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見守る保育(保育アーカイブ)

架け橋のむこう

2022/11/12

先日の「クラスブログ」に、最近の年長すいすい組の姿が断片的に紹介され、こんなことが書かれています。「小学校がイメージしてくるすいすい組。 幼児期までに育ってほしい10の姿。 これが育まれていることを感じる姿がよくよくみえてくる最近のすいすい組です。」と。

小学校がイメージしてくる、というのは、小学校へ就学すること想定すると、こんな姿を捉えてみたくなる、意識してみたくなる、そうした窓でそんな姿を切り取ってみると・・・といったことでしょうか。そうしたら、そこに「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」でいう姿が見えている、というわけでしょう。例えば、こんな姿です。

◆泣いているお友達がいて、「どうしたの?」と駆け寄り、(お当番一人でやるの嫌)理由がわかると「そしたら一緒にやってあげようか。」と提案する姿。

◆自分のお当番の日ではないけども、「先生。今日は○○がお休みでいるからお当番変わりにやるよ」といって、エプロンを取りに行く姿。

◆「今日は○○が掃除当番やらないって、だから代わりにやってあげるよ」とお掃除当番に来る姿。

◆「昨日、また遊ぼうと約束していたから1階にお手伝いに行かないといけないから、いい? (その子が)待っているんだよ」と乳児の言葉に耳を傾ける姿。

◆「もう少し、こうやるといいんだよ」とエサのあげ方、関わり方のアドバイス、やらせてあげようとする姿。

◆「あ。私書けるよ。書いてあげようか。」(自分でやる)「そうわかった。あ、すごい上手!!!」と手伝っているようで寄り添っている優しさ。

◆「みんな。今はさ、○○をするときだから、もうはじまるよ」とリーダーシップ。

こんな姿が「子ども同士のかかわり」の中だからこそ出てくるものなのでしょう。さて、そうした関係の継続も小学校以降の生活と学びにどのようにつながっていくか、担任は気になっているようです。「架け橋」の向こう側でも、そうした人的環境を構築していってもらいたいと、担任は考えています。

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

「ありのまま」の受け止め方について

2022/10/17

「アナ、かわいいね!」って声をかけたら、「ちがう!エルサ!!」っておこられました。

ごっこ遊びの場所には、コスチュームや衣装が置いてあるので、それを来てアナ雪の世界を楽しんでいます。男の子もアナかエルサになったりしています。

こういう失敗が、私の場合、時々あります。この辺りの会話は、キャラクターやジェンダーのテーマとからむので、気を使うのですが、そういうことを考えていると、冒頭のように大事なことをハズしてしまいます。「そこ、はずしたら、ダメじゃん!」のパターンです。

「アナと雪の女王」は先生の女王役が登場したりして、数年前に劇遊びでよく盛り上がりました。そして例の「♪ありの〜ままの〜」が歌われます。思い出すと、懐かしいですね。

当園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」なのですが、昔、タレントの木梨さん(とんねるず)がテレビ番組の収録で保育士の体験に来たことがあって、保育を体験した後の感想で「この保育園なら、うちの子がどんなタイプかわかるなあ」と言っていました。つまり、その子らしさを、そのままま出せる場所だという意味です。そういう感想をもらうと嬉しかったことを思い出します。

また転園してきた子のお母さんが「初めて保育園でトレイできました」と泣かれたことありました。ストレスで頭部に丸い脱毛があった子が、うちにきて治ったりしました。「大声を出しているから声が枯れてしまう」という先生が見学にいらして「ここなら定年まで働けそう」と言われたり。居場所というのは、精神的な安全基地になるということが大きいのでしょう。学校に居場所がないなら、家庭も地域も新しい学校にするといい。ネット技術があるからできるはず。それがソサエティ5・0です。

さまざまな欲求が適切に満たされることで情緒は安定し、エネルギーを補給してもらって、自分から一歩を踏み出したり、歩み始めたり、走り出したりします。そうするスタート地点になれる「場」というのは、鯨岡先生が強調され続けておられるように養護の最も大切な働きです。心の安定した生活にすることが養護ですから、心理的な安全基地、避難場所がどの子にも必要です。大人も持っていますが。

一向に虐待が減らないという話で「安全感の輪」を持ち出すなら、安全基地の方は、何か困った時に戻ってくる場所でもあるので、その場は見通しがよく、動かないことが大事だと言われ、子どもにとっては「あそこに戻ればいい」という見通しが、安心感をもたらします。

でも今度はその輪の右側の方はどう考えましょう。子どもが安全基地から歩み出し、遊び始める場の方です。こちらは遊びや学びの文化的実践の場であってほしい。こちら側を教育の面から見たら、心情や意欲や態度が育ち、学びに向かう体験の場と言ってもいいのでしょう。

「ありのまま」「その子なりの」「自分らしく」といった言葉の後に「〜でいい」がくっつくと、「そうかな?」「ママでいいかしらん?」となるかもしれませんね。もし、何か物足りないような、積極的に感じられないような、それは安全基地の機能、養護の機能だけを感じ取るからでしょうか。

実は、私たち保育者が大事にしている養護は、常に教育と一体なので、養護の場でありながら、同時に子どもは一歩を踏み出す先の空間、もの、事象としての場とコインの裏表のようにセットで考えます。別のモデルですが佐伯さんのドーナッツ理論でいうなら、三人称側の外側との接面も常にある。でないとドーナツの厚みにならない。現実的には共同生活の場である保育園には、たとえ「かけっこ」で尻込みしても「ネット遊び」や「ダンス」や「泳ぎ」や「お絵描き」や「歌」や・・・と、その子の周りには、自分らしさを発揮している子どもたちがいっぱいです。その選択肢が少ないと、みんな同じ活動に向かわされてしまい、子どもに切ない思いをさせてしまいかねません。

子どもと大人が向かい合っている状況の中での「問い」は、大抵の場合、人類の長い子育ての歴史から見たら「例外」です。大人がどう考えるか、謎のように思える問いは、子どもたち同士の関係が豊かにある「場」では、さほど問題になりません。実際には子どもは自分で他の子どもの中へ体験し学び取る力を持っているからです。そんな事例は毎日のように起きています。やってみたくなる選択肢が身近にいくらでもあるし、それぞれに没頭している<本気なモデル>や<魅力的な刺激>がいっぱいあります。子ども同士、集団の中での精神の生態学がもっと語られてほしい。

アフォーダンスの拡張理論ができたら面白いですが、従来の社会構造主義でもいいので、子ども同士にもっと目を向けてほしい。無藤先生がずっとこの分野をていねいに整理なさってこられたところを。集団的敏感性のところを。

どの子にっても、多様な参照・選択・自己決定がしやすいように環境(子どもという人的環境が要)を用意したい。困ってる子どもに、アドバイスをする子どももいます。映画「こどもかいぎ」には、そんな子ども同士の話の場面もあります。タレントの木梨さんは、その多様性が受け入れられていることを感じたそうです。インクルージョンです。

この辺りのことを、「保育所指針の解説書」には保育所の目標のところで、こう書いています。

・・・保育所は、それぞれに特色や保育方針があり、また、施設の規模や地域性などにより、その行う保育の在り様も様々に異なる。しかし、全ての保育所に共通する保育の目標は、保育所保育指針に示されているように、子どもの保育を通して、「子どもが現在を最も良く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培う」ことと、入所する子どもの保護者に対し、その援助に当たるということである。

乳幼児期は、生涯にわたる人間形成にとって極めて重要な時期である。 保育所は、この時期の子どもたちの「現在」が、心地よく生き生きと幸せなものとなるとともに、長期的視野をもってその「未来」を見据えた時、生涯にわたる生きる力の基礎が培われることを目標として、保育を行う。その際、子どもの現在のありのままを受け止め、その心の安定を 図りながらきめ細かく対応していくとともに、一人一人の子どもの可能性や育つ力を認め、尊重することが重要である。・・・

このようにして、赤い文字の抽象的な記述のところの意味を、具体的な保育事例を通じて実感していくために、学生たちには実習期間を長くとってあげてほしい。そして「子どもと大人」のセットの保育モデルと保育の心理学の語りから抜け出し、「子どもたち」の中の子どもこそが、本来の子どもがいるべき関係なのだということ、しかも異年齢の生活の方が関係が選択できる仲間関係も豊かになることを訴え続けたいと思います。その子ども同士の関係の中で、子どもの持っている潜在的な力も引き出され、生かされていくことへ、保育の形態を導くべきでしょう。

#アフォーダンス

#生態学的知覚システム

夢みる保育園〜こんなツールがあるといいのになあ〜

2022/10/08

今日7日のちっち組(0歳児クラス)のブログには、大きく二つのことが書かれていて、一つは遊具を使った遊び(コロコロと坂道を転がるもの)の中の気づきと学び、もう一つが友だちの遊び(ハメ絵パズル)の模倣による学びです。

前者は同じ遊具でも、数週間という期間の発達の変化によって遊び方が変わってきたことに気づいた先生が、それを子どもの成長と捉えた描写になっていて、後者は数分間でしょうか、ちょっと前に遊んでいた友だちの姿をじっとみていた子が真似して始めたという姿を捉えています。

どちらも先生が「よく見えている」(見ている、ではない)からこそ捉えられる姿の変化です。前の姿や状況と、現在の姿との違いを捉えることができなければ、その時間の差で生まれた姿の差に気づくことはできないからです。その差は専門性の差という面もありますが、前の姿を知らなければ、わかりようのない事実の認識の差です。知っていたか、知らなかったか。

そして保育士としての専門性は、その着眼点にあります。どの視点で子どもの姿を捉えているかという、視座としての専門性と言っていいのかもしれません。子ども理解の話では、よく生活背景とか、個性や発達のこと、経験のプロセスなどなどが言われます。

【『保育原理』(中央法規)より】

しかし、意外と見えにくいのが、子どもと環境との関係の中で、複雑な子ども同士の関わりかもしれません。集団の中でどんな友だち関係かといった、幼児の場合の関係論が多い気がします。でも、私たちの研究グループは、赤ちゃんにはそばに赤ちゃんがいてほしいと、訴えてきたのです。映画「こどもかいぎ」でも、豪田監督に、子ども同士がこんなところで、こんな話をしているのか、と思ってもらえるようなシーンをたくさん拾ってもらいました。実にありがたい事例が集まりました。映画では、赤ちゃん同士の場面も、ちょっとだけ登場します。

こんな事例を見ていると、今日のブログの最初の差の方、その変化の軌跡を、事実として可視化するものが欲しいと思ってしまいます。いまさら、紙と筆記用具という古代からのレコード記述ではなく、その子自身のテーマやトピックスの展開に沿って、記録が取り出せるようなツールを誰か開発してくれないかしらん。恣意的な解釈が入る前の子どもの姿の記録として。できたらいいなという意味での私の「夢みる保育園」です。

こんなことを考えたのは、きっかけがあって、昨日7日から、藤森平司理事長(新宿せいが子ども園園長)が企画した「リスキリング研修会」が日本児童教育専門学校(高田馬場)が開講したからです。その第一回目の講座を聞いていると、やはり子どもは「子どもたち」という人間関係の中での経験こそが、発達には決定的なような気がしなりません。

保育のエピソードは、子どもと大人との関係が軸となって語られる「間主観的」想起が比較的、多いのですが、実は子ども同士の関係の中での経験が成長には大きな影響を与えています。保育の質の語りや、環境を通した保育の事例が、どうしても一旦、「保育者の質」を経由してしまう。子どもの発達経験に大きく影響しているのは、子ども集団の中での自発的相互作用の方ではないか、その研究が手薄じゃないか、ということを、今回の新しい試みであるリスキリング研修で確認できます。

公園へお弁当を持っていく

2022/10/04

やっとこんな保育ができました。給食をお弁当にして、戸外へ持っていき、食事の後も戸外で遊び続けること。こんなシンプルなことが、ずっとできなかったことを思うと、コロナは本当に罪作りなヤツです。それにしても、子どもたちが子どもらしさを思う存分に発揮していた姿を見て、とても嬉しくなりました。

 

幼児クラスは今日4日、「浜町公園」へのバス遠足だったのです。保育園で作ったパンと惣菜とお弁当箱に詰めて、お昼の時間までに、電車で持ってきてもらいました。遊びの様子は、今日のクラスブログをご覧ください。捕まえたトンボを見せてくれる子どもも。

弁当の中身は、いつものスタイルブレッドのパン、鶏肉の卵衣のソテー、ブロッコリーの3点セットです。誰もが「お変わり」をして、お腹いっぱいになったようです。

自分の感情をしり相手の感情にも気づく

2022/10/03

この図は、脳のセンシィティビティ、つまり脳の感受性(敏感性)が年齢とともにどう変化するかを表したグラフです。藤森先生はこの8年ぐらい、何度も何度もこのグラフの重要性を説いてきました。今の保育所保育指針で乳児が重要視されることになったことのエビデンスの一つです。いろんな線がありますが、ほとんどが満3歳までにピークを迎えていることに、ご注目ください。そのテーマの力が身につくには、その時期に体験することが望ましいことを意味します。

例えば白は視力ですが、誕生時にすでに最も高い感受性を持っています。ですから、生まれてすぐに光に当たること(ものを見ること)が必要だということがわかります。もし目に光をあてないで塞いだままで数年過ごすと、失明します。その時期をすぎて光を当てても、視力は回復しません。ものを見る力が発達せずに失われてしまいます。聞くことも、同様に生まれる前から聞こえていることがわかります。その力を基盤にして、言語の発達も、黄色の曲線のように初語を発する満1歳ごろがピークなのです。このような時期を臨界期ともいいます。人類は長い進化の過程でこのような脳の発達の特徴を得たわけですが、この特徴の中に、人類の生活の姿、子育ての姿を読み取ることができます。

さて、ここでピンク色の「エモーショナル・コントロール」、つまり「感情を制御する力」が最も敏感なのは、1歳半ごろだということも注目に値します。感情は、人との関係がなければ、あまり生まれないものだからです。喜怒哀楽の感情は、人間関係の多様性があって初めて豊かになるものだからです。

どんなに豊かな感情体験をしているのかは、1歳児クラスのブログをご覧ください。特に今日3日の内容は、この感情体験の重要性がよくわかる内容になっています。当園では1歳児クラスの子どもたちが、いろんな関わりを体験しながら生活しています。中でも、好きな先生に自分が感じている感情について「楽しいね」とか「悲しいね」と、言葉で表現してもらいながら、先生は子どもの気持ちに「偽りのない共感」を寄せてあげています。これは極めて重要なケアでありエデュケーションです。まさしく質の高い「エデュケア」(保育という意味)になっているのです。ここに教育におけるケアがいかに重要かということが、見事に描写されています。この描写は、幼稚園や学校の教育者が噛みしめていただきたい教育原理を示しています。

ところで、なぜ、感情コントロールの敏感期がこんなに早い時期なのでしょうか? ここに極めて重要は示唆が含まれています。乳児の担当制がよくない理由もここにあります。人間の子育ては、村を単位にしていました。子育ては共同保育だったのです。核家族で子育てをしてきたことはないのです。毎年子どもを産む多産が人類の特徴であり、脳が大きくなった人類は未熟なうちに出産し(ポルトマンの生理的早産)、一人の子どもが育つには村中の人が必要(人類発祥の地であるアフリカの諺)だったのです。その人的環境が、赤ちゃんの脳の感受性の特徴に現れているのです。

0歳の時から、赤ちゃん同士の体験が必要です。満1歳になる頃までに、豊かな人間関係を体験することが大事です。保育園を見学に来られる方と仲良くなると、お母さんに抱かれていた赤ちゃんは私に抱っこされても平気です。「お母さんが警戒していない人だから、抱っこされても大丈夫だな」と、赤ちゃんはすでに感情的な判断をしています。いろんな人に抱っこされる経験が、赤ちゃんには大切なのです。そして、子ども同士の関わりがたくさんある人的環境が、乳児保育には必要です。だから、全ての赤ちゃんが数時間でも保育園で過ごすことが大事なことなのです。

それは子どもの発達を保障するだけではなく、子育てのつらさを軽減して児童虐待を防ぐ、子育て支援の本道であり、子育てのコミュニティづくりに貢献します。その延長上に、その子らしく生きる子どもたちの学びと自治力(自信を持って他者と共存していく力、共生と貢献の力)が育っていくのです。

「夢みる小学校」と南アルプス子どもの村

2022/10/01

9月30日金曜日の夜、オオタヴィン監督の映画「夢見る小学校」を千代田区半蔵門のいきいきプラザで開かれた自主上映会で、やっと観ることができました。今年2月に上映されて話題になっていた映画だったので、ずっと観たいと思っていたのです。この映画は、山梨県南アルプス市の小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画で、こんな小学校が近くにあったら、子どもたちは幸せだろうなぁと思えてくるものでした。多くの人にぜひ見てほしいと思いました。保育園でも自主上映会を開きたいと思います。

そして今日10月1日土曜日、その映画の舞台となった小学校に来ています。南アルプスこどもの村小中学校です。この学園が主催する秋の教育講座に参加しました。話し手は、文化人類学者の辻信一さん。辻さんと言えば、スローライフ、シンプルライフを提唱されている方というイメージを待っていましたが、海老原商店で海老原さんに「ゆっくり小学校」の本を紹介してもらったり、青木さんが辻さんと対談したりして、地域的にも身近な存在になっていました。お目にかかって「これから必要な学校」の基礎固めになりそうな「てつがく」を聞くことができました。

子どもの感情に気づき、言葉を結びつけてあげること

2022/09/27

「自分の感情に気づく頃なので、Kちゃん、怒っているんだよね、って、言ってあげるようにしています。そしたら、自分で『もう、◯◯(自分の名前)、怒ってるの』と、言ってこうやって(怒っているという仕草)・・」。

実習生の反省会で、1歳児クラスのS先生が、保育の意図を説明してくれます。それを聞いていて、私は感動してしまいます。子どもの発達を理解しているからこそ、その時に必要な言語環境をデザインしているからです。1歳児クラスといえども、4月以降に誕生日を迎えている子どもたちはすでに満2歳になっており、言葉の爆発的な獲得期に入っています。質問期でもあり、何にでも「これは?」と聞いて、いろんな言葉を覚えていく頃でもあります。

そんな時期は、自分のことをもう一人の自分が客観的に眺めるような視点を獲得して、自分はこうなんだ、と他者に説明できるようにもなってきます。その時、自分が楽しいんだ、嬉しいんだ、怒っているんだ、悲しいんだ、辛いんだ、というような大まかな感情も「自己認知」できていることに、担任は気づき、冒頭のような言葉をかけているのです。あえて意識して、そうしてあげているのです。

実習生たちは、「保育の過程」というものを学びます。それは「子ども理解」に始まり、その子どもの姿にふさわしい「環境の(再)構成」を行うことで、子どもは新しい体験をします。その体験が発達を促したり、新たな学びになるので、その子どもの姿を予想する、ということをします。指導案の書類には「予想される子どもの姿」という欄が用意されています。

今回のケースでも、子どもの発達理解があって、言葉を変えている担任の判断の中には、このような「子ども理解」をもとにして担任という「人的環境」のあり方を変えている、という「保育の過程」を見てとることもできます。実際の保育というものは、そんな回りくどいことを、いちいち考えているわけではないのですが、いずれにしても大事なのは、子どもが何を感じてどう思っているのかを、敏感に感じ取る力が保育者には必要で、そのセンサーの感度が、子どもにふさわしい次の体験を用意していくことになる、ということでしょう。

そんなことを反省会では実習生に伝えています。そして伝えながら、私たち自身も自らの保育を振り返るのでした。

見守る保育は自然栽培に似ている

2022/09/26

「見守る保育は自然栽培と似ている」

そのことに、最近気づきました。

自然栽培はとても面白いです。いろいろと勉強していると、大自然の持つ神秘的で不思議な力を感じます。食の営みも本来なら、自然と調和した暮らしを取り戻すことだと気付かされるのです。この2ヶ月ほど「自然栽培全国普及会」の方の話を聞いているのですが、子どもたちも自然の一部なんだという、当たり前の事実に気づくのです。子どもだけではなく私たち人間は、大いなる生態系の中でこそ、人間らしくいられるのだろうと、思えてきます。

例えば、自然栽培では肥料を使いません。化学肥料だけではなく、有機肥料も基本的には使いません。また、いわゆる害虫が来ても農薬もかけません。それでも、辛抱強く、我慢強く、待っていると素晴らしい野菜が育つようになります。それは、まるで保育が、子どもたちとそれを見守る大人たちの関係にそっくりです。子どもが本来持っている育つ力を信じて、大人がおおらかに待ち、見守るような関わり方をすることに、とてもよく似ているのです。

さらに、自然栽培では、土をとても大切にします。その土は何年もかけて作り出されるものです。根気がいるので、ついたくさんの有機肥料を使ってしまいます。その方が早く大きく、立派な野菜になるからです。そこを辛抱強く自然のなす力に任せていくと、土は自ずと自然の生態系の営みの中で、なるべきものになっていくのです。それはまるで、子供にとって夢中になれる遊びの環境のようです。本当に健康で安全な野菜や果物などの農産物が「いい土」から育つように、子どもの発達を促す遊びも、「いい環境」から生み出されます。

自然栽培を成り立たせている自然の力を考えていると、数年前に観たドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム」を思い出しました。自然の持っている生態系の力を、とても美しく描いた物語です。こんなエコシステムの中に「子どもの領分」があるとしたら、私たちは「子どもの環境」について、もっと学び直す必要があると思えてきます。

0歳からの入園をお勧めします

2022/09/23

全ての赤ちゃんが、0歳児クラスに入園してほしい。育児休暇が長く取れるようになったから1歳児クラスからでいいと思わないで、0歳から子ども同士の関わりを体験してほしい。そう思うことが、保育園をやっていると、強く思います。その理由はいろいろあるのですが、最も大きい理由は、子どもの成長、発達には満1歳前後からの、子ども同士の関わりが、とても大切な体験になっているからです。それは脳の発達からも人類の進化からも、自然なことになっているからです。そのようなことの積み重ねを、小さいうちから行っていくことがいかに大切なことかを、日本全国の子育て家庭に強く訴えたいという衝動に駆られます。

たくさんあるエピソードの中で、昨日のちっち組(0歳児クラス)のエピソードは、それをよく表していますので、いかにそのまま載せたいと思います。名前はイニシャルに、写真はイラストに加工しました。

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タイトル「取り合いっこも大切な経験に」

Yくんが、鏡を手に入れて遊んでいると、Rちゃんがやってきて、鏡をのぞいています。

するとだんだん、ふたりとも鏡で遊びたくなって…

『ちょうだ〜い〜‼︎』

でも、Yくんもまだ使っているので、再びしっかりホールドしています。

ゲットできなかった悔しさで大人のひざに顔をうずめにくるRちゃんでした。

「Rちゃんも、ほしかったのねぇ。。」
最近のちっちさんは、こんなふうにお友だちと玩具を引っ張り合いっこしたり、取り合って怒ったり…という姿が見られるようになってきて、春のころの小さい”赤ちゃん”から、だんだんと、ぐんぐんさんらしい姿も出てきたなぁと成長を感じています。自分の気持ちを思い切り主張し合えるようになってきたようです。

これからきっと、もっともっとたくさんケンカして、怒って泣いて、悔しい思いをして葛藤して…といろんな体験をしていくでしょう。
そんなときに、まずは、お互いの子どもの気持ちを言葉にのせて伝えてあげることを大切にしています。大人がジャッジしたり解決したりしようとするのではなく、あくまで、子どもたち自身が自分の気持ちや相手の気持ちに少しずつ気付いていくことができるよう・・・そして、子ども同士の気持ちのやりとりの橋渡し役となれるよう、支えていきます。
大人が「良い、わるい」…を判断して押し付けなくても、ほんとうは、子ども自身がよく分かっているのではないかな、と感じます。
実は、この取り合いっこの場面でも、Rちゃん、もう少し引っ張ったら鏡を取ってしまうことができたと思うのです。でも、すぐ引っ張るのをやめて、手に入れられなかった悔しさを大人に受け止めてもらいにきました。
こうやって、子どもたち自身、自分なりに(どうしようか)と選んでいるんだなぁと感じました。

気持ちを受け止めてもらったり寄り添ってもらったりしながら、その経験を重ねていく中で、子どもたちは少しずつ友だち同士でやりとりしていくことを学んでいきます。それは、とても時間のかかることですが、一つ一つが ちっちさんの頃からの積み重ねなのだと考えています。
そう思うと、ちっちぐんぐんの時期は、お友だちとのやりとりや関係を学び築いていくための、最も大事な時期とも言えそうですね。

このあと、にこにこ組のAちゃんとRちゃんが、ふたりでおしゃべりしながら鏡を覗き込んでいました。


この場面はこの場面で なんだかほほえましい光景ですが、このふたりも、これまで何度も何度もケンカして気持ちをぶつけ合ったり気持ちを通わせたり…という経験をちっちさんの頃から繰り返してきたはずです。

にこにこ組(2歳児クラス)の頃になると、こんな風にお友だち同士の関係もますます深まって、一緒に使ったり、取り合いになっても相談し合ったりできるような姿も見られます。
それは、ちっち組のみんなの数年後の姿でもあるのかもしれないですね。そんなことを考えながら、いまこの時期を、丁寧に大切に過ごしていきたいなぁ、と改めて思ったのでした。

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