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園長の日記

創発的な遊びとしての「グ・リ・コ!」

2023/04/13

4月になって子どもたちの間でブームになっているものを、クラスブログで紹介されていますね。その中に「グリコ」といってジャンケンして、グーで勝ったら「グ・リ・コ」と言いながら階段を3歩あるいて進む。チョキで買ったら「チョ・コ・レー・ト」と4歩進む。パーで勝ったら「パ・イ・ナッ・プ・ル」と5歩進む。これを5としたり6とする場合もある。年長の女子2〜3人が始めてたら、あっという間に年長、年中の間に広がり始めました。その話をお母さんにしたら「家でもやってます。昨日は20回もやらされました(笑)」と、よくご存知でした。

この遊びも言葉の学習なっているので、よく奨励される遊びです。言葉の単語が、音韻に分かれることを、体全体を使って身をもって学んでいると言っていいのでしょう。体験が学びになっているから、その活動が肯定されるというのも狭い考え方かもしれませんが、私などは「いいね、もっとやってやって」と思います。パラシュートに変えたり、こどもが発案するかもしれません。かるた遊びとかトランプ、カードあそび、双六などにもそのような「言葉」の学習の側面を取り出すことができるでしょう。10の姿のでもあります。

でも、ここでお伝えしたいのは、今週ここで話題にしてきた意味やプランの話です。遊びに中に学びがあるのは大切です。ただ、この「グリコ」にしても「だんごむし」の観察にしても、この遊びが週案にも月案にも、ましてや年案にも具体的には書かれてません。ある意味で偶然生まれた遊びなのですが、それでも子どもに届いたネタ元がどこかにあって、それが階段、友達、ことば遊びへの興味などが相まって、食後に部屋に戻る途中で創発的に生まれた遊びだ、ということです。いろんな遊びが生まれてもおかしくない条件は整っているようにしておいて、それが起きるのは何かのきっかけで起きるとも言えそうです。

そこで「プラン」の話なのですが、保育の計画というのは、何起きるかわからない「空白」が必ずあって、そこに子ども一人ひとりの主体性が発揮された姿が現れてくるのでしょう。もちろん、私たちにはこう育ってほしいな、という方向目標みたいなものが意図されていて、その実現に向けて環境が用意されます。計画というのは、その誘発システムみたいなものを、より、そうなるように、あるいはどう起きても対応できるように、どっちに転んでも困らないように、あらかじめ色々な選択肢を用意しておくものだと思います。プランは「人と状況が影響しあって生まれる活動」の資源=リソースの一部です。グリコ、という遊びは活動としてプランされたものではなく、結果として起きたコトです。新たな状況が生まれたのです。プランは活動をうむ資源=リソースの一部なのでしょう。

そこで、毎日の生活の中で起きることを個人別に想定することはあまりにも多くて複雑なので、ざっくりと抽象的に押さえることになります。週案にも書いてないというのは、そういうことです。でもいつか起きるかもしれない、ということは想定されてはいます。

そこで保育者のこうなってほしいな、という「目標」や「ねらい」のために、その「環境構成」によって創発されるであろう「子どもの姿」を予想しましょうというところまでが「計画」で、その結果がどうなったのかの子どもの姿から育ちと保育を振りましょうというのが「記録」であり「日誌」である、という言葉遣いがされています。

この二つは実際にはサイクル的につながって循環しているのですが、当園の場合、計画と記録の書類的な隔たりが残っていました。そこが不便なところの一つで、保育書類のデジタル化や業務省力が進んで改善されてきました。また計画と記録が「マップ」という形式によって、一体化されてきた事例も増えてきました。さらに記録の中で保護者に伝える可視化したものと、保育者が振り返りのための残す記録の重複を、デジタルなリンクを張ることで「二度手間」が省かれるようにもなってきました。

子どもの姿ベースで創発的に起きる「コト」。環境構成までの計画でありながら、その結果として相互関係の中に起きている「コト」をつなげてしまうドキュメントにしたい。何が起きるかわららない、その子どもの姿からどう発展していくかわからない活動の軌跡の中に、ねらいも環境との相互作用も結果も見えてくるようなもの。そのつならりの可視化の工夫。ただ、その全体を言葉で描くことは限界があるので、写真や動画や作品や活動そのものが動員されるのですが、それを簡単に「見せてください」と書類印刷を求められても困る、という問題があります。

起きていることは、予想も結果も言葉だけでは全てを表現できないが、意味は言葉で表現するしかないのでしょうね。

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