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見守る保育(保育アーカイブ)

ギビングツリー 第1回全国実践研究大会in鹿児島(2日目)胸を打つ熱心な取り組み 第1回全国実践研究大会in鹿児島(2日目)

2023/02/11

鹿児島での往還型教育の二日目は、保育実践に学ぶこと。「藤森メソッド」と呼ばれるようになってきた子ども主体の保育、環境を通した保育、子どもの大人も共に学ぶ保育の実践が、西日本各地から7つ紹介されました。どれも参考にしたいものばかりでした。何よりも、何かがすぐにうまくいった、というものではなく、紆余曲折があり、困難な課題にぶつかりながらも粘り強く成し遂げていった実践、またその途中であるというものばかりで、それが返って胸を打つのです。藤森代表も、一つひとつの報告に「いい実践ばかりで、ほんと、感動するね」と話されていました。

タイトルだけ紹介します。

(1)「幼稚園だって見守る保育!」にのみや認定こども園(栃木県)

(2)「めざせ!オープン保育〜過疎地の保育園の取り組み〜」生見保育園(鹿児島県)

(3)「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」認定こども園ひばり保育園(宮崎県)

(4)「成長展に取り組む中で見えてきたもの」観音寺中部こども園(香川県)

(5)「対話」すずらん保育園(長野県)

(6)「日常の保育の中で育つ非認知的能力」昭徳こども園(長崎県)

(7)「STEMってなんだろう〜夏の水_冬の氷プロジェクト〜」もりやまこども園(長崎県)

ギビングツリー 第1回全国実践研究大会in鹿児島(初日)郷中教育に学ぶ 

2023/02/10

最近、往還型の研修という言葉をよく聞くようになりました。出かけた先で学び、それを現場の実践に活かす。その結果を踏まえて考え直し、新たに学び直しに出かける。行ったり来たり。往還です。出かける先が研修会だったり、学校であったりとさまざま。

今日から明日までの二日間。私は鹿児島市に出かけて、保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)の地域団体「鹿児島GT」が主催した第1回全国実践研究大会に参加しています。全国各地から約190名が集まり、初日の今日は午前中に鹿児島市内のこども園を見学し、午後は藤森代表の基調講演と記念講演がありました。いろんなことを学びましたが、活かしたいと思ったのは、当園の保育の表現の工夫です。それを「郷中(ごじゅう)教育」から学びました。

記念講演は、維新ふるさと館の特別顧問で歴史解説員の肥後秀昭さん。薩摩藩で生まれた青少年教育として有名な「郷中教育」について、詳しく解説していただいたのです。この青少年教育は主に武士の子どもが対象ですが、学問、武術や心の鍛錬がなされています。郷中の「郷」とは、薩摩藩の地域を小単位に分けたいわば町内会のようなもの。

郷中教育で、面白いのは先生という立場の人はいなくて、先輩後輩のように上のものが下を教えます。当時、元服は15歳ですから、6歳からそれまでを稚児(ちご)、元服後から24歳までを二才(にせ)、それ以上の若者は長老(おせ)と呼んでいました。長老でも卒業というものがありません。その理念や方法のエッセンスを、1545年(天文14年)に島津日新斎忠良の記したと言われる「薩摩(日新公)いろは歌」から知ることができます。その「いろは」の「い」つまり第一首はこうです。

第1首:い「いにしえの 道を聞きても 唱えてもわが行ひにせずば甲斐なし」
(訳1)昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけで、実行しなければ役に立たない。実践実行がもっとも大事である。

(訳2)古来から言われてきたどんな素晴らしい教えも、自分で実践しなければ何もならない。

これは往還型の研修そのものですね。あるいは薩摩藩流のデューイです。

郷中教育は薩摩藩が定めたものではなく、郷ごとに独自に展開されました。個人も集団もその自主性が重んじられたのです。今の学校教育や社員育成に通じる重要なエッセンスが詰まった「いろは歌」になっています。

くつろいで絵本を楽しむ

2023/02/07

保育園の生活には「くつろぐ場所」があります。家庭の中のリビングにあるソファーを想像していただけば、わかりやすいでしょうか。畳の部屋でもいいのですが、ごろごろできるような所です。ワンルームならベッドや椅子でしょうか。リラックスできる場所や空間です。そばにはぬいぐるみやクッションなども置いておきます。

実際に視察したドイツでもオーストリアでも、シンガポールやマレーシアにも保育室には、そうした部屋や空間がありました。海外の有名な保育家具、例えばスウェーデンのHAGSのカタログなどにも、そうした空間を想定した家具が作られていることがわかります。ミュンヘン市の幼稚園を視察した時も、厚さ30センチぐらいあるクッション性の高い大きなマットが敷かれていました。

また、絵本の棚の隣は、机と椅子ではなく、カーペットが敷かれていることが多いのにも驚きました。ごろごろ寝転がってみるというスタイルもアリなのです。ごろごろするのは体幹のためにもいい、という考えをはっきりと持っていると、その幼稚園の園長は説明していました。

子どもから学びたい「寄り添い方」

2023/02/06

0歳児クラスの担任のブログに、このような子どもの関わりの報告があると、どうしても紹介したくなります。このエピソードのタイトルは「寄り添う」です。子どもを子ども扱いしてはならないのです。本当に子どもから学ぶことが多いと思います。

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ふたりで仲良くおままごとをしていたかと思ったら、取り合いっこになり、ケンカしていた Mちゃん と Sちゃん(二人とも2歳2ヶ月)。
どうやら、最初はなんとなくふたりで一緒に使っていた食器を、途中からMちゃんが全部使いたくなってしまったみたいです。ぐんぐんさん(1歳児クラス)たちにはよくあることですね。

そんなことがあって、Sちゃんが、ソファの上で泣いていると…お手伝いに来てくれていたわいわい組(3歳児クラス)Rちゃんが Sちゃんのもとへやってきて、Sちゃんに「どうしたの?」と聞き取ります。そして、そのあと、Mちゃんの話も聞きとります。

ちゃんと、お互いの話を聞いてくれる姿もさすがですね。
「ふたりとも、全部(のお皿とコップが)欲しいんだって」と、ちょっと困りつつも、またSちゃんをうしろからキュッと抱きしめて、寄り添ってあげるRちゃんです。

Rちゃんがそばに来て話を聞いてくれて、いつのまにか涙もひっこんでいた Sちゃん。

そして、ときどきMちゃんのことも気にしつつ、「Mちゃん、Sちゃんが使ってるの、じゃまするの、だめだよ。」とやさしい口調で伝えてくれています。

でも、Mちゃんから取り上げようとしたり、無理に返させようとしたりはしません。ときどき声はかけつつも、Mちゃんの姿も大切にしてくれるRちゃんです。

(Mちゃんも、いろんなお皿を使って、大人にお料理をふるまってくれたかったようです。)

ケンカしていたぐんぐんさんをやさしく包み込んでくれる、Rちゃんのなんとも言えない距離感が、あたたかくて、感動したのでした。

取り合いっこになったとき、欲しい玩具を取り返して解決するのは簡単です。でも、それ以上に、自分の気持ちに寄り添ってくれるひとがいること、なんとか解決しようと間を取り持ってくれる人がいること・・・そして、そうした姿を近くで感じながら、ぶつかったときに どう折り合いをつけたら良いか学んでいくこと・・・子どもたちにとって、どちらが価値のある体験だろうと考えると、やっぱり後者なのではないかな〜と思います。

大人はつい、「誰が使ってたの?」とか「返してあげよう」などと、解決を急いでしまいたくなるところかもしれないですが、そんなことは、子ども自身がきっといちばんよく分かっているはずです。そんなときに、どんな関わりをしてあげるか・・・Rちゃんの姿から学ぶべきことがたくさんありそうだなぁ と感じたのでした。

さて、そんな Mちゃん と Sちゃん は、日中も、佐久間公園で ふたり仲良くお店屋さんごっこを繰り広げていました。

ベンチに、木の実や石、木片…いろんなアイテムが並んでいます。まるで宝もののようですが、これは「パン」だったそうです。
となりでは、AくんやSちゃんもお店を開いていました。

 

(↑このあと、どんどん種類が増えていました。)

 

ほかのお友だちも、追いかけっこに…

すべり台に…

お砂場遊びに…

 

理念は「いきている」

2022/12/13

最近のこの「園長の日記」は、その日のことを超えてその意味の背景や自分の思想を語っていることが増えてしまいました。もともと、この日記は、なぜこんな保育をしているのかという意図や背景となっている理念を説明したいと考えて、2019年春の開園の時からスタートしてものだからです。ですから、もともとそうした傾向が強かったのですが、このところ自分自身で、さらにそれを吟味しながら再構築している自分に気づきます。ちょっと気をひく言い方をするなら「理念は目に見えない「いきもの」である」ということを説明したくなります。いきものだから、元気な時や調子が悪い時もあります。大事に育てないといけません。理念にもケアリングが必要なのです。

今日は保育研究団体の保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が、毎年3回開いている保育環境セミナーの2日目で、私が司会者でした。全国から多くの保育者が集まって<保育環境>について、つまり保育について学びます。講演、実践発表、質疑応答(アンケートで提出してもらうものへの解説)からなります。今回で56回目になります。この積み重ねの意味は別の機会に述べます。

司会をしながら、つくづく思うのは参加者の熱心さです。とても意欲的に参加されています。月曜日と水曜日には、保育園の見学もあるのですが、当園にもそれぞれ2園3人の方が見学に来られました。そして保育を見ながら、よりよい保育を語り合い、深め合うのです。そして私自身も飽きることのない保育の魅力を感じます。どこまでも行っても完成することはない、常に発展途上なのが教育や保育だと思います。そして「この熱意はどこから来るのだろう」と考えると、それについての私の実感は「理念からくる」です。人間は「理念」があるから向上しよとするんじゃないでしょうか。理念と日本語に訳されているもので、私たちは「生かされている」と実感してしまうのです。(和語だったらなんだろう?やまとごころ? 違うなあ。そうじゃない。現代に必要なその言葉がまだ生まれていない気がする)

それが私たちの精神を常に活気づけ、再生させてくれるもの、それが理念だと思います。そして、これも意外な言葉かもしれませんが、子どもこそ「理念」を私たちに伝えてくれいるようにも感じます。子どもから、私たちは「理念」を汲み取っていると感じるのです。

ストレスフリーの「お楽しみ会」(乳児)

2022/12/10

<ある条件>を整えるなら「こんなに楽しくて、自分らしさを表すことができる」ということに、今日、私は感動しました。これまで「自分らしく」過ごすことを大切にしてきた積み重ねが、こういう姿となって現れるということを目の当たりにして、本当に嬉しくなりました。今日10日は、乳児(0歳から2歳児まで)のお楽しみ会でした。今年は保護者参加型でやってみたのです。

<ある条件>というのは、ストレスフリー、ということです。なんのプレッシャーもない、練習なども全くゼロで、いつものように生活して遊んでいればいいという行事です。子どもが親がそばにいて欲しければ、一緒にやります。無理に引き離すこともなく、安心した心理状態で、普段の様子を見てもらいました。

多くの方はお休みの土曜日。9時に登園してもらって、子どもたちだけでひと遊び。その間、保護者の方は2階に集まってもらって、今回のお楽しみ会の流れや趣旨を説明しました。今日、一緒に見ていただいた内容は、ひと遊びした後からの様子です。お名前を呼んで出席を取ったり、歌を歌ったり、絵本をよんでもらったり、朝のおやつも食べて、使ったエプロンやお手拭きタオルも自分で手提げバックにしまって。靴下履いて、靴を履いて、お外へ出て、親子で和泉公園までお散歩。そこで遊んで解散。ここまでを「お楽しみ会」として実施しました。

担任が◯◯ちゃーん、と名前を呼ぶと、は〜い(と声にならないばあいもありますが)と手があがり、その度に周りからおほえましい称賛の拍手。本人も嬉しそうに自分でパチパチパチ、と拍手しています。大好きな絵本を読んでもらいながら、それを自分の親にも指差して「みて」と促す子がいたりして、保護者と一緒に楽しんでいます。

実はこれまでの経験から、朝親子が別れるとぐずってしまうことがあり、再会すると泣いてしまう子が多いんじゃないと予想していたのですが、そんなことはありませんでした。0歳児と1歳児のクラスの子どもたち(満1歳〜満2歳)の子どもたちは、いたって平気で、いつの姿を見せてくれたのです。正直、驚きました。ちゃんと先に「これからお父さんやお母さんがまた来るからね」と伝えてあげると、それをちゃんと受け入れてくれています。

2歳児クラスは、1時間遅れて、2階で同じようにやりました。ここではさらに保護者の参加型を促し、絵本を読んでくださったのはお父さんやお母さん。3冊の絵本を楽しみました。3冊目の絵本「3びきのやぎとがらがらどん」を見終わったら、それをやりたい、というのでテーブルを橋に見立ててごっこあそび。お父さんやお母さんと手を繋いで橋を渡った子は、「もう一回!」といって、またやぎになります。安心できる状態にしてあげれば、意欲的になるとう、当たり前の状態を確認できて、誰もがハッピーでした。

とかく日本の行事は、見せて立派にやり遂げた、よくがんばったね、と大人が喜んでいますが、本当に子どもはみんな嬉しいんでしょうか?本当に「誰一人取り残すことのない」(文科省の「令和の日本型学校教育」で使われたフレーズ)保育なのでしょうか。私はそうは思えません。同じ内容を同じ時間に同じ場所で多くの子どもがやらされること。これは今の世界の時代感覚からすると人権侵害をうむ土壌そのものです。子どもは一人ひとり違って当たり前なのですから。

それでも、まだまだ課題はありますが、せめて出来栄えを見せる、競う行事はやめたい。やるなら選択制にする。それぞれの子どもが安心して過ごせる毎日、発揮したい自分のやり方が選べる方法、それをお互いに認め合い、助け合う関係が育つ場にしたいと思っています。次回幼児(3歳以上)のお楽しみ会は1月になります。これくらいからは、自覚的な「自己表現」といえる姿がミラるようになっていくでしょう。どうぞ、お楽しみに。

ピーステーブルと感情パネル

2022/11/30

(園だより12月号 巻頭言より)

私は保育を見るときに子どもの意図に着目してみるようにしています。子どもが何をしているのかを漠然と眺めるのではなくて、どうしたいのか、何をしようとしているのか、子どもの動機や意図、思い浮かべていることを想像しながらみるようにしています。特に見学者に保育を説明するときや、養成校の授業としてライブで説明する時も、同じようにします。そして、そこで起きていることに、ハッとさせられることがあります。

昨日29日、見学者と一緒に3階で観察ゾーンを見ていたときにも、子どもの面白い動きに出合いました。当園には今は観察ゾーンに「ピーステーブル」と呼んでいる対話空間があるのですが、そのテーブルには「感情パネル」が掲げてあります。たのしい、うれしい、かなしい、おこっている、こまっている・・などの言葉とイラストの表情が描いてあります。その子は3歳児クラスの女子(満3歳)Mさんで、そのパネルを奥の運動ゾーンへ持って行ったのです。

私は「あれ、どうしたんだろう?」と気づいたのですが、その子はすぐにまた、パネルを持って帰ってきた元の場所に戻したのです。見学者に「いまあの子が面白い動きをしたので、どうしてあんなことをしたのか、聞いてみませんか」といい、しばらくして確かめました。すると「◯◯ちゃんと○○ちゃんがけんかになったから」と言うのです。私は感動して、このエピソードは必ず担任に伝えよう、と思ったのです。さて、けんかとパネルとどんな関係があるのでしょう? 

Mさんはけんかの仲裁をしたかったのですが、その方法はピーステーブルの空間をけんかが起きている運動ゾーンに作ろうとしたようなのです。この空間はテーブルと椅子が2脚置いてあるだけのもの。ただそこでは「相手の言葉をよく聞くこと。自分の思いや考えを伝えること」ができる場所のことです。そこには感情パネルが置いてあり「いまの自分の気持ちはどれ?」と、自己認識を促すようになているのです。私たちは子ども同士の関係の中で何かの<トラブル=という言葉は私たちはあまり使いませんが>になったとき、それぞれの思いや考えを伝え合うことを保証してあげます。

大人が「◯◯ちゃんが先にやったのね、それはダメでしょ、謝りなさい、ごねんねは?」などと裁判官のように白黒つけたり、一方に謝らせたりはしません。大抵はそこに至る経緯があって、その思いが積もり重なっていたりするからです(その様子は映画「こどもかいぎ」の中でも描写されていますので、ぜひご覧ください。当園の保護者の方々の協力のもとに124日に秋葉原で自主上映します)大人はもっと子ども同士の関わり合いの力を信じてあげてほしいと思います。自分達でできることは、大人が思う以上にあるものだからです。

駄々こねの意味をめぐって

2022/11/27

子どもが望んでいることを、正当なもの、と捉え直すにはどう考えたらいいんだろう? ただのわがままだったり、いたずらだったりするように見えることや、駄々をこねて、大人の言うことを聞かないように見える時に、私たちはどんな姿勢で子育てに向かうといいんだろう? さらに、その場に直面したときに他者の視線も感じながら、どうやったら周りの人にも理解してもらえるだろう?そんなことを考えながら、自分の子どもの子育てをしてきたように思い出します。でも今は仕事として、専門職としてはっきり言えるようになりました。子どもの自己主張にはいくつかの正当な理由があると言うことを。

私が保育士の資格を取るために勉強していた頃、言葉の使い方次第で、こんなにも意味が変わってくるんだ、と驚いたことを思い出します。それはジャーシルド(Jersild A.T)の「自発的使用の原理」の説明を読んだ時です。これは発達の一般的原理の一つ(矢野喜夫)で、「自生的動機付け」の原理とも言われます(「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房 監修は岡本夏木他)。子どもがはいはいを始めたら、欲しいものをとりたいわけでもないけど、自発的にはおうとします。立つようになってきたら、すぐに尻もちをついてでも、それを繰り返したがります。歩行が確立していく頃には、なぜかわざわざ坂道を登ろうしたり、すべり台を下から這い上がることをしたがったりします。散歩をしていても、狭い花壇の縁や、土手の上り坂の方を歩きたがったりします。

そういったことを選びたがるのは、どうしてだろう?と思っていたので、その説明として、そうか!そうなんだ!と納得したのが、この「自発的使用の原理」の説明でした。 それをやりたがるのは、その力を使おうとしているからだ、力は使わないと伸びないんだ、と理解できたのです。何かが育つ、伸びる、できるようになる、という発達は、その能力を繰り返し使って初めて身に付く、と言い換えてもいいでしょう。能力は使用して初めて本当の能力になる、と言うことです。使っていくうちに発達が遂げられて、その欲求は満たされて、次の段階へ進んでいくのです。

そこから子どもの体験には、必ず意味がある、と思えるようになり、しかも自発的にその行為を示すときは、今ちょうどその力を使いたがっている力が伸びようとしている時期なんだ、と受け止めればいいとわかったのです。それをすることで発達する、発達したがっているから使いたい、体験したがっている、そう言うふうにみてあげれば、子どものやりたがることには発達の欲求が現れており、それを叶えてあげることが、つまり体験させてあげることで、その力を行使し、自分のものにしていこう、環境から自分に取り入れようとしているのだ、というふうに私の理解がつながっていったのです。

そう一旦、思えてくると、子どもが駄々をこねたり、泣いて何かを主張したり、大人を困らせたりするとき、基本的にはそうか、それをしたがっているニードがそこにあるんだね、それをやることがあなたの発達に必要な体験になっているのね、と受け止めることができるようになって、それを探したいぐらいになっていきました。

そして、社会的に認められない行為なら、代わりに「こっちならどう?」という、適応行動になる体験の選択肢を用意していくといいのだ、と考えがつながっていくのです。環境構成です。一方で、欲求が満たされるのですから、情緒は安定します。養護です。こうして養護と教育は一体であると言うことが、私にはすんなりと理解できたのです。

理解がつながって矛盾がなくなる理解というのは、精神衛生上も望ましいし、過不足感のない理解は、誰にでもいつでも説明できます。そして自分の中に、新しい疑問点が湧いてくるのです。適応するって、どういうことだ?と。社会的に認められていることは、誰がそれをどう認めているんだ?ということを調べたくなるのです。ルソーが社会契約論を考えたように。シュタイナーが社会有機体三層構造を考えていくように。

私には大人が「正当性を主張する=これが正しいという」ときに、その正当性は本当に「正統的」なものなのか?という疑問になっていきました。保育を文化的実践として捉えたら、正統なものかどうかを、大人は常に更新し続けていく学びを止めてはならないんじゃなか、文化的な実践に周辺的に参加するといっても、その参加していい社会や学校なのか? そういう、とても大きな問題にぶつかっていくことになっていったのでした。それは発達心理学では「障壁発生の原理」ということを読んで、自己流の拡大解釈をして、面白がっていたのでした。

そして民主主義の原理や自由とな何か、という問いにつながって行かざるをえず、それを支えるのはコミュニティのあり方が問われ、人間関係づくりのプロセスが問われ、というように戻ってきます。そして最後は人類の進化の正統性にまで辿り着くのです。私が何か話すと、人類は〜ってなっちゃうね、と保護者の方と笑ってしまったことを思い出します。子育ての相談を受けているのに、人間はね、なんて言われたら困りますよね。

学びあい、教えあう

2022/11/25

年長のAさんは赤ちゃんが大好きで、入園見学の方が赤ちゃんを抱っこしていると「かわいい〜!」「わたし、Aっていうの。なまえなんていうの?」と聞きたがります。その子を知りたいから名前を聞く。自然な学びです。お母さんも、子どもたちのそんな姿に接して「◯◯よ、よろしくね」などと教えてくれます。

Aさんの他に年中のHさんやUさんも、小さい子のお世話や教えてあげることが大好きで、いろんなことをしてあげています。その子が望んでいることを、望んでいるタイミングでやってあげたり、手伝ったりできるようになっていきます。相手が望んでいるタイミングでそれができるように援助することを、私は「啐啄同時」という言葉で説明することがよくあります。鳥のひなが卵から孵(かえ)ろうとするときに、親鳥が殻を啄(つつ)いて、外に出やすくしてあげるのです。強く啄きすぎるとひなが傷ついてしまうので、そのタイミングと塩梅が大切なのです。

そのコツを、赤ちゃんの様子を見ながら、年上の幼児が学んでいきます。援助内容も教え方もセットで子どもが学ぶのです。こうやって人との関わり方や援助の仕方、また身につけるべき教える内容を子どもが身につけていきます。そこには大人のモデルがあるので、それを真似しながら、援助の仕方を身につけていきます。

このように大人がやっている子ども主体の保育を、子どもが模倣しながら、同じことができるようになっていく営みを、その保育への参加と捉える考え方があります。私たち大人も、どんな教育や保育が望ましいのかを日々、学びながら正統的な保育のあり方はなんだろう?と話し合いながら、実践しています。この営みも文化的実践と言えます。子どももそれを見習いながら文化的実践者に育っていくので、そのことを学習論の一つの見方として「正統的周辺参加」という言い方をすることがあり、私は新聞記者時代にこの考え方をもとに実践している学校の授業を連載したことがります。その連載の指南役は当時東大にいらした佐伯胖さんでした。

その正統な文化実践の中には、その地域や時代の文化を身につけていくというプロセスがどうしても必要になるのですが、その中には「きまり」とか「ルール」つまり社会規範というものも含まれてきます。そこで例の自由と責任というテーマが出てきます。協同性のテーマなってきます。

そのとき私が思い出すのは、藤森師匠(私の上司であり恩師)が教えてくださったこんな話です。「子どもに自由とルールを教えるときは、こういうとわかりやすいよ」と。こんなふうにお話すれば、2歳児クラスの子どもたちぐらいになると、自由の意味がわかってくるのです。

大人「大きくなったらね、自動車を運転してどこにでも自由にいくことができるんだよ、いいでしょう」

子ども「うん」

大人「でも守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う?」

子ども「・・・?」

大人「それはね、信号を守ること。青は走っていいけど赤は止まれ。信号を守るからみんな自由に車に乗れるんだよ。わかった?」

子ども「うん」

ここには、学習論でいう「教示的伝達的顕示」(いいかい、やるよ、ほらね、式の「わかってないけどわかった気にさせる落とし穴))もあるので、この語り方には注意も必要なのですが。まあ、それはともかく、わかりやすい対比での教えになっているのです。

私たちは学び合いと教え合いを繰り返し、ある方向へ歩んでいます。その歩み方は、それぞれであっていい。そして社会の方も変えていっていいのです。両方の営みを変えていくことをどうしたらいいのか。そこに今私は挑戦しています。

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