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園長の日記

子どもが無心に遊んでいる世界

2023/10/01

園だより10月号 「巻頭言」より

20231001 巻頭言10月号(印刷用)

前号(9月号)のこの欄に、遊びを終えて集まりへ気持ちを切り替える年長の姿に成長の姿を感じたと書きましたね。でも本当はその姿よりも、もっと大事なことがあります。子どもがいかに遊びが好きで、その感覚を大人が忘れないようにしたいということです。私が好きなエッセイに次のものがあります。ちょっと長いですが紹介します。

「子どもたちの鬼ごっこにまきこまれてひとときを過ごすとき、笑い合い、かけまわって、面白くてたまらない世界がそこに開けている。おとなになってから、稀にそのような機会に恵まれたとき、自分自身の少年時代に、友だちと日が暮れるまで遊んだ記憶がよみがえる。他のことは消え去って、胸のはずむ思いのその時が大きく浮かび上がる。そのような時を体験したことが、自分に子ども時代が確かにあったことの証しではないかとすら思う。

木々の茂みの中でかくれんぼの鬼になって数をかぞえている間、静まり返った木立は私を孤独にする。だが子どもたちも同じような一抹の不安をもって、同じ時を過ごしているのではないかと思う。やがて小さなさざめきがとところどころに聞こえてくる。かくれんぼのこの自然の余韻の中にいつまでもとどまっていたと子どもたちは願う。だが幼稚園には帰りの時があり、子どももおとなも現実の時間にひきもどされる。子どもは木の枝を手にして、家に持って帰るという。いま過ごした大きく広い世界の記憶を、手元にとどめる記念である。先生はそれを家に持って帰らせる。

現実の社会生活の場で子どもは生きているのだが、子どもが無心になって遊ぶとき、そのただなかに子どもの世界が開かれる。それは人間の精神の芽生える土壌といってもいいのではないかと私は考える。土壌がつくられなければ、葉も花も開かない。人間の発達は、現実をうまく処理する知能や問題だけのことではない。人が、自分自身として生き、また他人とともに生きる精神の豊かさがなかったなら、人間として貧しい人生になるだろう。子どもが無心に遊ぶとき、広く大きな宇宙に心が開かれている。おとなはこの子どもの世界にふれることによって、うるおいを与えられ、貧しく狭くなりかけている自らの心をひろげられる」(津守真『子どもの世界をどうみるか 行為とその意味』NHKブックス 1987年「子どもの遊びは精神の芽生える土壌」より)。

私は子どもと一緒に遊ぶとき、子どもの生きている「奥行きのある世界」に実際に入り込み、果てしなくいつまでも続く世界の中でお互いに心を通わせあっているという実感を覚えることがあります。他から切り離された遊びの時空が確かにあるのです。それをみなさん、思い出しましょう。まずは子どもは、そこの住人であることを。そして今月の保育参加や親子運動遊びの会で、その感じにぜひ触れてみましょう。

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