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2021年 5月

はらぺこあおむしがサナギに

2021/05/31

今朝、運動遊びをしようと3階へ昇ると、それどころじゃない、という雰囲気です。生き物の観察棚の前に子どもたちの人だかりができていて、Sくんが「Tくん、園長先生が来たよ」とTHくんに声をかけています。「なに、どうしたのの?」というとSくんが「蛹になった」といって指を差し、Hさんが虫かごを持ち上げて見せてくれました。

あのウンチのようにしか見えなかったアゲハ蝶の幼虫が綺麗な青虫になった(5月19日)ところまで、お伝えしていましたが、それがいよいよ蛹になったのです。これで、大騒ぎできる子どもたちの、なんと素晴らしいことでしょう!

アゲハの変態に詳しくないと、気づけないような変化です。それが証拠に、私がつい「はらぺこあおむしになるんだね」と、いうとHさんに訂正されました、そうじゃないと。「ちょうちょになるんだよ、園長先生」と。そうです。蛹になったら次は蝶でした。はらぺこあおむしが、蛹になったんですから。

感触体験の意味

2021/05/19

ぐんぐん組の食用素材での「粘土」との出合い、楽しかったみたいですね。

最初は、おっかなびっくりといった感じです。

でもそのうちに、ストローを介して、ちょっとずつ近寄っていっている姿がいいですね。この接近の仕方がとっても大切で、「自ら」ものへ関わっていくプロセスをちゃんと大事にしていることになります。何事も、このプロセスに発達があるからです。

最後は手についている感触まで楽しんだようです。

さて、この「感触」ですが、粘土に限らず、水や砂や土や、あるいは手掴み食べの時の食べ物まで、いろんな時に子どもは「感触」の違いを確かめています。その経験が、素材に違いに対する向き合い方(姿勢=態度)を育んでいきます。その中には、手先の柔軟な使い方や、巧緻性の発達にも寄与するのですが、面白ことに、感触体験は、「心地よさ」という内面の体験になっているのです。

今日も、カブトムシの幼虫を観察している子どもたちが「触ってみたい!」といっていました。でもカブトムシの幼虫は触ると手にある病原体をうつしてしまうリスクがあるので、あまりさせるわけにはいかないのですが、手袋の上からでも手のひらに乗せてあげると、そのずっしりとした重さを感じることができます。

ところで、感触体験というのは、幼児教育ではどんな位置付けになっているのでしょうか?

ものの性質や特性の違いを楽しむというのは教育の領域「環境」の中にあるのですが、これはSETM保育の科学やエンジニアリングやアートの基礎体験を作り出します。「これって、どんなものなんだろう?」「もっと知りたい」という気持ちが、触りたい!という意欲になります。

乳児の場合は、保育所保育指針の3つの関わりの視点になります。

その中に、「身近なものと関わり感性が育つ」(精神的発達)という、関わりの視点があります。このような感触遊びは、ここの視点で見ることになるのですが、実は昨日までのこのブログで説明してきたように、子どもの方から一方的にものへ関わっているのではなく、双方向の「やりとり」が生じています。

この粘土の場合も、その素材の方から、ぐにゅっと形が変わること、穴が開くこと、ベタベタしていることなど、実にいろいろな性質や特性を「もの」の方が子どもに教えてくれているのです。

少し深入りすると、指針の説明の仕方では、子どもに「表現する力」が独立してあるかのように読めてしまう限界があるのですが、これは文学的レトリックの差異ではありません。ものへの(しいては世界への)迫り方という、生き方の根本に関わる差異なのです。

さらに人間存在をどう捉えるかという次元の「ものの見方」でもあります。子どもの方にだけ「表現する力」を無条件に想定して、この子は表現力があるだとか、無いだとかいう話にならないようにしたいものです。全くそんなものではありません。

 

 

アゲハの劇的な変化

2021/05/19

今日は感動的な事件が起きました。園のみかんの木で見つけた幼虫が、あおむしに変身したのです。朝はまだ茶色いフンのような姿だったそうですが、午後のお昼寝の頃には、鮮やかな緑色に変化していました。内線で教えてもらい、私は早速3階へ上がると、その変化を子どもたちが見逃すはずもなく、午睡の時間に起きている年長のすいすいさんたちを中心に、熱心な観察が続いていました。

何人もの幼児クラスの子どもたちが、よく見ようとして懐中電灯を当てて眺めています。しばらく見ていたすいすい組のYHさんは「やっぱり、これ死んだふりしている」と言います。繰り返し「園長先生、これ死んだふり」と笑って、そう言います。私が「怖がっているんじゃないのかな。カゴを揺すられて動くから」というと、「だってずっと動かないんだもん、死んだふり」と笑顔で楽しそうに言うのです。

その時、そうか、と気づいたのです。YHさんはその時、虫になっているのです。虫になってみたら、ずっと動かないのは「死んだふりをしているから」ということがわかったのです。虫の方が教えてくれたのであってYHさんが勝手に想像しているとはちょっと違うのです。この対象から語りかけてくるような「世界の開示」は、これまで子どもが模倣する「ごっこ」とは違います。YHさんが死んだふりをしているのではなく、ちょうが死んだふりをしているというのですから。自分が一旦ちょう(幼虫)の立場になって、そのちょうが「死んだふり」をしているという、2重性があります。

このようなことは、対象への心配りがあってこそ生じるのではないでしょうか。蝶への関心の深さがあってこその共感に基づく対象との対話です。これは大人の例で言うと、世界の真実や神の声を聞いた聖人の言葉や、世界の真善美を描いた画家、あるいは漢字の成り立ちを甲骨文字をなぞり続けて解明した白川静と同じアプローチに思えます。物事の学ぶプロセスにこのような、対象のものに「なってみる」という学び方があるとすると、何かを「感じ、気づき、わかり、できる」という分かり方とは違うものを感じるのですが、どうでしょうか。

見ている幼虫が、あの「はらぺこあおむし」であることを、子どもたちはみんな知っていることを付け加えておきましょう。茶色いうんちのような姿の幼虫と、綺麗な黄緑色のそれとは、子どもの共感力が違うだろうことも確かだからです。

 

モノをケアすることで性質や仕組みを理解していく

2021/05/15

ここ数日、わいらんすいの幼児では、水槽の高さを変えたり、ハサミの使い方を覚えたり、水や砂と出合ったり、色々なコトに熱中している様子が報告されています。こうした活動や遊びの姿の意味について、いくつかの視点から大切なことがいえます。

子どもたちは見たり、触ったりしながら、生き物や紙や水や砂の「性質や仕組み」に関心を寄せています。生物ゾーンにはメダカ、どじょう、ザリガニ、ダンゴムシ、カブトムシの幼虫などがいるのですが、らんらんのKAさんは「ダンゴムシが今はまだ寝ているの」と私に説明してくれるし、すいすいのTHくんは「ザリガニはお腹がへっているよ」とえさをあげる必要があると主張します。子どもたちは、生き物の立場になって、いろんなことを想像しながら、生き物の「命」を感じとっていることがわかります。

一方、ハサミで紙を切っているとき、「こうやったらうまく線の通りに切れた」という、使い方のコツを自分のものにしていっているのですが、そのときハサミと紙が、力の入れ方とか刃の擦れ具合とかを子どもに「語りかけている」と捉えることもできそうです。私たちはそんなとき、よく「モノと会話している」と表現することがありますよね。物の方がこちらに語りかけてくる、物の声が聞こえてくる、そんな物との関わり方を、子どもはよくやります。

水も勢いよく出すと、しぶきが飛んだり、強さを感じたりしているでしょうし、静かに流す時の音が小さいことに気付いたり、手で感じるものが異なることを試しているに違いありません。先生が教えてくれたのですが、そのとき砂場で子どもが心を奪われていたのは、砂が起こす「砂煙」でした。何かの拍子に立ち上ったのでしょう、子どもが驚きを持って感じ入っているのです。そんな世界は、大人の感性ではスルーしてしまうでしょう。

このように、子どもにとっての生き物、紙、水、砂は、ただ物としてあるのではなく、子どもの方へ「性質や仕組み」を明かしているという意味で、子どもの方へフィードバックしていることになります。一般にこのことは教育の領域「環境」のことだと思われています。

ところが、子どもが一方的に生き物や紙や水や砂に働きかけているのではなく、反対に物の方からも子どもに働きかけているわけで、双方向性のある「やりとり」になっていると解釈した方がいいんじゃないか、というのが日本保育学会の自主シンポジウムで語られていたのです。このようなとき、子どもはモノへの心配りがあり、物をケアしている事になるというのが佐伯胖さんの「ケアリング理論」(ノディングス)です。そうなると教育「環境」ではなく、養護(ケア)としての環境です(指針や要領はそんなことは認めていませんが)。

そうだとしたら、また子どもの「表現」の意味も変わります(転倒します)。ものが語りかけてくることを受け止め直していることが子どもの表現であることになります。この位置付け直しは、青木さんのダンスと同じなのですが、わかっていただけるでしょうか。マネキンとデザイナーのあれ、です。あの場合は、モノが自分の体なのです。自分の体と会話しているということです。それは自分の体を気にかけて(ケアしている)感じることが結果的に表現になっていくのです。外にある型を真似して同じ踊りができるようになる、という方向ではないのです。

 

したがって「美しい」と感じる感性は、大人が子どもに育てようとするものではなく、世界(モノの方)が子どもに語りかけてくるのです、じっと世界に分け入っていくことができれば。和歌や短歌を創るときと同じです。稲の苗やフラワープロジェクトで、ぜひ試してみてください。世界に没入すると、世界が秘密を打ち明けてくるようになるのです。

アゲハ蝶だろうか?

2021/05/11

保育園の「みかんの木」にアゲハ蝶と思われる幼虫が数匹見つかりました。幼虫といっても、まるで鳥のフンのようにしか見えません。私と虫好きな年長のTHくんと一緒に探してみたら、いました。みかんの木は、駐輪場側の花壇に開園した年の3月に植えたのですが、毎年アゲハがきています。

自生している朝顔が巻きついていて、どこにみかんの木があるのかわからないような状態になっていますが、アゲハ蝶にとってもう自分の巣立った場所がわかるような不思議な記憶装置があるのかもしれない、と勝手に思っています。

夕方のお集まりの時に、小林先生がみんなに「アゲハ蝶かもしれないよ」と説明してくれました。そのみんなの真剣な眼差し。

「どうして鳥のフンのようなんだろう?」先生がそう問いかけると、年長のもう1人のTHくんが「鳥のフンだと思って食べられないから」と明快解説!なんとも頼もしい「はらぺこあおむし博士たち」でした。

自然を身近なものに

2021/05/03

今日は屋上のプランターにひまわりの種を神宮司さんが蒔きました。昨年の夏は和泉橋からよく見えました。園の周りには、できるだけ分かりやすい季節の花を親しめるようにしたいのです。春はタンポポ、桜、チューリップ、菜の花、梅雨は紫陽花、夏はひまわりや朝顔、秋は菊やコスモス、冬はツバキやサザンカ、ナンテンなど。童謡に歌われているような花や木を実際に触ったり匂ったりしたいものです。

八王子の姉妹園から園だより5月号が届き、啄木鳥が木をドラミングする音が聞こえているといいます。ちょうど鳥のさえずりが夏を迎えているのが想像できます。園庭の藤棚もちょうど見どころでしょう。その場所は近くの池にカワセミがいるほどの自然が残っている場所なので、この千代田とは比べることはできません。

ところが、目を凝らすと千代田区にも季節を感じる自然が色々見つかります。ひまわりの種を蒔いた土の中から、カナブンの幼虫が出てきました。この土は買った黒土だったので、有機物があまり含まれていなかったのですが、だんだん土の中に微生物が繁殖し、小さな生態系が生まれようとしています。土の中から鳥が捕まえた獲物と思われる肉が出てきたそうです。「たぶん、カラスじゃないかな」と神宮司さん。三階建ての屋上にも、土があればそこを住処にする生き物がやってきます。昨年はバッタがたくさんいましたから、今年はそれがどう変わってくるか、新しい食物連鎖が生まれるはずです。

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