくることができました。

もちろん、鉄棒の支えを踏み台にすることには、安全上の配慮が必要です。今後は、安全に登れる踏み台などを用意する必要があります。

しかし、ここで私が注目したのは、ESさんが「できない」で終わらなかったことです。

「どうしたら、あそこまで登れるだろう」

そう考え、周りにあるものを見渡し、自分なりの方法を試したのです。

◾️探究としての鉄棒遊び

この姿は、まさに探究です。

探究というと、植物を観察したり、地域の不思議を調べたりする活動を思い浮かべるかもしれません。しかし、探究の対象は、自然や社会だけではありません。自分の身体もまた、子どもにとって大切な探究の対象です。

鉄棒を握った手の感覚。
腕にかかる自分の身体の重さ。
胸やお腹が鉄棒に触れたときの痛さ。
身体を丸めると、回り始める感覚。
足が床から離れ、再び着地するまでの感覚。

子どもは、こうした身体からの情報を受け取りながら、次の動きを調整しています。

それは、

「やってみる」
「感じる」
「考える」
「やり方を変える」
「もう一度やってみる」

という、身体を通した探究の循環です。

◾️ 10の姿から育ちを読み取る

今日の姿を「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」から見ると、中心にあるのは「健康な心と体」です。

ここでいう「健康な心と体」とは、単に体力をつけたり、技ができるようになったりすることだけではありません。

自分から身体を動かそうとすること。自分の身体の状態を感じ取ること。安全な動かし方を知ること。そして、自分なりの目標に向かって挑戦することまでが含まれています。

また、一つの姿の中には、ほかの育ちも重なっています。

ESさんが自分で登り方を考えた姿には、「自立心」と「思考力の芽生え」があります。友達の動きを見て、自分も試そうとする姿には「協同性」があります。「つばめ」「順手」「逆手」などの言葉を使って動きを伝える姿は、「言葉による伝え合い」につながっています。

◾️資質・能力の育ちをよみとる

三つの資質・能力で捉えてみることもできます。

鉄棒の握り方や身体の支え方を身につけていくことは、「知識及び技能の基礎」です。

「どうしたら登れるか」「どう身体を動かせば回れるか」を考え、実際に試すことは、「思考力・判断力・表現力等の基礎」です。

うまくいかなくても諦めず、友達の姿から学び、もう一度挑戦することは、「学びに向かう力・人間性等」につながります。

これらは別々に教えられるものではありません。一つの遊びの中で、互いに結びつきながら育っていきます。

◾️私の気づきは・・

今日、私自身にも一つの気づきがありました。

ESさんが鉄棒まで跳び上がることに難しさを感じている姿を見て、ジャンプすることや、両足で床を蹴ることなど、跳ぶ力につながる遊びをもっと用意してみたいと思ったのです。

子どもの姿に保育者が気づき、その気づきによって環境が変わる。そして、変わった環境の中で、子どもの新しい姿が生まれる。

保育とは、この繰り返しなのだと思います。

園庭のない本園にとって、3階の運動ゾーンは、運動不足を補うだけの場所ではありません。

子どもたちが自分の身体と出会い、友達の身体の動きから学び、「できない」を「どうしたらできるだろう」に変えていく場所です。

鉄棒は、身体を鍛える道具であると同時に、身体を使って考えるための探究の環境なのです。

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