保育実習生を新宿区にあるこども園へ連れて行き、病児保育の実際を見学させてもらいました。大学の保育養成課程では子育て支援も学ぶのですが、実習でもできるだけ具体的な場面に触れておくことは大切です。そこで私の知り合いの園に頼んで、学生を連れて行きました。

2025/09/12
保育実習生を新宿区にあるこども園へ連れて行き、病児保育の実際を見学させてもらいました。大学の保育養成課程では子育て支援も学ぶのですが、実習でもできるだけ具体的な場面に触れておくことは大切です。そこで私の知り合いの園に頼んで、学生を連れて行きました。

2025/09/11
事務所のお手伝い保育は、私の実験タイムなのですが、器具の使い方を覚えてもらう段階です。一通り終わったら、制作ゾーンに並べてあるので、それを自由に使って遊べるようにしていきます。

ビーカーやスポイドなどの化学実験器具を使ってみるのは楽しそうです。普段からペットボトルで色水づくりはよくやっているのですが、改めてフラスコや試験管を使って混ぜてみたりするのは、ワクワク感があるみたい。

今日は砂糖水を作って、その上に色水をスポイドでそっと垂らしてみたのですが、混ざらずに表面に色水の相ができました。

また氷を浮かべてみて溶ける様子を観察したりしました。

そのほか鏡を並べで見ると、思いがけない写り方をしてその発見が楽しそう。

自分の足の裏を2枚の鏡で挟んで写すとか、大人では思いもしないようなことをいろいろ試していました。

坂道は表面がツルツルとガザガザがあるのですが、どちらが遠くまで車が走るかを比べたりするのですが、私も不思議だな、と思う現象がありました。

それはお手玉を1つ乗せたものと、2つ乗せたものを比べてみたのですが、2つ乗せた方が何度やっても遠くまで走るのです。

2025/09/10
区内から保育園の先生たちが15人「公開保育」に来られました。午前中は保育を見学していただき、午後は和泉橋出張所でディスカッションです。公開保育は千代田区も推奨しており、地域のなかで保育を見合うことで、環境を通した保育のアイデアを交換したり、先生たちの交流の機会にもなります。

午前中に参観してもらったのは、乳児のくつろいだ保育の雰囲気のなかでの保育、2歳にこにこ組の野菜の味の探究の姿、そして幼児のゾーン保育の様子などです。
保育は生活と遊びからなっており、子どもの本分ともいえる遊びは生活全体の中に浸透しています。その「遊び性」は子どもの本性から現れてくるものであり、それで満たされていなければ、子どもの心は生命力を失い、子どもの心は干からびたものになってしまいます。これは例えではなく、事実です。
また遊びは学びでもあり、ときに探究でもあります。午後のディスカッションでは、幼児教育の見方考え方や資質能力からみた子どもの姿の捉え方などを説明しました。
ちょうど幼児では運動ゾーンで、大縄跳びで遊んでいる子どもたちがいたのですが、見学者によると「とぶ場所がずれないように印をつけるといい」と話していたそうです。その事例について、遊びの姿を「資質・能力」の言葉を用いて探究として次のように述べることができるでしょう。
<以下は保育者向けの話です>
とんでいる(技能)うちに跳ぶ場所が徐々にづれていくことに気づいた(知識)ので、どうやったらずれないようになるかな?工夫していみることを考え(思考)、そうだ自分で跳ぶ場所を意識できるように床にテープでバツ印を貼ったらいいのではないか(判断)と、「まって!印つけるから!」と言葉をかけていた(表現)。
綱に引っかからずに跳べるという「知識」「技能」を得た子どもが「思考・判断・表現」しています。そこを行ったり来たりすることが多ければ多いほど、また活発に動いているほど、遊び性が豊かであるわけですが、それを動かしている原動力「もっと長く跳びたい」という目標意識としてあらわれている「意欲」です。つまり「非認知的能力」といわれる「学びに向かう力、人間性など」になります。それは「心情・意欲・態度」が中核です。
ここでいう態度とは、非認知的能力であり、できるという技能ではなく、心構えであり、意欲が実体化されたもの、人権という潜在的なものが自己発揮されていく姿を表すものと押さえておくといいかもしれません。
2025/09/10

にこにこ組の「保育ドキュメンテーション」より
【今日はそら先生の食の探究をしました。朝そら先生を見つけると、「あ!そら先生!やっほ〜♪」と声をかけるにこにこさんでした^^】

ニコニコ組で始まった野菜の味の探求も、9月で、6回目。そら先生が来るとわかると、子どもたちは楽しそうです。今日は公開保育で、近くの保育園の先生たちもたくさん見学していたのですが、子どもたちは全く気にしない様子。3種類のキノコの違いを味わっていました。
詳しくは後日、先生たちの話し合った内容を含めてレポートします。
2025/09/06

「社会をつくるのは、地域からしか始めれれないな、と。いろんな人がいるから意見をまとめられないじゃないですか、でも、それをやらないかぎり社会はほとんとには変わらない」(永戸祐三)。
この言葉を聞いて、そうだ、そうだと、また勇気をもらう。こういう先輩たちの営みをしっかりと受け止めていくことが未来をつくることになるんだと。
永戸祐三『協同労働がつくる新しい社会ー自ら事業を起こし、働き、地域を動かす』(旬報社)。帯には「労働とは何か?労働が資本を雇うとは何か?! これを読み始めた頃、著者の永戸さんが亡くなられたことを知り、ショック。彼の志と実践がまずます切実に必要な時代になっていると思います。
2025/09/04

「こう跳んだらもっとよくなるだろうと色々試しながらやっています」。縄跳びに励んでいる子どもたちの姿について、先生たちは、こう話しています。失敗しないで跳び続ける回数が増えていくということは、何度も同じことを繰り返し行う「練習」があるわけですが、そのプロセスを「資質・能力」の育ちとして捉えると、こうなるでしょう。
縄が足の下を通過するときにピョンと跳び上がり、縄が頭の上を回って戻ってくるまでの間に、1回チョンと小さく跳んで、チョン・ピョン、チョン・ピョンとリズムを刻んでいきます。その跳び方や身につけていくスキルを「知識・技能」だとすると、頭で覚える知識ではなくて、身体的なスキルと一緒にに取り込んでいく「身体的知」のことであることがわかります。つまり、幼児期の知識と技能は身体的に一体化したものであり「身につく」ものだといういい方がぴったりきます。

その知識・技能を使って、もっとたくさん続けて跳びたいという目標に向けて、跳び上がる場所がだんだんずれていかないように同じ場所で跳ぶようにするとか、同じリズムになるように跳ぶとか、どうやったら縄に足がひっかからないように足を地面から浮かせるかなど「考えながら」いろいろと「試している」ことがわかります。
そこには、こうやってみたらこうなったから、じゃあ、今度はこうしようという判断が行われていて、結果的により長い時間とべるようになっていく姿としての表現が表れていきます。「思考力・判断力・表現力」の基礎になります。
そう考えると、目的に向かって試行錯誤したりする問題解決プロセスは、探究する姿と重なってきます。とくに、こうだったから、じゃあ、こうしてみようと工夫するところに探究の姿があるように思えます。
この原動力となるのは、目的に向かって諦めずに最後まで成し遂げようとする「学びに向かう力」と呼ぶ非認知的能力になります。長く続けて跳ぶことが楽しく、その達成感がうれしく、そのような心動かされる心情が、もっと続けて跳べるようになりたいという意欲を引き出し、それを繰り返すながで、挑戦し続ける態度が形成されていきます。心情・意欲・態度が育っていくのです。これが探究を続けていく原動力になります。
2025/09/03

いま幼児クラスで縄跳びが大変流行っているのですが、その様子をみていると、総合的な学びだな、と思えます。小学校の教科学習のはじまり、として捉えてみると、体育、算数、音楽、国語の「はじまり」が入っています。体育はわかりやすいと思います。跳躍力、体幹の強化、リズムにあった体の動き、手足の協応運動・・などが育ちます。

算数は、数を数えることをカウンティングといいます。縄跳びは、跳ぶたびに一枚、に〜い枚、と数えていきます。その度に数唱(数を唱えること)を自然と覚えています。ひゃくいち、ひゃくに・・と100を超えて数えることも多くなりました。
また掲示することで、そこに数字が書かれています。その数字をよむという体験にもなっています。
音楽は「郵便屋さん、落とし物、人〜つあげましょ・・」とわらべ歌を歌いながら遊ぶので、音楽にもなっています。みていると国語にもなっているのは、言葉のやり取りがいろいろと起きているからです。どうやったらうまく跳べるようになるのか、こうしてみるとか、こういうふうに回してとか、友達同士の会話も盛んです。
2025/09/02

自立に向けてどう援助するのか?保育の核にこれがあります。大人がやってあげるわけでも、子どもにやらせるわけでもなく、子どもが自らやっていくこと。この違いの理解が保育の出発点になります。

この違いを確認したくて、保育ボランティアの高校生にも、昨日から来ている大学の実習生にも、同じテーマについて語りました。もちろん話し方はちがうのですが、趣旨は同じです。

私たちは子どものためと思って一生懸命になればなるほど、つい「やってあげたり」「やらせたり」することに傾きがちです。そんなことを思っていたら、まったく偶然ですが、主任が全職員に、次のような文章を投げかけました。

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理事長の藤森先生が話されていたエピソードを思い返す機会がありました。改めて先生方と共有し、私たちが大切にしたい保育の視点としてお伝えします。
「やってあげるから見守る育児へ」という本にも書かれていますが、保育者は子どものために良かれと思って“やってあげる”ことがあります。それ自体は大切な行為ですが、一方で、子ども自身が自ら気づき、考え、行動する経験は、自立への重要なステップです。
少子化により大人の目が届きやすくなっている今、「丁寧さ」が「大人が先回りしてやってあげること」にすり替わってしまうことが少なくありません。
<具体的な保育場面の例順番の場面>並んでいるときに、ある子が順番を抜かしてしまったとします。保育者はつい「順番抜かさないでね」と声をかけがちですが、よく見ると、抜かされた子は特に気にしていなかったり、「別に入ってもいいや」と思っていることがあります。子ども自身が嫌だと感じたなら、そのときに「やめて」と自分で伝えることが大切ではないか。もちろん、うまく伝えられずに泣き出してしまったときには、そこで初めて保育者が援助する。この“待つ姿勢”について1つの選択肢に入れるのはどうでしょうか。
<集まりの場面>朝の会や集まりのときに、先生が話している中で、友達同士で話をしている子がいて「聞きづらい」と感じる子がいるかもしれない場面で、私たちはつい「静かにしようか」「お友達が聞こえないよ」と言ってしまいがちです。しかし、本当に聞きづらいと感じているのは誰か? それは聞いている子どもたち自身です。その子たちが「聞こえないよ」と自分で友達に言えることが大切であり、保育者が「お話が聞こえないと思ったら、そうやってお友達に伝えていいんだよ」と声をかけることで、子どもが自分の意思を伝える機会が経験できるのではないでしょうか。
このように、大人がすぐに介入することが「親切」や「丁寧」ではない場面もあるのです。あえて関わらない、あえて見守るという選択が、子ども同士の関係を豊かに育てる土壌となります。
今日の保育を振り返る中で、このような場面に出会った方もいるかもしれません。ぜひ、日々の実践のヒントとして心に留めてみてください。
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このような視点を大切にしています。ご家庭でもこれを大切にしてみませんか?
2025/09/01














2025/08/26
現在のような情報化社会になると、インターネットなどで知識は覚えなくてもすぐに手入るから、ただ知識を答えるための教育は変えなければならない、という主張をよく耳にするようになりました。ここでいう知識というのは、どうも、一旦加工処理された知識を指しているようです。

本やデジタル書籍など書き言葉や図や絵になったもの、紙の楽譜やレコーディングされたもの、そうしたいわば情報化されたもの全般を指しているようです。そうしたメディア化された情報としての知識は、確かに手に入りやすくなり、それを覚えておくような意味での「知識」はすぐに手に入るということはよくわかります。生成AIが生活の伴侶のようになってきた現在、知らないことは聞けば教えてくれます。
しかし日々子どもと接していると、それは非常に限られた情報としての知識にすぎない、ということがすぐにわかります。赤ちゃんから年長さんまで、ものを手に取って触り、時には口に入れたり、積み木を積んだり、絵や文字をかいたり、体を動かし跳んだり跳ねたり、友達と一緒にゲームとしたり何かを作り上げたり、公園や林で虫や草花に触れてみたり。
そうした体験からえるものは、すべて「知識」でもあるのです。身体の知覚と行為が盛んに行われている限り、そこには名付けられていない営みが厳然と起こっており、そこにはまだ名付けられていない「知識」が躍動しています。
それは子どもたちの遊びのプロセスをよく観察してみるとわかります。私たちが機能や目的や意味を見出して命名すると、まだ名付けられていなかった、つまり隠れていた情報から「知識」が生成しているという見方だってできるからです。公園である虫をみつけました。名前は分かりません。図鑑で調べてみました。すると「ハナムグリ」の仲間らしいということが「わかり」ます。
では、この体験のプロセスの、どこから「知識」というものが成立したということになるのでしょうか?まだはっきりと分類されていない新しい昆虫を発見したとしたら、それは名前がまだはっきりししないから、正しい知識ではない、などということはないでしょう。もしそうなら、それなら発明や発見は知識ではないことになってしまいます。
虫ではなくて、色水遊びの色だったらどうでしょうか?子どもたちは赤、とか青とかいいますが、どんな場合でも、ある二つが全く同じ色なんてありません。微妙に違うはずです。和名の色は自然からとった命名法によって、実にさまざまな色の名前をもっています。すると分類によって知識の量が変わってしまいます。それと同じことが細分化された学問や研究の知識は、だれも全体が見えないほど膨らんでしまいました。誰が知の巨人だかわかりません。きっとそいういう知識ならAGIがそうなるでしょう。
要するに五感をフルに使った体験がまずは非常に大切で、生きるために不可欠な体験をたくさんすることです。
(以下は保育士等の専門家向けの話です。)
それでは知識というのは言葉のような表象記号、コーディングされたものをさすのではなくて、保育にける知識とは身体的接地がある情報を大切にしているように思えます。その受け取っている経験をいかに大切にしていくか。それがいかに「資質・能力」の循環として、生成しているか。またそれが生きる力になっているか。そのなかで動いているものの一面が知識と呼んでいるものでもある、ということでしょう。
もっと言うと「知識」に限らず、資質・能力の説明の中に出てくるキーワードは、全てそうした経験の1部として動いているときに、初めて意味をなすようなものなのでしょう。この事は「子どもの姿」と言う表現になっていることとも関係があるはずです。