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見守る保育(保育アーカイブ)

「保育の過程」の2つの語り口

2022/08/29

当園の保育の特徴は、子どもの発達をとらえる「視点の広さ」にあるかもしれません。子どもの姿を多様な視点でとらえることは、保育の質を語るときに欠かせないものです。同じ子どもであっても、どんな視点でとらえるかによって、姿は異なってくるからです。その子ども理解を保育の起点(スタート)とし、そこから「こうあってほしい」という保育者の願いが保育計画や、次の保育の展開の機動力になっていくというのは事実だし、その流れを「保育の過程」と考えることが、今の保育の定説になっています。

しかし、その起点が動かない、保育が展開しない、という事実が多いのも現実であることを考えると、保育者の理解度、願いやねらい設定といった、保育者側のことで、子どもの体験が制限されてしまうとしたら、そこを乗り越えるためにも、子どもに任せる、子どもの思いや考えを「聞く」、そして子どもに生活プランの推進のチャンスを保証する、そういう範囲を増やすことが大事になっていると思えます。

今日29日(月)から保育実習生が一人きています。同じ子どもたちについて、私の見え方と実習生の見え方は違います。それはきっと、誰でも「そうだろうなあ」と認めてくださることでしょう。同じように私の見え方と保護者の見え方も違います。子どもと先生という関係と、親子関係とでは、違って見えて当たり前でしょう。園と家庭では、実際に行動パターンが異なるでしょう。人によって見え方が違えば、保育の起点や展開も変わるでしょう。

今日、こんなことがありました。朝、3階で久しぶりに「園長ライオン」をやりました。これまで何度も同じ遊びを積み重ねてきた子どもたちですが、やってみると子どもの成長を感じます。2年前と今、1年前と今では、この同じ遊びであっても「面白がり方」が、落ち着いているとでもいうのでしょうか、慣れている遊びの習熟度を感じます。弾むような興奮ではなく、気持ちが「熟成している高揚感」とでも言っていいかもしれません。ワクワク、ドキドキが楽しいという部分はあるのですが、それぞれに余裕があるのです。そんな違いはきっと私にか感じない「子ども理解」であり保育の「起点」です。

でも、今日はその子たちがその後、「和泉公園」に出かけて、トンボを捕まえてきました。もう自然界は秋です。そのプランは、主任や担任の「子ども理解」から始まったものですが、鍵になったのは、子どもがどうしたいのかを「聞いた」からです。トンボについて関心を持っていた子どもたちがいたことをキャッチし、さらにトンボを探して捕まえたい、という子どもの願いやプランを優先して、それを叶えてあげたい、と先生たちが工夫したからです。

保育者を主語にした保育の語り、そして子どもが主体となる生活づくりの語り。同じ出来事の連なりを、どちらで語るか、あるいは両方を共に語り比べることで、「新しい気づき」が生まれるのか、そんなことを試してみたいと考えています。

すいすいの「こどもかいぎ」

2022/06/20

すいすい組がミーティングを続けています。年長による「こどもかいぎ」です。何かのテーマについて自分の考えや思いを口にしてみる、伝えてみる、受け止めてもらう、そして場合によってはみんなの考えになっていく・・・そんなプロセスを経て、ある物事が決まっていく。年長組という小さな社会での意思決定プロセスにも立派な民主的手続きが芽生えています。

最近、目に見える形で「すいすい殿の10人」が決めたものは、今週の散歩でどこにいくか、何をするか、でした。その結果、すいすい組の今日の戸外活動先は「秋葉原練塀公園」に、先週のうちから決まっていたのです。

週案をこどもたちが決めていく。生活や学びをプランニングしていく試みが、年長さんたちから始まっています。

3〜5歳の部屋は3階ですが、朝のお集まりは2階のダイニングで開かれます。すいすい組の部分的週案をもとに、らんらん(4歳児クラス)、わいわい(3歳児クラス)のこどもたちも、外に行くか室内で過ごすか、考えながら選んでいました。

選ぶときに「行ったことがないから、どんなところか行ってみようかな」とか「あそこに行って、こんなことしてみたい」とか「お部屋で園長ライオンしたい」とか、いろんなプランを思い浮かべていることがわかります。この見通しをもつ、計画を思い描くことが大事です。この「思考」のところが、まさしく非認知的スキルの育成の瞬間なのですが、ポイントは見通しや思い描くための「材料」を、一人ひとりの子どもが持っているか、です。

一度行ったことがあれば、その体験に基づいて「また行ってみたい」「もっとやってみたい」ということになるのですが、やったことのない場所や活動については、選択対象に入ってこないので、自分でこれまでやってきた体験から選ぶことになってしまいます。

そこで新しい体験をこども自身が選ぶことは難しい、という前提に立って、誘う、導く、試すといったことが必要になります。これが教育界でよく使われる言葉「動機づけ」です。私たち保育の中では、子どもに見えるようにすることで、子どもたちが最初から持って生まれてくる好奇心や利他性などに働きかけます。

子どもは本来「新しいもの好き」なので、その新規性の刺激を与えて、触ってみたい!やってみたい!に点火します。手にとってやってみる、行ってみる、試してみる・・その世界を広げていくことが環境を通した保育の動機づけの部分になります。晴れた日に出かける公園をどこにするか。それも子どものが生活を作り上げていく参画になっていくのです。

自主研修会で非認知的能力について学び直す

2022/04/22

<・・・他方、様々な研究成果の蓄積によって、乳幼児期における自尊心や自己制御、忍耐力といった社会情動的側面における育ちが、大人になってからの生活に影響を及びすことが明らかとなってきた。これらの知見に基づき、保育所において保育士等や子どもたちと関わる経験やその在り方は、乳幼児期以降も長期にわたって、様々な面で個人ひいては社会全体に大きな影響を与えるものとして、我が国はもとより国際的にもその重要性に対する認識が高まっている。・・・>

この文章は、平成30年3月に出された現行の「保育所保育指針」の「序章」に書かれている文章です。指針や要領は約10年ごとに改定されているのですが、改定する理由は時代が変わって新しい制度ができたり、子育てをめぐる課題が変化したり、それらの「大きな社会問題」に対応するためです。また、ここに紹介した文章のように、保育の質をめぐる学術的な新しい知見が登場し、保育のねらいや方法をよりよく改善していくことが求められるからです。

その一つが、「社会情動的な側面」をどのように育てるか、というテーマになります。この社会情動的能力とは、何かができたり分かったりする認知的な能力ではありません。認知的な学力は、これまでも学校教育が力を入れている教科学習の側面ですが、そうではなく自尊心とか自己制御とか忍耐力といった、非認知的な能力になります。私たち保育者が「生活と遊び」の中で、その教育のねらいとしてきた「心情・意欲・態度」がそれにあたります。このことを、今は「学びに向かう力、人間性等」と呼ぶことになっています。

こんな指針の理解について、何が改定の特徴だったのか、何が求められるようになってきたのかなどを、今日は「自主研究会」という形で改めて学び直しました。使った事例は最近の子どもたちの姿です。こんな「勉強会」を開く目的は、子どもたちが何がどのように成長したのか、何を身につけたのか、それを私たちが読み取る視点の中に、ここで取り上げた「非認知的スキル」の観点もしっかり位置付けたいというわけです。

また、社会情動的な能力や非認知的なスキルの他にも、感じたり、気付いたり、分かったり、できたりする「知識や技能」、それから、それらを使って考えたり、試したり、工夫したり、表現したりする「思考力、判断力、表現力」などもあります。これら3つを合わせて「資質・能力」という言葉で、乳幼児期から高校まで、一貫して捉えることになっています。

この保育園を卒園したら、小学校での学びと生活が始まるわけですが、そこでもずっと、この「3つの資質・能力」の育成が継続されていくのです。この3つの観点で評価されたことが「通信簿」に反映されます。では、小学校以降の学びの中で、生きて働くように、保育園時代にやっておかなければならないことはなんでしょうか。そう考えた時にはっきりするのが、「生きる力」の源になってくる、いわばエンジンのような非認知的スキル、社会情動的スキルの習得ということになってきます。

先日16日(土)の藤森先生の講演では、これからの時代に必要な力は「会話する力」「協力する力」「実行機能」の3つである、という話もあったわけですが、これも大事な非認知的能力に他なりません。そしてこれらの力は、相手や仲間や集団の中で育つものばかりです。家庭では育てたくても、なかなかそういう体験が起きるような人的環境がありません。人間の「人間らしさ」の基礎的な力は、人類が集団の中で獲得してきたものが多いからです。自主研修会では、動画を見ながら話し合ったのですが、私たちが園生活の中で当たり前と思っている人的環境は、今の時代の発達課題を考えると、とても貴重な場になっていることが見えてくるのです。

自尊心、自己制御、忍耐力という言葉で代表される非認知的な力は、現在の研究では11項目に整理されています。これらの力がどんな場面で子どもにとって学ぶ機会になっているのか、それを一つずつご紹介していきたいと思います。そして、この「学びに向かう力」をしっかりと身につけることで、小学校以降の人生が豊かになるように、幸せになるように、していきたいと思います。

自立の姿(その10)遊び

2022/03/10

今回で「自立の姿」の短期連載は終わりです。これまで生活の中から、食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔、危険回避、身近なものの扱い、あいさつについて「自分でそうなる」ような自立の意味やポイントや述べてきました。最後は、子どもたちの本分ともいえる「遊び」です。遊びの自立というのは、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもに好きなようにしていいよ、という状態を与えると、誰に言われなくても、自分からやり出すことがあります。それが遊びです。勾配のある場所に水を垂らすと、水は低い方へ流れます。それと同じように子どもは遊び始めます。私が保育の仕事を始めた四半世紀前、研修で聞いた話が忘れられません。それは幼稚園で「お絵描き遊び」をしていた時の話です。遠足にいった思い出を描いていたそうです。きっと楽しかったことを、それぞれの子どもが絵にしたのでしょう。研修の先生は「実は、このお絵描き遊びは、遊びではありませんでした」というのです。私はどういう意味だろうと思いました。話はこうでした。このお絵描き遊びが終わった子どもが、先生に所にやってきて、こう言ったらしいのです。

「先生、お絵描き終わったから、遊んでいい?」

子どもたちにとって、お絵描き遊びは、遊びではなかったのです。子どもは自分がやっていることが、遊びかどうかをわかっています。遊びというものは、自分でやりたいことをやり始めます。人にやらされることは遊びになりません。

一見、いかにも楽しそうに見えたり、大人から見て、やっている活動に意味のあるものに見えれば見えるほど、大人にとって、それが遊びなのか、そうでないのかの見分けが難しくなるかもしれません。でも見分け方は、簡単なんです。遊びは水が低い方へ流れるように、本当に自然に始まるものなのです。「さあ、これからお絵描きをします」。とって始まるお絵描きは、それをやりたかったならいいのですが、やりたくない子にとっては苦痛なものになります。

遊びの自立とは、まずこの条件が満たされることです。まずは、その遊びが遊びであること、です。

そうでなければ、「遊びもどき」の活動は遊びではないので、自分からやろうという気になりませんし、熱中しませんし、継続しません。基本的に「できればやりたくないなあ」という気分モードなので、やめるきっかけがあれば、さっさとやめます。

それに引き換え、本来の遊びは、自発的なものです。ですから、最近の保育所指針や幼稚園教育要領には、「遊び」と書かずにわざわざ「自発的な遊び」と書いているのです。遊びは本来、自発的なものなのですが、そうでない遊びが混ざり込んできやすいからです。「遊びは自発的なものですよ、大人がさせる遊びは慎んで下さいね」というのが国の方針です。本物の遊びでなければ、子どもは育ちません。本当の学びになりません。必要はものは子どもがやりたがる遊びの中で身につけるのです。その時、遊びの中で何を学んでいるのかを見極める力が、プロの保育士の力です。

これは他の生活の活動では、迷うことはないでしょう。食事は食事ですし、排泄は排泄です。それか食事なのか、排泄なのか、遊びなのか迷うことはないでしょう。ところが遊びの場合は、自然とそうなる傾向を持っているので、寝る時間だから寝せとうと思っても遊びが終わらない、とか、最後まで食べてほしいと思っても遊び食べになる、とか、あるいは手を洗っていたと思ったら水遊びになっていた・・・こんなことの連続ではないでしょうか。

ここではっきりすることがあります。それは、遊びは子どもにとって自然と「始まる」ものであり、自発的なものでなければならず、そうでない遊びは強制的な遊びか、自分で選び始めていない誘導された活動です。したがって、本物の遊びの自立を考えると「お終い」にすることが、課題になってきます。そこで遊びの自立の姿とは、「自分で遊び始め、自分でお終いにできる」ということになります。遊びは終わることが難しいものなのです。そこで自分で遊びをお終いにできる、区切りをつけることができる、一旦やめることができることが、現実的な生活の中では「自立のテーマ」になってくるのです。

そのヒントは次のようなものです。

(1)遊びは中断してもまた「続きができる」ことを納得できるようにすることです。これは発達が未熟なうちはできません。「一旦、おしまいにしてお食事にしよう」ができるようになるのが、これもまた見通し力が育つ満3歳のころなのです。2歳の頃からまた後でできる、という体験を積み重ねることで、それができるようになっていきます。

自分で決めることにこだわる時期に「すぐにやめる」カードと「あと1回」のカード2枚、3枚などを選ぶという方法もあります。選択肢の中で選ぶことで、自分が決めてそれに従いやすくなる時期があるものです。その段階を過ぎると「まだ途中です」とカードや札や目印を自分で置いたり示したりして、一旦おしまい、ができるようになります。

(2)質の高い遊びは、継続性が見られます。1日から2日は当たり前で、1週間ずっと続いたり、1ヶ月2ヶ月と続くことだってあり得ます。このような遊びは、同じような遊びをしているように見えて、実にさまざまな体験が含まれており、それを縦横無尽に使い切っていたりします。このように長い遊びは、一旦区切る、一旦おしまいにするということが何度もできており、遊びが自立していると言えます。

(3)もっと長い遊びがあります。それは実は人生です。私たちは本当に真剣に仕事に打ち込み、何かを成し遂げ、探求したり協力したり、何かを発明したり、社会に貢献したりしながら生きているわけですが、その本質は本物の遊びに似ています。人生にとって遊びの区切りをつけるということは、人生における本当の自由な生き方の選択に似ているなあと、私は思っているのですが、それはまた別の機会に。それはともかく、熱中して遊び込んでいる子どもの姿は、子どもの人生の熱中度を表しています。子どもが本当に生きている時間を過ごすには、本当の遊びを保障することです。そうやって遊ぶことが、その後の生活の基本を作っているのです。

自立の姿(その9)あいさつ

2022/03/09

本来のあいさつというものは、心のこもった言葉が交わされる繋がりを、浮き彫りにしたり、ないと困る心情なのに、本当はそうではないのにあることにするためだったり、あからさまにしないための方便であったりと、人間が編み出したうまい知恵のように思えます。ただ、好ましい挨拶は、それが嬉しくてその気持ちを再確認するような心の働きをもつ場合でしょう。

次のエピソードは、一度話したことがあるのですが、藤森統括園長が誕生日のお祝いに、園児から紙で作った紅白饅頭をもらった時の話です。「わあ、ありがとう」とお礼を言ったそうですが、その園児はしばらくして戻ってきて「あれ、嬉しかった?」ともう一度聴きに来たそうです。「ああ、そりゃ、嬉しかったよ」と藤森先生は答えたそうです。

このエピソードは私にとって、忘れられない、いい話だと思います。私はこのように感じています。その子は、最初に藤森先生に「ありがとう」と言われて、嬉しかったのでしょう。プレゼントはもらったら嬉しいわけですが、この場合「ありがとう」と言われたことが「嬉しかった」のではないでしょうか。ですから、その子は、自分に沸き起こった「嬉しさ」を感じていて、プレゼントをもらった藤森先生にも、その気持ちを確かめたくなった、のではないでしょうか。この心の通いあいを確かめたい、味わいたいという子どもの心の動きが生まれたは、とても大切な体験だと思うのです。

私は次のような話を毎年学生に必ず話します。「ごめんねは魔法の言葉」という話です。どうして「ごめんね」が魔法の言葉かというと、それを言って謝ると「いいよ」って許してもらえるからです。よくないことをしたら、ごめんなさい、と自分の子どもは素直に謝れる子どもになってほしいと、多くの親は願うでしょう。それなので、大人は子どもが悪かったら「ごめんねは?」と謝らせるのでしょう。

しかし、この話の次に、こういうのです。「ごめんは魔法の言葉にしてはいけません」と。悪いことをしたら「ごめんねを言いなさい」と、やり続けると、こんなことが起きかねません。実際にあったことですが、友達が作った積み木を間違えて壊してしまい、その子はすぐに「ごめん」と謝りました。しかし、やられた方はいいよ、と許せません。せっかく作ったものが台無しになったからです。すると「ごめん」が何度も繰り返されて、最後には謝っていた方が「なんで、いいよって言わないんだよ」と怒り出しました。

ごめん、と謝ればいいんだという方法だけが、その子どもには習慣になってしまったのでしょう。呪文のようの唱えることがごめん、という使われ方になったのです。ここで立ち返りたいのは、謝るというのは、本当に「ああ、悪かったなあ」という気持ちがこもっているかどうかが問題なのです。心のこもった「ごめんね」かどうか。それが「許し」を促すからです。これを心の通いあい、というのです。謝罪における心の通わせ方の基本です。これは最初のお礼「ありがとう」にしても、感謝の「ありがとう」にしても、言われた方が、心が温かくなります。

つい今さっき、和泉小学校へ4月に入学する子どもたちを連れて行ったのですが、昼食の時にTHくんから「今日楽しかった、ありがとう」と言われました。卒園した1年生が5人いるのですが、再会できたからです。その子は、その言葉が自然に出てくるようになっているので、素晴らしいと思います。そばで聞いていた千代田小にいく予定の子たちは「えー、いいなあ」と、本当に羨ましいようでした。その一言を聞くと別の機会に連れて行ってあげたいと思ったのでした。

人は人と関わり合うことを本質に持っている生き物です。面白いのは、かかわりあいや、一緒にいることや助け合うこと、心を通わせることをこんなに真剣に求めあう存在なのに、その一方では、一人ひとりが全く異なるものを携えて生きてきたし、生きていく存在だという、この2面性があることです。分かりあうことを真剣に求めていながら、分かり合えないこともあることを認めなければならないような、そんな矛盾した世界の中で、誰もが真剣に生きています。

社会的な生き物でありながら、人間だけがもつ個人の奥深さという、この2面性の中で、その接点を常に確認し合う営みが「あいさつ」なのです。ですから、挨拶というのは、挨拶を必要とする関係から挨拶を必要としない関係まで、実に幅広い人間的繋がりのスペクトラムの帯の中で、それにふさわしい形というものを取ります。挨拶にこれが正解というものはなく、そこに込められた心情や気持ちを大切にする中から、生まれた知恵のようなものでしょう。

出会いの挨拶、別れの挨拶、セレモニーの挨拶、政治家の挨拶、市井の人々の日常の挨拶、いろいろな挨拶というものがありますね。それぞれに意味や歴史や彩りが異なり、それぞれに期待されている役割があります。小さい子どもたちにとって、大切にしたいことは、あくまでも気持ちの通いあいが「嬉しい」と思えるような体験になることです。

毎日、その都度、必要な時に使うもの挨拶です。いま、外遊びから帰ってきた子どもたちが「ただいま〜」と元気な声で<楽しかったあ〜>という気持ちを伝えてくれます。誰もいないのかな、と思っていた場所で「ばあ〜」と私を驚かして喜ぶような朝の挨拶もあります。あるいは「私がここにいるよ、気づいて」というサインのような挨拶もあれば、いつまでも深々と頭を上げずに、そこにはこぼれた涙しか跡に残さないような挨拶もあるでしょう。

あいさつは「こんにちは」「おはようございます」と挨拶することで、私はあなたに心を開いていますよ、身近な人だと思っていますよ、という確認なのでしょう。挨拶をしたい相手や場面や状況に応じて、あいさつが生まれたり、なくなったりします。挨拶というのは、それによって相手との関係が見えてくるものだからです。

その判断は多様な経験の中で、ふさわしい形を編み出した方がいいのですが、学校や町会などが行う「あいさつ運動」という場合の、あいさつは「ここには自然発生的に生まれる挨拶がないので、することにします」と宣言しているように見えます。いかに心を通わせる空気がなくなってしまったのか証明しているように見えます。あれをやってしまうと、挨拶がもつ本来の多様性や歴史や意味あいが漂白されてしまいます。人間関係が希薄になって心を通わせることが難しくなった時代を自ら覆い隠すために行っているということさえ、気づけない鈍感な人間関係を蔓延させてしまうのです。

子育てで大事な挨拶の姿は、大人同士が気持ち良く心を通わせているかどうかです。クレーマーにはきっと挨拶がありません。一方的ですから。大人同士が楽しそうに心を通わせている関係を見ると、その空気の中で子どもは安心して心を許し、素敵な挨拶を示してくれるようになります。やらされている挨拶は痛々しい。そのさせる力がなくなったら、きっとしなくなるものだからです。先にあるのは心と心のつながりなのです。保育はそれを守り、育てる営みです。

 

自立の姿(その7)危険回避力

2022/03/07

危険を回避する力は、生きていく上で、どうしても必要な基本スキルです。どこで何をどうしたら危ないのか? 何をやってよく、何をしたら危ないのか?この判断力と行動力は、どうやったら身につくのか?ーーここに大きな保育のテーマがあります。この危険回避力の自立の姿は、どういうものでしょう?

 

「さまざまな状況の中で、自ら安全な生活をを作り出す力を身につけること」

これがリスクを回避できる自立の姿です。ここでのポイントは、リスク判断なのです。どうやったら、こうしたら危ないと予想して予め回避できるようになるでしょう。自立にはその発達の過程があります。赤ちゃんの頃からここでできる、年長さんになったらここまでできる、そんな身体的、精神的な発達の段階があります。

発達というのは自分で関われる世界、自分の中に取り込める世界が「広がっていく過程」だとも言えます。そばにある物が触ってもいい物なのかどうかは、大人でも分かりません。山菜取りで食べていいキノコと毒キノコの違いは、体験で学ぶことは危ないことになります。人間にはその判断力は本能や遺伝の中に組み込まれていないからです。しかし山に棲む熊は、その差を間違うことはありません。それを破断できる感覚の器官を持っているからです。

手に取って口に持っていって、舐めて確かめる赤ちゃんにとって、その物に毒や病原体がついているかどうかは判断できません。目に見えないもの、匂いで判断できないもの、音を聞いて区別できるもの、そういうものは、外界を捉える感覚器の感度や力によって異なるからです。

子どものことを話しているので、人間の感覚の感度と判断力の限界を知っておけば、学ばなくても自分で判断できる危険と学習すべき危険を分けることができます。研究によると、人の場合は学習しないと判断できないことの方が多いそうです。これは能力が劣っているということではなく、環境への適応力を高めるために、つまり環境が変わっても生きていけるように柔軟に適応できる仕組みを持っていると、言い換えることができます。動物の本能は学びが少なくても適応できますが、個体の一生の間に変わってしまう環境へのリスク回避はできません。レジ袋を海藻と間違えて食べてしまうウミガメのように。

寝返りもできない頃の赤ちゃんを坂道に寝せると転がってしまいます。自分で回避できません。しかし、はいはいができるぐらいになった赤ちゃんは、断崖の前に座らせると、それ以上進むことを躊躇するそうです。これ以上やっていいの?という警戒心が育っていることになります。9ヶ月ごろをすぎると、周りの人は「意図」を持っていることを理解できるようになるので、「ここ、どうなのよ、行ってもいいの?」と大人の表情から、いい、悪いのサインを読み取るようになっていきます。社会的なサインを参照しようとし出すのです。

複雑なものや場所になると、もっと詳しく「どうやったら安全か」を学ぶ必要があります。これは体験の積み重ねからの学習がものをいうので、小さいことから危険回避の学習機会を多く用意しておく必要があります。この考え方に基づいて、ヨーロッパの「乳児の」多くの保育園では、芝生にした園庭にわざわざ大きな岩を置き、アスファルトで舗装した歩道をあえて土と石の歩道に作り替え、あえて段差を設けています。なんでも滑らかにしてしまうユニバーサルデザインとは異なる発想です。

階段は手すりを持つことで転びにくくなること、花瓶は倒れたら水がこぼれること、お茶碗は落とすと割れること、高いところから落ちると勢いがつくこと、器の水はそっと運ばないとこぼすこと、人の体は転ぶときに咄嗟に手で支える必要があること、このようなことを「体験しながら」子どもたちは身につけていきます。走ると急には止まれないこと、手すりから体を乗り出すと思わず前転してしまうこと、通れそうな細道も壁に体が当たって通れないこと、前むにき入れた頭も振り返ることができないこと(頭は楕円形なので)、目が痒くなっても汚れた手で目を擦ってはいけないこと・・・こんな数えきれないほどたくさんのことを、子どもたちは生活の中で、その都度身につけています。

馬の水飲み場の木登り、和泉公園の木登りを怪我をしないように丈夫に登れるようになるには、これらの力がうまく組み合わさっています。子どもの生活圏を、危なくないように何もないようにすることは、かえって危険です。自分で危険を回避する判断力と適応力、応用力を育てるチャンスを失うからです。安全の自立というのは、子どもが転ばないようにガードしたり、転んでも怪我をしないようにクッションを用意することだけは足りません。転んでも自分で手をつけること、転ばないような歩き方、走り方ができる能力を育てることが必要です。

幼稚園教育要領や保育所保育指針には、教育の「健康」領域に、こう書いてあります。

「健康な心と体を育て、自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」

子ども自らが、安全な生活を作り出せるようにしましょう、というのです。大人がただ安全な生活を与えるのではないのです。

 

自立の姿(その5)衣服の脱ぎ着

2022/03/05

(90度が4か所あるのが、お分かりでしょうか)

 

「先生、やって」「ああ、いいよ、向こう向いてごらん」

3月4日の子どもクッキングで、エプロンの腰紐を自分で後ろ手で結べないので、やってほしい、というのです。私は「ああ、いいよ」と、やってあげるモデルを見せるつもりで、そうしますが、先生によっては「お友達にお願いしてみて」と、子ども同士の助け合いの体験へ導くような返事をすることも多いです。

それはともかく、小学校中学年以降ぐらいになると、エプロンの紐を後ろで蝶結びできるようになるかもしれませんが、幼児では無理です。そこで大抵は、結ばずに済むようにゴムにしたり、マジックテープにしてもらっています。頭の三角巾も四角の状態から自分で被ることは、幼児ではまずできません。最初から三角形のゴム紐付きにしてもらっています。マスクも、どっちが上なのか「これでいい?」と聞いてくる子もいました。今のマスクは鼻を覆う方が少し窪んでいるデザインのものがあるのですが、その微妙な違いを見分けるのも、幼児では難しいのです。

衣服を着たり脱いだりすることができることは、衣服の着脱の自立といいます。昔、よく身辺自立といういい方で基本的生活習慣の自立のことを、そう呼んでいました。自分ものは自分で始末できる、というフレーズもよく使われました。身辺とか始末とか、けっこう強い語感の言葉が保育では使われていました。自分のことは自分で始末しなさい。生活力の鍛錬にも似て、訓練することが自立の秘訣かのように言われていました。身辺自立ができていないと幼稚園にはいけません。そんな雰囲気があった時代もあります。確かに、30人を一人担任で見るような教員配置の制度のままで(いい加減、無理な配置数はとっとと改善したらいいのに)、身の回りのことが自分でできないと、集団生活が成り立たない、そんな考えが保育の前提に横たわっていたのです。

人間が衣服を使うようになったのは、体を保護すること、体を清潔に保つこと、暑さや寒さの加減をすることなどの必要性からです。その目的を考えれば、現代では生活環境は安全なものになり、お風呂に毎日入ることができ、衣服も洗濯して常に清潔であり、部屋の温度も機械でコントロールできるようになり、衣服の役割は、この保護、清潔、保温などの役割を超えて、別の価値が付加されきました。

オリンピックの開会式などを見るのが、私は好きなのですが、何が面白いかというと民族衣装が登場する国や地域があるからです。でもウクライナのキエフの駅で戦火から逃れる人たちの報道を見ていると、怒りから胸が熱くなります。戦争は命も食糧も剥ぎ取り、衣服でさえままならない状態へおいこむ、惨たらしい卑劣な行為です。プーチンよ恥を知れ!

園児たちは、自分の服を見せてくれます。「ねえ、これ可愛いでしょ」と、今日はこれだよ、と見せてくれるのが朝の挨拶になっている子もいます。「うん、可愛いねえ」と心を通わせてにっこり。一度靴箱に入れた後で、通りかかった私に、わざわざ「待って」と声をかけて、買ってもらったばかりの靴を見せてくる男の子もいます。これらは最高の朝の挨拶ですね。このように装飾的服装つまり衣装の意匠の役割が大きくなりました。ミッキーやキティや鬼滅やシンカリオンが子どもたちの衣服に欠かせないものになっています。

そこで、話を衣服の着脱の自立の話に戻すと、これらを自分で着たり、脱いだりできることができやすいものにしていただきたいということです。頭の大きさに比べて首回りが小さいと子どもの力では頭が通らない、という光景を何度も見ます。体の大きさに比べてサイズが小さくて、右腕は通ったものの、左袖に左腕が通らない、ということもありました。夏の水着はぴっちりしすぎていて、ほとんどの子が自分では脱ぎ着できません(これは仕方ないかな)。

ボタンホールは大きめですか。窮屈だと、それだけて「できな〜い」に、なってします。

例えば、市川宏伸さんの著書にも、次のような説明がありました。

〈・・ぜひ育てていきたいもの。そのためには人との比較ではなく「自分としてはここまでできたから凄い」と思える「成功体験」が大切です。小さな事では、自分でボタンがかけられない子なら、ボタンホールの大きな服に変えて上手にボタンがかけられたならこれも1つの成功体験です。苦手な事は手伝って、1つでも成功体験を増やす丁寧な対応が必要です。・・〉

靴の脱ぎ着も、自分でできるようになるには、自分でやりたい!という時期がきたらチャンス到来です。時間がかかっても、じっと待ってあげられる、余裕を持った時間配分をお願いします。身支度の時間というものを、生活の流れの中に確保してあげてください。できないところは手伝ってあげても、最後の「美味しいところ」は自分でやれた!、履けた!という気になるような援助がいいでしょう。

ジャンバーのチャックは下の始まりのところが難しいことが多いです。手が届かないこともあります。水筒も襷にかけることができるようになってほしい。紐が外れると自分でつけることができないことも多いですね。紐の長さの調節はこの幼児で無理なようです。また後で物の取り扱いのところでも触れますが、押して開く栓が固くて、自分では開けられない、という場合もあります。購入するときには、子どもと一緒にやってみて、自分でできそうかどうかも試していただくといいかも知れません。

これは単純に自分でできるようになることが、周りの大人の手を借りずにできるようになるから、周りの大人が助かる、ということ以上に大事なことがあります。それは実は、自信がつくのです。それが明らかに伝わってくる瞬間というものがないだけに、本当?と思われるかもしれませんが、満2歳になっていく前後から、なんでも「自分で!」という時期がきます。この頃からの発達課題にとっても、やってみてできるようになることが、生きる力そのものを育てている面があります。そう思って、排泄や衣服の自立を気長に見守ってあげてください。

幼児になると、自分でできること、お願いすればいいことの判断がつくようになりますから、もう大丈夫ですが、そこに至るまでの「自分で!」の時期は、子育ての我慢比べになることもありえます。どうぞ、大人がおおらかさと心の余裕を確保することを、セットで用意しておきましょう。(余計な話かも知れませんが、細かいところに気づけないのがお父さんですが、この場合のお父さんはお母さんの話をちゃんと聞いてあげてくださいね。)

自分らしさを再確認してもらう成長展

2022/02/26

当園の成長展は、クイズ形式になっていて、「はて? これがうちの子だろう?」と、いろんなものを当ててもらうようになっています。手型はどれかな?足型は?身長は?体重は?と、自分のお子さんのことをどれくらい当てられるか、コーナーを回っていきながら、お子さんの成長のあれこれを理解してもらいます。一人ひとりの成長の記録が個別のファイルになっており、在園中の育ちが個別のポートフォリオのアルバムになっていく仕掛けです。

子どもの育ちは、日本では教育の5領域で捉えることになっています。健康、人間関係、環境、言葉、表現です。そこで成長展でもこの5つの視点でまとめてあります。例えば領域「健康」では、身体的な育ちを手形、足型、身長、体重の4種類です。

領域「人間関係」では、動画によって「コミュニケーション」をご覧いただき、展示ではクラスのお友達の名前を当ててもらいました。

領域「環境」は、子どもが好きな遊びの種類は、好きな公園を知っているかどうか。

そして領域「言葉」は、私たちが「シルエット」と呼んでいる影絵での物語作りの掲示物で、自分のお子さんの作品を選んでもらいます。

領域「表現」では、画用紙に描いた「ぬりえ」「人物画」「自由画」の3種類の子どもの作品です。この作品は、シルエットもそうですが、一年のうちで3回描いてもらい、その変化を辿ることもできます。

先生からのメッセージは、子ども一人ひとりの個性を文章でまとめてあります。私もやってみると、当たり前ですが大体当たりました。この子はどの子か、その子らしさが描かれています。

自由画や人物画、ぬりえにもその子の世界、興味関心のあるものなどが現れていて、ここでも「その子らしさ」が現れています。

この成長展は、クイズになっているので、自分の子どもの作品だけではなく、他のお子さんの作品も見ることになるので、「あ、これはきっと◯◯さんだね」などと、個性の幅広さを知ってもらう機会にもなります。

私たちの保育園は、どの子どもも、その子らしく生きていくこと、自分らしくいられることを最も大切にしています。

それは入園のための見学案内の時からお伝えしてきたことでもありますが、日々の生活でも、このような行事でも、そのことは変わりません。

他の人やものと比べて、良し悪しや優劣をつけるような世界とは無縁です。かけがえのない一人ひとりの存在が、そのままでいい、みんな違っていていい、という大きな肯定が、私たちの保育園の最大のメッセージです。

行事のたびに、とても凝った食事が出るのですが、その行事食の様子も、全て展示されました。好評だった食事のレシピも、紹介しました。

成長展でお伝えしたい子どもの育ちとは?

2022/02/23

(動画はIDパスワードが必要な「お知らせ」からどうぞ。2月26日から)

子どもの育ちを伝えたい。そういう趣旨の「成長展」が今週末の26日(土)に開かれます。日本の保育園や幼稚園は、子どもの育ちを5つの視点で捉えることになっています。それは、健康、人間関係、環境、言葉、表現の5領域というものです。この話をすると、何か専門的な感じがして難しく思う方がいらっしゃるかもしれませんが、こう考えると、わかりやすいかもしれません。

私たちは人間です。人間とは?と解説したものはたくさんありますが、そこで共通なのは、ヒトは社会的存在だということです。お母さんのお腹の中にいた時から、母子の間でコミュニケーションをとっていて、そのやり取りは心理的にも身体的にも、重要なやりとりをしながら、初声をあげます。人間は人間に育てられないと育たない存在だということです。

ヒトは動物と共通なものを持っています。確かに動物にも家族があり社会があり集団を持っていますが、人間の社会の場合は、その「関係」の質が育ちそのものに大きな影響を与えるような関係だということが、動物とは異なります。アリストテレスの「人間は社会的(ポリス的)動物である」という有名な言葉がありますが、それです。

その集団の在り方が、子どもの成長にとってはとても大切だということは、言い方を変えると、人間関係が育ちに大きな影響をもつ、ということになります。そこで、今年の成長展は人間関係をテーマにしました。つまりコミュニケーションです。この人との間に心を通わせる、気持ちをやりとりする、その様子から育ちの姿を動画でご覧ください。

この人間関係の発達がどんな状況で行われるのか、と考えるために「環境」を捉えることが保育になります。この環境には大きく分けると自然環境と人工的環境があるのですが、人工的環境というのは、人間が作り出す物やことは全てこの環境のことです。ですから言葉も表現もここに含まれるのです。教育の5領域というのは、健康に人間関係が育つことなのですが、それを捉えるのは環境との関係で考えましょう、ということです。そして環境の中でも、人間だけが獲得した表象としての言葉と、言葉以外でも表すことができる表現に注目しましょう、ということになっているのです。

人間の心身の育ちは、健康であることは必須条件のようなものであり、人との関わりの中で育つ社会的存在ですから、子ども同士の中で使われる関わる力、言葉の力、表現の力を見ていくことにしましょう。関わる力は動画でじっくりご覧ください。そして言葉はシルエットを使った物語の想像力を通して、そしてぬりえ、自由画、人物画でどのように変化してきたかを感じとってみてください。

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

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