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園長の日記

幼児が笑い転げるおかしみのツボ

2022/10/19

今日4歳の誕生日を迎えたKSくんと遊んでいて、可笑しくて笑いが止まらなくなりました。

子どもには「笑いのツボ」があります。そのツボにはまると、ゲラゲラ笑いが周囲に感染します。そのツボはいくつか種類があるのですが、今日のツボは、「他人が期待している楽しみが、偶然できなくなくなってしまう」というものです。代表的な例は「落とし穴」です。人が落とし穴に落ちるのを面白いと感じる心が人にはあります。相手を騙すことが面白いと感じるのと似ています。この感覚、わかりますか。子どもには、そういうものを面白がる心理があります。

こんな場面でした。折り紙で作った「筒のようなもの」(写真)が偶然、机の上で立ったので「あ、立った、立った、すごいね、立ったね!」と私が喜ぶと、KSくんは、すかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒したのです。ろうそくの火を消す時のように、です。そこで私が「あ、倒しちゃった。ねえ、もう一回、立てて」とお願いすると、KSくんは立てようとするのですが、なぜか笑い出しています。笑いで手が揺れるのこともあって、筒が中々、立ちません。

私が「立たないかなあ、立たないかなあ」と声に出して期待していると、KSくんはなんとか筒を立たせました。笑いながらです。そこで「あっ、立った立った!」と私がいうと、KSくんは、またすかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒そうとします。でも、笑っているのでうまく息が出ないので、中々倒せません。自分でやりながら可笑しくてうまくできないという感じです。その経過をずっと録画していたので、二人で笑いながら、繰り返しみました。楽しかったあ〜。

このような一見、実にどうでもいいように思えるエピソードかもしれませんが、私はそんなことはない、大切な意味があると確信を持って主張したいと思います。このように子どもが「笑い転げるようなおかしみ」を体験する意味について、解説したものがあまりない気がします。でもきっと重要な意味が隠されていると、私は思っています。スマイルの微笑ではなく、ラーフターの哄笑の方です。声に出して笑う方です。

私の仮説はこうです。人間の脳は社会的な脳だと言われています。人と人が結びつくことを望む脳です。ヒューマン・コンタクトを必要とする脳です。その際、利他性が人間性の特徴です。利己的ではなく利他的であったこと、なぜか協力することを人類の進化は選択してきました。他人が喜ぶことが嬉しく、他者が悲しいと自分も悲しいと思う共感性を持っています。他者の快感が自分の快感になるような性的傾向を愛情の中にも組み込みました。

そのような共感性が発達していくにつれて、他者が困ることなど「起きてはならないこと」が実際に起きてしまうことは恐れや怒りなどの感情を伴います。そこで子どもは、あえてそうした「起きてはならないこと」を、先取りした模倣、つまりシミュレーションすることで、裏返しの感情が発露してしまうという心理機構があるのではないでしょうか。プラスの感情を伴った体験の再現が「ごっこ」です。これはいわば過去から現在への模倣。一方で、マイナスの感情が引き起こされる予行を平然と引き起こすことはできないので「おかしみの感情」を伴いながら、一種のごまかし、ユーモアにしてしまうのではないでしょうか。

それが大人からは「いたずら(悪戯)やおふざけ」に見えるのではないでしょうか。バケツを被って階段を昇り降りしたりするような、きっと叱れるようなことを、子どもがやりがるのは、共感性の発達の裏返しかもしれません。相手があって初めて誘発される感情でもあって、そのおかしみの体験が引き起こされているとき、私はあまり「待ったをかけない」ことにしています。私との自由遊びの時間には、この笑いが突発的によく起きます。

園長ライオンの遊びの中でも、ライオン役の私に「はい、肉ですよー」とくれるので、おいしく食べるふりをすると子どもは「毒でしたあ」と言って、騙したことを笑って楽しむのです。

私はこういう事も大事にしたい。でも、これは遊びの価値への確信と心の余裕がないと、なかなかできないですね。

自由遊びとは何か。今は亡き大場幸夫先生の言葉です。

「子どもたちが自ら発想し、その遊びの存続や遊びの内容の選定など、一切を子ども自身に委ねられる遊び。子どもたちの自発的な意思にもとづいた活動の総称。保育者が意図的に設定し子どもに課す遊びの類とは峻別される。自分の思いつくままに、自由にいろいろな遊具やおもちゃを選択できることや、自分なりの遊び方を楽しむことが可能であり、進んでいろいろ工夫してみることが許されている。自由であることは、なんとなくぶらぶらしていられることも含めて、自分の気持ちに正直に呼応できる行動のあり方、ということができるだろう。それだけに、意思決定と自己調節が、こうした遊び方のプロセスを通して、育まれる機会を得ることにもなる。子どもが自らの主人公になって遊べるところに、この遊びの本質を見ることができる。問題はこうした遊びを、日課の一部に取り込み、“束の間の自由”でしかないような生活を是認する保育者の考え方にある。(「発達心理学辞典」(ミネルヴァ書房))

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