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保育アーカイブ

コップの中に注ぐのか、それとも引き出すのか?

2022/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

皆さんは教育というと、どんなイメージを持たれるでしょうか。きっと、勉強とか宿題とか学校とか先生、あるいはちょうど今行われている試験などを思い浮かべるかもしれません。教育というのは、教えること、あるいは教えてもらって身につくこと、何かが分かってできるようになること、そういうイメージだと思います。空のコップに水を注ぐことです。これは間違いではないのですが、私たち保育者は、もう少し広くとらえます。この広がりを皆さんと共有しておきたくなりました。

教育という日本語は、英語のeducationを訳したものですが、このeducationの語源には、「引き出す」という意味のラテン語educere(エデュケーレ)と、「養いつつ育む」という意味のeducare(エデュカーレ)があると言われています。この二つの意味から考えると、教える、あるいは教えてもらって身につくという「外から中へ入れる」というのとは、反対の意味になります。つまり「中から外へ出ていく」ようにすることが教育だったということになります。

人の中には「最初から何かがあって」、それがうまく引き出されていくようにすることが教育である、と。例えると、コップの中にはすでに水があって、それを取り出すということになるのですが、果たして、そんなことができるのでしょうか。「最初からある何か」というのは、自ら育つ力、発達する力のことです。人間は、あるいは子どもは元来、自ら育つ力、発達する力を持っていて、それを支えながら、さらに伸びていくように援助すること、それが「引き出す」とか「養いながら育む」ということになります。

私たち保育者は、教育について、こちらの方に力点を置いてとらえています。こちらの方が、いつの時代にも普遍的であり、変えてはならない不易の方であり、教育の本質になるからです。なぜなら、時代や環境によって姿が変わってしまうものは、狭義の教育、流行の教育の方になるからです。私たち保育者は、あるいは教育者は、どんな時代になろうとも、子どもが人間である限り、この普遍的で本質的な教育の役割を手放すわけにはいかないことになります。

そこでよく私は、最初から元来持っている自ら育とうとする力は「見えない」という話をします。種の中に、その後に芽が出て膨らんで花が咲いて・・という姿に変化させる力は、種をじっと見つめていても、解剖しても、物理的に分解しても、どこにも見えません。それは細胞の中のDNAだ、という人がいるかもしれませんが、それでも、そのDNAを動かしている力は、現代の科学でも見出せてはいないのです。でも、確かに存在するその何かに、私は畏敬の念を覚え、私たちの命の不思議さ、分かっていない事柄に謙虚な気持ちで、謎は謎として大切にしてく姿勢を保持したいと思います。

保育というのは、子どもを育てるという営みは、何か大事そうに見える内容を、外から注ぎ込み、覚えさせたり、できるようにさせたりすることで身につく事柄を「超えたところ」にあります。その基盤となるものをまずは、しっかりと育みたい、支えたい、守りたいと考えています。

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