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園長の日記

子ども同士のかかわりーその意味と役割をもっともっと

2022/11/11

姉妹園の新宿せいが子ども園(藤森平司園長、東京・高田馬場)のところには、いろいろな人がきます。最近は小池都知事がやってきて、これからの子育て支援で必要なことを視察しました。映画「こどもかいぎ」の豪田トモ監督もきて、子どもが育つ環境の質について語り合いました。多くの人が子ども未来や子育てのあり方を考えています。藤森統括園長や私が常々思うことの一つは、子どもの「子ども集団」の中での経験です。進化心理学者のスティーブン・ピンカーは、1998年5月に、「子ども同士のかかわり」「仲間集団の重要性」を指摘したジュディリス・リッチ・ハリスの書『The Nurture Assumption』(邦訳は『子育ての大誤算』)(早川書房)に次のような序文を寄せています。

「この驚くべき一冊をはじめに読めたことは、心理学者たる私のキャリアの中でも至上の体験の一つとなった。学術的であり、革新的でもあり、洞察に満ちた、また驚くほど明確で既知に富むこのような本には、なかなか出会えるものではない。ただ、あまりのおもしろさに誤解しないでもらいたい。本書は真面目でかつ伝統にとらわれない科学の本である。おそらく心理学史に転機をもたらした一冊として名を残すことになるだろう。」

このハリスの議論は「藤森保育道」(学、ではなく道、と私たち仲間は呼んでいるのですが)に大きな示唆を与え続けてきました。というよりも、藤森先生が独自につくりあげてきた保育が、偶然あとでハリスの議論と出会うのです。ハリスの議論は発表された当時、異端扱いされたエピソードが伝わっていますが、私たちの印象では、学術的な世界の中のことはわかりませんが、保育園の生活の中で起きていることととても親和性が高いのです。子どもが独自に作り出す集団のダイナミズムは、大人が枠をはめた子ども同士ではありません。

このハリスが提示したことは、親子関係や子どもと保育者の関係、子どもと研究者の関係など、主に二者関係で見えてくる子どもの姿は、集団の中での子どもの姿は異なる、という事実から根本的に考え直してみることを、促します。書きぶりが刺激的なので、ピンカーも「その論点ははじめこそ直感に反するような印象を与えるが、読み進むうちに実生活では出会うこともないような従順なヒトもどき(ニューマノイド)ではない子どもと親の実像が明確になっていく。その他にも、児童発達研究で頻繁に登場する方法論を痛烈に批判し、なぜ学校が機能しないのかという問題も斬新な観点から分析する・・・」と書いています。きっとそうだろうな、と思えることが多いのです。機会があれば、ぜひお読みください。

この意外性は、核家族化や虐待、育児休業の延長の影響、3歳児神話を支えている発達観などを考えるときに、私たちが意識せずに信じている考え方が「違うかも?」と気づく意外性と重なってきます。子どもと家族を取り巻く環境の影響を再考するとき、どうしても「子ども同士」「子ども集団」の中で起きていることを捉え直すことが必要だと思えるのです。

 

自己表現にさしかかる頃の「みないで!」

2022/11/10

安易に口を挟まない方がいいと思うことがあります。その子がどんなふうにしたいか工夫したりしているときはなおさらです。例えば、絵を描いているときに、近寄っていくと「みないで!」と言われる時があります。私なんかは、特に評価のまなざしを向けないように意識しているつもりなのですが、それでも、そんなリアクションをもらうときがあります。そういうとき、子どもは、いま自分のやっていること、表わそうとしているものは、まだ満足いくものではなくて、「どうしたらいいのか試行錯誤中だから、私のことそっとしておいて」と言われているように感じます。途中経過への寸評はまっピラごめんよ!というわけです。

この心の動きは、自分が働きかけて変化したその外界と、その結果を自分がそれを受け止めているときに感じている違和感の表明でもありそうです。こうやって子どもは自分との対話を繰り返しながら、自分がやりたいことがどんなことなのか、本当になってほしい変化は何なのかを見つけていくのでしょう。表現には、そんな反応が出てくる発達の段階があって、意図的にこうありたいという願いを伴った探究を伴っているのでしょう。表現の修飾語として「自己」を頭につけた「表現」、つまり「自己表現」と呼べる段階に差し掛かっているとも言えそうです。

そう考えてみれば、自分の内面にずかずかと入り込んでいくような関わりになってしまっていないか、子どもが特に意識的に何かを考えたり、作り出そうとしているときに、私たちはある意味で「真剣に」見ないであげること、も必要なんだろうと思います。いえ、そういうことをやっているんだろうと把握しておくことは必要かもしれません。どんな年齢であろうと「自分づくり」に関わることは「そっとしておく」ことも大事なのでしょう。青年期で、もし表現に関わる仕事を目指している場合なども、自己表現の質が「問われていく仕事」を目指す場合は、丹念で注意深い関わり方が必要になるのかもしれません。

個人と集団をつなぐ3つの活動

2022/11/09

昨日と今日と、午後の時間に午睡をしない子どもたちと「エルマーのぼうけん」三部作目「エルマーと16ぴきのりゅう」を読んでいました。この活動一つの中に、いかに豊かなものが含まれているか、それこそ説明し出すと、キリがないくらいです。

私の園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。学校をつくりたいと思って教育学の本を整理していると、大抵は3つの要素を大切にしてきたことがわかります。保育界でも昔から「個と集団」の関係は議論されてきたものです。

自分らしさ、と他者のその子らしさをお互いに承認し合う生活とは、どうしたら両立するのかを考えてきたのですが、当園の実践から抽出すると、それは「選択」することと「参画」することがつながっています。そしてその間に大切な「対話」があります。そういう並びが循環しているように見えます。選択、対話、参画です。参画するために、異なる意見や考えが生じたときに、子ども同士の対話が生かされていくのです。

これを含む活動は、プロジェクト的なものになります。目標志向型の生活には、そうした対話が生じやすい。協働的になります。ただ、それぞれに、何かはみ出てくるものがあって、そこに大切なものが含まれていく「スッキリ整理できないもの」も大事です。

私の園では、みんなで作り上げる遊びを通じた生活がベースにあって、だんだん、年中さんや年長さんぐらいになってくると、生活と遊びに中に課題発見や課題解決、知的な探究も含めて、何かを作り上げていく活動などが増えていきます。つくるものは、物でもコトでもあります。

エルマーのぼうけんが年長組の劇になって行ったとき、それも同じような要素が巻き込まれていく渦のように、いろんな学びが発生していきました。年長組は「お泊まり会をもう一度」と願っています。こういうテーマなども、課題解決型でもありながら、何かを作り上げる活動になっていきます。その学びをとめないことが、小学校以降の生活と学びの「かけ橋」なのでしょう。

月食で見るものと見えない科学知識

2022/11/08

皆既月食をみながら子どもが「生活の知識」を積みなさねても「科学の知識」には辿り着けそうもないな、と直感的にわかます。毎日、お月様を見ていても、満ち欠けが起きる理由さえ、自分の生活経験から導き出すことなんて、できないでしょう。それは教えてもらったから、あるいは自分で学んだから、知っている知識です。毎日の生活の経験から、太陽と地球と月の位置関係を、太陽の公転面を上から(下からでもよいが)眺める視点を持ち得て初めて、満ち欠けが発生する理由や意味を納得できるからです。日常の生活から公転面を外から眺めるようは視点を自分で見つけることなんて、できそうもありません。

皆既に限らず月食は、地球のかげが月に映っているのですが、欠け始めはその部分が影らしく暗いのに、欠ける部分が増えるほど、全体がぼんやりと明るく見えるのはどうしてでしょう。光の性質は不思議で、直進している光はものに当たると散乱し、光がそこにあるとわかるようになります。光自身は光っていないのです。映画館やプロジェクターから出ている光は、空気が透明で漂っているゴミや粒子がなければ、そこに光線があることは見えません。したがって太陽からの光線はものに当たって初めて見えてくるものなのです。

光はともかく、そもそも、太陽や地球や月や天王星が引力で引き合っているなんて、よく発見したものです。物体と物体の間には引力が引き合っていて、だから私たちも地球に引き寄せらているから立つことができています。空気も引き付けられているから気圧ができ、私たちの表面は1気圧で押されているから、内側からの圧とバランスを保っています。無重力、つまり空気も発散してしまっている真空に放り出されたら、私たちの肉体も内臓も血液も一瞬で蒸発してしまうのです。

何より、宇宙空間で物質は丸くまとまってしまうのも、引力のせいが大きくて、だから太陽も地球も月も丸いわけです。でも、その引力が発生する仕組みは今でも解明されていません。面白いことに、その引力には伝わるのに時間がかかります。時間がかからずに、パッと向こうまで伝わるのではありません。太陽と地球の距離があれば約8分もかかるらしい。つまり思考実験で、太陽を消し去ったとしても、地球は8分間は回り続けます。その後は紐が切れたけん玉のように、太陽の周りを回らずに真っ直ぐ離れて飛んでいってしまいます。

もっと不思議なことに、その重力の伝わるスピードと光の速さは、なぜか同じです。だから、地球から見えている太陽は、8分も昔の姿なのです。夕日の赤い太陽が、「あ、いま日没した」と思っても、実は8分前にすでに日没している(方向に太陽が去っている)。日の出も南中時刻も、そう。これが太陽なら8分前の姿だが、30億キロも離れている天王星ともなると、2時間40分もかかります。つまり今回の皆既月食と同時に起きた天王星食は、8時ごろに起きたが、実際には数時間前の姿なのです。

このように自然科学の知識というものは、自分で見て触って確かめることができないようなものが多い。「そう言われている」、「そう計算されている」、という形での知識です。科学の知識は正確で合理的に判断できるようなものであり、再現性があり、予想できて確かめることができる知識だと言っていいでしょう。では子どもにとって、どんな体験をしておくといいのでしょうか。

私はこれまでの経験から、生活の中に、その子なりに何かを「感じ、気づき、面白いと感じ、自分なりの理屈ができること」まででいいと思います。だから、科学的に正解と言われていることを「知っている」ことを優先するよりも、そこにたどり着けるための考える力、思考力、やりぬく力を育むものを大事にしたい。それは何かというと、感受する感性、着眼点として機能する見方や考え方、その心の動きを別の角度から見れば躍動する好奇心や探究心、ふしぎがる感覚、センス・オブ・ワンダーのようなことが、そもそもの源のようなものがあるのかもしれません。

受け止めてもらいながら自分らしく共に学ぶ

2022/11/07

 

(きのうの続き)。一歩踏み出す先には新しい気分と景色が広がっている。

先週のことです、11月1日(火)。年長のすいすい組と、旧今川中の校庭へ運動をしにいきました。普段やらないようなものばかり。25メートルを全力で走ったり、ソフトボールを投げたり、両足を揃えてピョンピョン跳び越えたり、して遊びました。計測して、それを「体力」として測定するのですが、まあ、それはそれ。何をするんだろうと興味津々の子どもたちも、体験的に理解すると、つまり一回やってみて要領を掴むと、もっとやりたい、もう一回!と意欲が高まっていきます。

そこには自分の気持ちの思うままに伸びていくものと、その感触からさらに自覚的に何かしようと思う躍動する心を感じています。自分に何か足りないと思えることは、それをつかみたい、知りたいという衝動になっていく。「今の何センチだった?」と、さっきよりも、もっと!という自覚的な認識のもとでの「もっと」です。思わず動き出す学びから、ちょっと自覚的な学びへ、年長さんにもなると、そんな姿を見ることができます。

またこんなこともあります。ふだんは3階にいる4歳児クラス(らんらん組)のIHさんは、ちょうど今日満1歳になるY Yくんのことが大好きで、「お手紙を書いたから(ドアを)開けて」と頼みにきます。1階の0歳児クラス(ちっち組)のドアを開けてあげると「お手紙持ってきた」。そこにいた先生たちも慣れたもので、優しく対応します。そんなことを繰り返しているうちに、Hさんは、自分のやりたい気持ちを受け止めてもらいながら、それを実現させ、次のやりたいことを見つけていきます。目に見えて「落ち着いて、しっかりしてきたねえ、Hさん」という声が聞こえてきます。「Yくんが可愛くて、大好きだからね」と。育ちを喜び合うという小さな瞬間です。

その緩やかな変化は、振り返ればある時期にはこう、と学問的に言える質的なまとまりを持っていると、その属性を説明できるでしょう。赤ちゃんが世界を追視するようなことも、聞いたり、話すようになったり、はいはいしたり、のっそりと立ち上がることも、目の前のものをとってさわることも、歩み出して、走り出し、語り続け、つくり上げることも、肘を伸ばして自分の体重を何秒支えることができるかも、そこには付随してくる多くの学びがつながってあるからでしょう。長い目で見れば発達や育ち。その都度の学びは何かに向かって伸びていく。その何かとはどこへ向かっているのでしょう?(明日へつづく)

 

子どもは辛抱づよい

2022/11/06

子どもは大人より辛抱づよい。

子どもといると「あ、そういうことね!」と気づくことが「たくさん」あります。「(ごめんね)そういうことだったのね」と。

たくさんある、ということは、子どもにとっては「気づいてもらえないことだらけ」なんだろうな、とさえ、思います。その「多さ・少なさ」加減は、大人は自分の経験から「たくさんある」と思えますが、経験の少ない子ども本人にしてみれば、なにが多くて何が少ないのかさえも、その基準さえ持ち合わせていない気もします。

だから、子どもはなんて辛抱づよいんだろう、って思う。

それに比べて私はすぐにイラッとしてしまう。

気づいてもらう、ということは「わかりあう」ということ。

いっとくさんは「相互承認」って言ってたな。ヘーゲルもそうだった。

わかってもらえた、と感じると、自分の気持ちが動く。一歩前へ。

だけど、気づいてもらえないと、気持ちはとどまる。

だから、人の気持ちも創発的にできているというのか。

もしも、気づいてもらえていないと、人はその次の気持ちになれない。

だから気づいてもらえてないと、思いはそこに留まってしまうんだろうな。それを気持ちが蟠(わだかま)っていくというのかな。こだわっているように見えるのかな。

そう見えるのは、こっちにおいで、と相手を変えたがっている見方だから。

そうじゃない。相手のことを「気づき合うこと」。気づくことは気を配ることだから、気配り。それをケアといもいう。

共感してもらえること、承認してもらえること、それがお互いに起きること。相互承認のこと。

子どもは辛抱強い。

大人はもっと辛抱強くありたい。子どもたちのために。

6つの「C」を読み返す。

コミュニケーション。

「対話して他者の思い・考えを理解する」

ああ、できてない。

「根拠くなき自信をいだく」

ああ、これかも。

「失敗に怯まず挑戦しつづける」

これなら、できそう。

でも「熟慮した上で」つきか。

よく考えよう。

6つの「C」

2022/11/05

今週を振り返って。ある研修会で。こんな表を玄関に貼ってある園があります。この6つの「C」で始まる言葉を体になじませてみたい。実際にやってみて、それがこれかな?と当てはめてみていく。レベルがあるから、方向性に見当がつきやすい。こんなことが生きていく上で大事、みたいなことを自分で引き寄せていくようになる環境をどう用意しようか。そういう環境とは、状況なので、活動、と考えてみれば、ある目的のある活動に参画していくこと。その過程で「学び」は生まれていくだろう。個人の能力に帰せないプロセスとしての変容。まさに資質・能力としても捉えられる。昨日までの学びを活かした「見方・考え方」を働かせるとすると、こういう理解になるのかな?どうでしょうか?

自主上映会の参加費をめぐって若者論に

2022/11/04

こんな会話が楽しい。「自分が大人と思うなら1000円。子どもと思うなら無料」。なるほどね。今日は保護者の方と映画会の参加料金を話し合っていて、いろんな考え方に触れることができました。11月20日(日)に保育園で映画「夢みる小学校」を上映するのですが、そのフライヤーに、記載が抜けていたことに気づいたのです。会費は1000円で、子連れ歓迎、としていたのですが・・・以下のような議論の展開に・・・

「子どもは無料はいいけど、高校生は子どもなの?」「じゃあ、高校生以下は無料にする?」「でも高校にいってない子もいるよ?」「じゃあ18歳以下無料にしたら」「若者からはあまりお金取らなくていいんじゃない?」「働いていないと無料とかにしてあげたい」「でも若者って何歳まで?」「・・・25歳まで」「どうして?」「なんとなく」「いっそのこと30歳以下無料とか」こんな感じの展開になっていき、私の理想は・・

「私の理想は、応能負担。上映鑑賞料無料。ただ経費30,000円を皆さんの志で支えていただきたい。目安として1000円ですが、100円でも構いません。この映画の鑑賞機会を増やすために、カンパしていただける方は大歓迎です。」ができたらいいな、と。無料でカンパ方式とか、色々ありえます。ただ今回はあまり時間もないので、ある年齢で無料にすることになりそうです。

この検討は、この映画をどういう人たちに見てほしいのか、目的は何かを明確にすることが問われ、その一方で、大人の若者への見方も問われていることになることもわかりました。大事なことを考えるきっかけになりました。

創発から見える認知の変化

2022/11/03

昨日ご紹介した満2歳を過ぎている二人の子ども(1歳児クラス)の会話は(写真)、その子にとって相手がいないと創発しない体験です。保育の焦点はこちらの環境論にあります。遊びにおける虚構場面が発達の再近接の領域であるといえる、そんな見立てをしたくなる「ごっこ遊び」ですが、どんな「地」を持ってきてみるかで、「図」は変わります。多様なレパートリーを語り合う談話が、当園の職員の特徴です。そのメガネは学ばないと見えません。そこは研修です。ただ見合っても視点は生まれません。

最近、面白いアナロジーに気づいて、色々と考えているのですが、それはあの「3つの資質・能力」のことです。あの三要素に分かれていることは、あの使い方を間違えると、また従来通りのことになってしまわないか、ということです。三つがつながって作用しあって働く体験としての「コト」が大事。また「学び」の姿を3つの視点から分析的にみることが出来ますよ、ということであって、それぞれの概念は、それ単独で常識的な意味でバラバラに解釈しない方がいいんじゃないか、という話です。評価が難しいからといって、それぞれがバラバラなんでことありえないわけで。

というのは、相馬先生にご紹介いただきた本「私たちはどう学んでいるかー創発から見える認知の変化」(鈴木宏昭・ちくまプリマー新書)を読んで、私たちに染み込んでいる知識、とか能力とか、身につける、といった言葉を見直してみることで、面白いことが仮説的に見えるからです。

この本の趣旨を私なりにまとめると、発達や学びは、その本質は身体的な「コト」であり、実践の中で創発している事象でもある。だから表象や記号に置き換わったもの(例えば文字や図で書かれた教科書)だけで、進める理解や知識は、当然ながら本来のコトではなくなるから変容しにくい。佐伯胖さんの「学びの構造」や「わかるということの意味」などに親しんできた私としては、この学びの環境との創発論は、とても面白いものでした。

「育みたい資質・能力」はあくまでも一体的に育むものであり、環境との創発という体験としての事態=「コト」を通して変容の姿として3つの側面から分析的に捉えることが出来ますよ、ということはないでしょうか。体験は生き生きと、全身と五感がかかわって実感が湧く働き、つまり情動も認知も動員されたものです。そこから人間ならではの、意味やよさを求める判断や思考が動き出すことで、本当の学びにつながっていく。そこに循環が生まれる。

こんな理解に一貫した理路を与えてくれているように感じたのでした。ただ飛躍するかもしれませんが、これは総合的な学習や、合科的な学び、あるいは体験学習や生活科、そうした「なすことによって学ぶ系」の理論とも整合性があるような気がします。特に、遠隔項がプロジェクト的学びの目的にあたり、その達成に向けた活動が、近接項の習得となって透明になっていく(身についていく)ことに似ていると思いました。

従来の言い方を借りると「なぜ学校で学ぶ知識が実生活に生きて働きにくいのか(昔は、なぜ転移しないのか、という言い方で問われていた問題)」に近いものへの回答の一つが、ここにあるように思えます。昔、波多野誼余夫さんに学力の転移問題のレクチャーを受けたことを思い出しました。

子ども同士の姿

2022/11/02

うちの保育園や姉妹園の保育エピソードは、大抵が「子ども同士」の姿です。

自分(保育者)と子どもの関係を間主観的に描写したものは意外と少ないのが特徴と言えます。

ですから園のブログでも、そんな様子がよく拾われて描かれています。

このことの意味は深くて大事なことを保育界へ提示していると思うのですが、それはまた別の機会にするとして、昨日のブログには、1歳児クラスのぐんぐん組の子どもたちが、朝の会を開いている様子が報告されています。

ちょっとだけ、その覗いてみると・・・

・・・・以下はクラスブログから・・・・・

・・・朝の会ごっこでウクレレやギターの真似っこをするのが好きなぐんぐんさんが多いので、この日は段ボールにお絵描きをしたあと、ウクレレ(ギター?)の形に切ってあげました。
そうしたら、さっそく朝の会が始まりました。

「せーんせいおっはよっ♪みーなさんおっはよっ♪…」「先生おはようございますっみなさんおはようございますっイェイイェーイ!」「今日のぐんぐんさんのお休みは、ひとりですっ」
そして、お友だち同士で「なんのお歌がいい?」とリクエストを聞いています。ごっこ遊びの中からもいろんなやりとりが生まれます。

ちっち組のSくんもその歌声を聞いて身体を揺らしながら「朝のうた」をきいていました♫

 

ふたりで何の歌を歌ってるのかな〜と思ったら・・・
「まぁるいみどりの山手線っ まんなかとおるは中央線っ…アキバのヨドバシカッメッラッ♪」

さすが、秋葉原!ご当地ソングですね〜。(笑)

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