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アートと保育

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

たにじゅん展 明日25日から 海老原商店で

2022/11/24

「見たもの・出会ったものを残すこと。愛でること」

明日25日から「谷川潤」さんの個展が海老原商店で開かれます。とにかく彼の「描く」という意味が大好き。個展のコンセプトをパネルにこう表していました。

https://www.instagram.com/p/Ck0rn3bJwgs/

 

<描くこと=

大学3年生になった頃にはじめた、「自分と素敵な人・もの・場所との出会いを形にして、贈り物としてその人たちにお渡しすることで、また素敵な出会いのきっかけになっていく、」(たにじゅん日記)

美味しかったパン、一緒に暮らすワンコたち、大好きな人

よく見ること、そして気づいたことを形に残すこと、その行為を通すことで、対象により愛着をもつようになること。

描くことは、僕にとって、目に見えている世界に愛おしさを、より自分の中に深く刻み込む行為であり、また、そうして得られた幸せを、他に人にお裾分けする手段の一つでもあるのです。>

・・・・・・・・・・

こんな関わり方ができる時間。

教育の五領域「表現」のこんなふうになっていくと、いいな。

 

 

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

表象としてのコンテンポラリーダンスの魅力

2022/10/05

「今日は青木さんがくる!ダンスができる!」

そういうふうに「嬉しがる子どもたち」の姿に接すると、こちらの方が嬉しくなります。コンテンポラリー・ダンスにしていて、よかった、と思います。決まった振り付け通りに踊るダンスではなく、自分のイメージ(表象)を身体表現にするダンスです。ですから同じ形にはなりません。その子らしいダンスです。しかも、これがダンス? と思うほど、その表現は幅広いものです。じゃれ遊び、わらべうた遊びのようなダンスでもあり、私はこれこそがダルクローズが思い描いたリトミックの再生ではないかと思っています。

ジャンケンの「ぐー」をしてみてください。そう言われたら、大抵の人は手で「ぐー」を作るでしょう。では「顔でグーをしてください」と言われたら、どうしますか? 子どもたちは、難なく顔でグーを表します。では全身だったら? こんなふうに表象と表現を結びつける想像力を楽しむダンスなのです。走ったり、跳んだり、転がったり、急に動いたり止まったり。頭から足先までの身体の部位を意識して動かしたり、動くところと動かないところを意識したり、自分の格好がどうなっているのかを想像したり、常に頭の中も動かしています。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には、教育の領域「健康」の心情のねらいとして「自分から体を動かすことを楽しむ」、意欲のねらいとして「自分の体を十分に動かし、様々な動きをしようとする」とあります。これを具体化したものの一つが、ダンスです。0歳の赤ちゃんから6歳の年長まで、同じ考え方です。また教育の領域「表現」では、心情として「身体の諸感覚の経験を豊かにし、様々な感覚を味わう」が、意欲として「感じたことや考えたことなどを自分なりに表現しようとする」が、ねらいになっており、ダンスにはそれも含まれます。

ダンスですから、健康や表現がまず、教育のねらいとしてふさわしい活動になるのは、想像しやすいでしょう。ところが、実際に楽しんでいるダンスを見てみるなら、さらに人間関係や、環境でもそのねらいを具体化したものになっていることがわかります。人間関係の「身近な人と関わる心地よさを感じる」「周囲の子ども等への興味や関心が高まり、関わりをもとうとする」も当てはまります。また環境の「身近な環境に親しみ、触れ合う中で、様々なものに興味や関心をもつ」「様々なものに関わる中で、発見を楽しんだり、考えたりしようとする」さえも該当するから、面白いのです。

総合的な保育、というキーワードがあります。これは一つの活動が色々な要素を取り込んで総合的な活動になるように、という意味ではありません。子どもの体験はいろんな場面で起きており、一見、バラバラに起きる体験が、実はつながりを持った発達の経験になっていくという意味での「総合的」なのです。しかし、このコンテンポラリーダンスを、五領域の視座から分析してみると、とても豊かな経験になっていることがおわかりいただけると思います。

さらに実は、言葉の領域からも「非言語的コミュニケーション」や「身体の声」という活動になっていることも、添えておきたいと思います。

社会見学の下見/柳原通りで「どこでもダンス」

2022/03/21

卒園式に合わせてくれたかのように昨日20日(日)、東京の桜が開花宣言され、近所の桜もきれい咲いています。今日21日(月)は、その桜の下で、贅沢にもプロのバイオリニストとクラリネット奏者の曲にあわせて、ダンスを楽しみました。

また保育園の屋上でも、スケッチ大会を開催。いろいろな人たちと春の訪れをアートで楽しみました。ダンサーの青木さんがプロデュースしている年間プロジェクト「ダンスのある風景」のイベントです。保育園の園児とお母さん4家庭も参加してくださいました。

午前11時から始まったこのプロジェクトですが、楽器の音色に合わせて踊るダンサーの方々の、音楽にあった体の動きを見ていると、体を動かしかくなってくるから面白いです。

つい私も引き込まれてしまいました。そして、商店を出て、保育園の前を通って、歩道橋も渡り、桜の木の下で、気持ちいい青空を胸いっぱいに吸い込んでいたのでした。

海老原商店の中では、お絵描き、かくれんぼ、楽器遊びなどで自由に遊び、また歩道にはチョークでの落書きを、子どもはダイナミックに、大人は、ノスタルジックに心の中のちょっと深いところにある快感を探り当てていたようです。

午後は1時から保育園の屋上が、野外アトリエになり、モデルを囲んだ写生大会が開かれました。

身体というものを耳で受け止めて体に共鳴させるのか、それとも目で受け止めて2次元の真っ白な平面に、そのイメージを投影させるのか。身体のもつ感覚的な世界との対話は、まったく自由。

その自由さに気づきにくいことに気づく時、私たちが縛り付けているものは、私たち自身の思い込みだったりすることにも気づくのでした。

さて、季節が暖かくなってきたこともありますが、東京の蔓延防止対策も終わったので、少し地域で活動しやすくなります。

今週は25日の金曜日に年長児の「お別れ遠足」があるのですが、それとは別に、早速ですが明日22日(火)、都会の中でのちょっとした自然体験をしにいきます。大手町・鎌倉橋の隣にある「エコミュージアム」です。

そこで今日は朝からその場所へ下見に行ってきました。すいすいとホタルの放流を体験します。都会でホタル?さて、どんなことになっているのか、こちらも楽しみです。

 

朝から「わくわく」「ドキドキ」で始まる1日に

2021/11/17

朝、本当にワクワクして1日が始まるのと、なんとなく受け身で始まる1日とでは、生き方が全く変わってくるんじゃないか。それは大人も子どもも一緒だと直感したら、なんとなく始まる1日は、何ともったいないものでしょう。朝一人ずつに大きな風船を膨らませてあげて渡して、運動遊びをしました。風船を渡すと、上に投げて落ちてくる風船を上手に受け止めるだけでも、普段あまりやらない運動になっていました。ネットに風船をいっぱいのせて、ネットを揺らして落ちてくる風船を受け止める遊びをしました。

時々、風船の取り合いになって喧嘩も始まるのですが、その時、本気で何かを訴え合う欲求のぶつかり合いは、そこで得るものに間違いはないと思えました。そうそう、もっと本気でぶつかり合っていいよ、と。朝からこんなに気分が発散するとその後の活動も落ち着きます。今日の午前中は年長さんの「お手伝い保育」でしたが、事務室グループは「秋拾い」に出かけました。ワクワクしながら柳原通りを歩いて、ボタン屋さんまで行って挨拶して、柳原神社に寄って帰ってきました。たったそれまでなのですが、その途中に落ちていた落ち葉を拾ったり、変わった形の石を見つけたりしながら戻ってきました。途中で、駐車場の料金を確かめている方に「何をしているんですか」とインタビューもしました。

好きな色の画用紙を子どもが2枚ずつ選び、6枚を継ぎ合わせていたのですが、その並べ方も「交互」にしていて「こっちがいいよね」だそうです。そして葉っぱを木工ボンドで貼り付けました。見ていると、花とか蝶とか、鳥などを葉っぱで形作りっていました。同じ色の葉っぱを並べ、それに枝を繋ぎ合わせていました。玄関に立派な装飾ができました。

何気ない活動なのですが、横断歩道の渡り方も上手になったり、桜の木の見分け方を覚えたり、木についている葉の色と落ち葉の色の違いに気付いたり、消火栓の意味が分かったり、ちょっと地域探検を楽しみました。

業平小の運動会で青木さんがダンス指導

2021/10/30

東京スカイツリーのすぐそば、墨田区立業平小学校で10月30日に開かれた運動会を見てきました。6年生の3クラスとさくら学級86人による出し物が、ダンサーの青木尚哉さんが指導したダンスだったからです。

演目は「虹色の風を起こせ」。内容は一人で歩くこと、数人が並んで歩くこと、漢字一文字のイメージを数人のグループで表現すること、そして、千代田せいがでもやった「マネキン」などのワークで構成されていました。運動会は校庭で行われたのですが、真っ青な秋空に揺れていたのは6年生が作った傘の作品でした。

ある枠があっても、その中の動き方を自由に作り出すと言う創造性に主眼が置かれていることがわかります。例えば6人が横1列に並んで歩くワークでは、スタートとゴールは並んでいるのですが、途中では誰かが速く走ったり、止まったり、ゆっくり歩いたり、ランダムに動く模様ができます。それをお互いに見ないでゴールを一致させるというものでした。タイミングやスピードを自分たちで考える面白さがあります。

作品のパンフレットによると「まずは動きのアイディアをできるだけ出し合って、そこからより見せたい動きや、場所の使い方、他のグループとのつなぎ方も考え、工夫を重ねてきました」。これを授業で作り上げるまでに、7月に1回、9月に2回、そして10月に8回のワークショップを重ねてきたそうです。

学校とアーティストの橋渡し役を担っているのは、NPO「芸術家と子どもたち」で、「パフォーマンスキッズ・トーキョー」(PKT)という活動を平成20年度から展開しています。その代表の堤康彦さんによると、ダンスや演劇音楽などプロのアーティストを学校や児童福祉施設等に10日間派遣しワークショップを行い、子どもたちが主役のオリジナルの舞台作品をつくります。令和2年度までに都内小、中、特別支援学校156校、文化施設65カ所、児童養護施設33カ所などで実施、約9400人の子どもたちがアーティストとの素敵な出会いを体験しています。千代田区では昌平小学校がダンスで浅井信好さんとのコラボレーションしています。

小さいうちに、芸術家やアーティストと出会う体験は深いところで興味や関心を刺激します。乳幼児の体験の中にアートとサイエンスを、増やしていきたいものです。

 

第3回 親子運動遊びの会

2021/10/24

第3回親子運動遊びの会を開くことができて、本当にホッとしています。後片付けを終えて園に戻り、12時半から1時間ほど反省会を開きました。全員で感想を話し合いました。コロナ禍にあっても、なんとか開催できて、子どもたちも楽しそうだったので、よかったという感想がベースなのですが、私たちからの目線だけではなく、ぜひ、保護者のみなさんからも感想をお寄せいただけると嬉しいです。

今年も青木尚哉さん率いるダンスグループZero(ゼロ)のダンサー、芝田和(しばた・いずみ)さんと宮崎知佳(みやざき・ちか)さんと一緒に自由に体を動かして楽しむことできました。反省会で出た言葉を、以下、カッコ「 」付きで繋いでいくと、「時間は短かったのですが、いろんな要素がぎゅっと詰まった時間」でした。

特に最後に青木さんのダンスをライブで見てもらったことで、「ちよだせいがの保育が、何を大事にして、何を目指しているのかに共感してもらえたんじゃないか」としたら、私としてもこんなに嬉しいことはありません。決まった振り付けを覚えるのではなく、内面の動き、イメージを外に表すことの素敵さです。

反省会でミュージシャンでもある坪井保育士が「プロのアーティストがやっていることと同じ創造的な活動になっている」と説明してくれました。それを目指しているのは間違いありませんが、そうなっていたら、これまた嬉しい。「昨年の姿を思うと、こんなに積極的に楽しそうに参加してくれて、すごい成長だなあと思った」という姿がいくつも挙がりました。保護者の皆さんはどうお感じでしょうか。

幼児(わいらんすい)の第二部の方では、保護者の皆さんと先生とで、大人が輪になって「鬼さん、鬼さん何するの」をやってもらいました。その姿を子どもたちがみるというプログラムを入れたのですが、「大人が体験してもらうことで、子どもの世界を想像してもらいたいし」「親子が一緒に生きる世界が重なって、同じ感覚を共有できる」「小学校にも、そういうのはある」などの感想がありました。どうだったでしょうか。

青木さんは「これするの、のところで、何もしないで、じっとしておく、もアリです」といっています。

私は何かの目的のために頑張って、その頑張りが褒められるという評価の仕方は、小学校以降でいいと考えています。知識や技能のコンテンツがいっぱい待っています。発達課題としても目標に向かって何か学ぶ「勤勉さ」は獲得してほしい。でも、そのとき「劣等感」を持たせないようにしたい。

だからこそ、就学前の乳幼児期には、その部分は半分でいい。残りは条件のつかない自信をいっぱい育ててあげたい。多くのコンテンツを自分から獲得に行ける意欲の根っこを太くしてきたい。エンジンを大きくしておきたい。

そのままでいいという無条件の愛と承認が、この時期の子どもたちの必要条件です。その温かい人間関係の土壌から、自分で目覚め、立ち上がり、歩んでいく力が育ちます。多少早くコンテンツを詰め込んでも、そんなものは1年も立たないうちに追いつかれます。

体を思い通りに動かすことの自由。脳の発達の柔らかいうちに、その創造力の元の元、をいっぱい動かしておきたい。大人が「鬼さん〜」をやってみて、その難しさ、自分の頭の硬さ、発想の貧弱さを感じませんか? 私は最初恥ずかしさを感じ、やってみると難しさを感じ、何度かやっているうちに面白くなって、その心の変化を実感しました。子どもはそこが解放されると、中から湧き上がってくるようになります。

わになって遊ぶわらべうたを、たくさんやったほうがいいなぁと、気づいた瞬間でした。

子どものその素晴らしさは、自分の体だけではなく、考え方、感じ方、試し方、生き方も自分なりの自由な精神性の開発につながっていくでしょう。その道筋はさまざまでいい。その子らしさの世界は広く、深いものです。

創造性と美を感じたダンス

2021/10/04

再現するものが模倣表象なのか、それとも創造表象なのか。

その境目が満4歳前後にありそうなことが、今日のダンス遊びで見えてきました。

模倣表象というのは、見たり聞いたりと、体験したことを、目の前に再現する模倣です。見立て遊び、ごっこ遊びなど多くの模倣遊びがこれです。昨年のお楽しみ会で見ていただいた劇遊びも、これに含まれます。歌を歌うことも再現ですし、何かを学んで身につけることも、実は「真似ぶ」を語源とする「学ぶ」ことと言えますから、発達や成長というのは、生き物としての力が環境から、いろいろなものを心身に取り入れていることになります。

一方、創造表象というのは私の造語ですが、ダンスのインプロビゼーション(即興表現)のように、「こんなのどうだろう」というように、自分で感じたものや、頭に浮かんだ身体イメージを、身体を通じて自分なりの形で表現するようなプロセスが色濃いものです。実は、こちらの「創造」の方も、その中身を分析してしまえば、模倣として取り入れた要素を、自分なりに編集し直しているに過ぎません。創造というと無から何かが生まれるように考えるかもしれませんが、それは間違いです。元々は、真似して学び身につけたものを、組み合わせ直しているに過ぎません。

ちっち、ぐんぐん、にこにこの子どもたちは、模倣遊びとしてのダンスを楽しんでいました。グーパー体操や動物など、イメージしやいものかどうかで、体が動かしやすいかどうかになっていました。ところがらんらん(4歳)やすいすい(5歳)になると、自分なりに「ポーズ」を取ったり、創造的な動きを作り出すような動きも楽しそうです。自分で好きなようにする自在感を持って、自分らしい「自己表現」を楽しめるようになってきました。

さらに今日、面白かったのは、このダンス遊びと、他の運動遊びの違いがはっきりした場面がありました。それは「美」への感覚が動いているということです。わらすがソロダンスステップをやるときに、今日初めて参加してくださった宮崎知佳さん(バレーダンサー)の、見本として行ったスキップが美しくて、子どもたちも気持ちがグッと前を向いたことがはっきりわかりました。

足の上げ方が高い、高い(笑)。やっぱり、アーティストの本物に接することは大事ですね。

今日は青木さんと芝田さんが行うポイントワークも「すご〜い」という感想が出るほどに綺麗にキマっていて、みんな、ぐ〜っと引き込まれていました。綺麗なんです。その感覚は子どもたちに、確実に伝わっていました。それがわかるのも幼児になってからだろうと感じました。これを見た後の子どもたちの「マネキンとデザイナー」は、本気度が違っていたのでした。

 

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