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園からのニュース

野井真吾・日体大教授の提案「光・暗闇・外遊び」

2021/07/06

当園が「早寝・早起き・朝ごはん」や朝の運動遊び、じゃれつき遊びを大切にしていることは、みなさんご存知だと思います。このテーマについての研修が保育者向けに今年1月に開かれました。主催は東京都社会福祉協議会(東社協)の「保育士会」です。その研修内容が会報「保育部会通信」に掲載されたので、ここに掲載します。

20210706 野井真吾「子どものからだのおかしさを科学する」

子どもの睡眠や園生活リズムの考え方の基本を確認できますので、ぜひお読みください。

ごっこ遊びは「勉強であり復習である!」

2021/07/05

遊びの中には、物を何かに「見立て」たり、自分が何かになった「つもり」になったりと、「ごっこ遊び」がたくさんみられます。積み木が自動車に見立てられたり、その子がウルトラマンになったりしています。その時、子どもたちの頭の中にはその自動車がウルトラマンのイメージが躍動しているのですが、その再現をになっている積み木や子ども自身は、実物の自動車でもウルトラマンでもない「代役」です。これを「表象」といいます。「実物〜イメージ〜表象」の三項関係です。この表象のところには「言葉」でもいいのです。言葉も実物の代わりに指し示す表象なのです。

といったことを大学で説明しているときに、あることに気づきました。子どもにとっての自由遊びは、ほとんとの時間が何かの再現遊びになっているので、実際にリアルな体験よりも、はるかに豊かな経験になっているということです。お店屋さんごっこ、キャンプごっこ、腹べこあおむしごっこ、歯医者さんごっこ・・・数え切れないほどの「ごっこ遊び」が至るところで毎日、繰り広げられています。そのごっこ遊びの最中に、子ども同士の対話もあって、言葉を使ってコミュニケーションをとったり、見立てているものを友達に説明したりと、多くの学びが発生しています。

ごっこ遊び(再現遊び)は、社会的経験の再現であり、縮図です。もし子どもたちが「ごっこ遊び」をしなかったら、社会性の獲得は覚束ないものなってしまうでしょう。例えば、買い物ごっこ、家族ごっこ、お医者さんごっこなどの様子を見ていると、そこでの子ども同士のやりとりは実に豊かで、あたかも実際に起きているかのようです。しかし実際に受診した時にしか体験できないとしたら、経験の量はほんの少ししかないはずです。ごっこ遊びは、限られた実体験を種にして、遊びの中でその体験を広げ、深め、発展させ、活用しているのです。その子どもは学んだこと、知ったことを話したがるし、色々な遊びで再現します。ある子は絵を描いたり、ある子は積み木で建造物を作ったり、そしてごっこ遊びになったりします。いずれの場合も表象活動、ブリコラージュしていることになるのです。

そう考えると、子どもの自由遊びは学んだことを復習しているとも言えます。再現することは学び直しであり、振り返りであり、勉強したことの復習をして知識を定着させていることになるのです。遊びは、学びであり、反芻であり、再現であり、復習にもなっているのです。遊びでありながら勉強の復習と同じだと思うと、もっと自由闊達に「ごっこ遊び」や「再現遊び」を楽しめるようにしてあげたいと思うのです。

青木尚哉さんのダンス公演を観て

2021/07/03

動作と演劇とダンスの境目って、どこなんだろう? 動きと静止を生むものは時間なのか光なのか? そんな思索に導くような刺激的な身体表現を観てきました。コンテンポラリー・ダンサー青木尚哉(あおき・なおや)さんが率いるダンスグループZer〇(ゼロ)の公演「Frasco!」のことです。暗闇から光が灯された瞬間から、観ている私の中に、色々な表象が動き出して、私の頭の中がフラスコの実験装置になったみたいに、色々な表象の化学反応が起きました。演じられたのは2作品。そして私の中に出来上がった化合物は、所作と速度が混ざり合ったものと、社会から視線だけを抜き出した動く身体標本のようなものでした。

演じた皆さんは、保育園で子どもたちにダンスを教えてくださっている方々です。昨年10月の「親子運動遊びの会」に来ていただいたので、ご存知の方も多いと思います。

(左が芝田和さん、右が木原萌花さん 昨年の運動会にて)

一つ目の作品「ひとごと」は、木原萌花(きはら・ももか)さんの振付です。そして、それを演じたのは青木さんと芝田和(しばた・いずみ)さん、もう一つの作品「Golconda」は坂田尚也(さかた・なおや)の振付・演出です。青木さん、芝田さんに常田萌絵さんも加わって、演劇のようなダンスを披露してくださいました。みなさんは、昨年2月から園児たちとの交流していただいています。

コンテンポラリーダンス、というと難しそうに聞こえるかもしれませんが、青木さんのダンスグループは、既存のダンスの要素を一旦解体して、身体そのものをテーマとした、全く新しい表現を再構築している、と言っていいのかもしれません。その活動分野は、舞踏に留まらず、音楽、映像、建築、医療、教育などに及びます。最後の教育、というのは小中学校や保育園にも活動の場が広がっています。千代田せいが保育園でやっていただいていることは、子どもが自由に体を動かして遊んでいる中に、子どもには、それとはあまり気づかれないように「ダンスのエッセンスが渾然と溶け込むように」楽しませてもらっていることでしょうか。

 

解体されているダンスのエレメントは、組み立て方によって、全く新しい創造になることを、今日は見せていただきました。この公演は昨日7月2日(金)から明日4日(日)まで3日間、小田急線・成城学園駅すぐの小劇場「アトリエ第Q芸術」で開かれています。興味ある方は、ぜひどうぞ。

<おまけ>

以下は私の頭の中で起きた印象の言葉によるスケッチです。パチパチと音を立てたり、光が走ったりしたのですが、それを言葉でお伝えするなんて、とてもできません。まして、どんな表現だったかということを、説明することなんてムリですから、結果、私の印象でしかありませんが、とにかく刺激的でした。ただ、これから観る方は、先に読まないでください。印象にネタバレはないはずですが、真っ白な状態の方がいいと思いますので。

一つ目の作品「ひとごと」。

開演すると会場は真っ暗になり、明かりがつくとまっすぐ立っている和さんと、うつ伏せに倒れている青木さんの姿が目に飛び込んできます。立っている和さんがバタンと上半身を崩す動きを見ていると、「あ、まるで操り人形のよう」と気づきます。見えない糸が背中や肘や膝を引き上げたり、急に緩めたりされているのですが、それだけでも「こんな体の動かし方ができるなんて!」と、体の柔らかさや敏捷さ、体幹の強さなど、日頃から身体をメンテして練習しているからこそできるんだなあと、まずそこに驚きました。

そのうち、その乱暴に操られる人形の動きが、正確に繰り返されていることに気づきます。最初はランダムに動いているのかと思ったら、違うんです、2度3度と繰り返されて初めて、そこにワンセットの動きの周期を発見します。すると、その形式に意味を見出したくなるから不思議です。さらに、人形の動きがだんだん早くなっていくのですが、あるタイミングからダンスのようになっていきます。その境目があるということは、私が持っているダンスの刷り込みイメージなのだなあと振り返り、でも身体の動きの多様な変化に見惚れてしまいます。

一方で、倒れていた青木さんが、ゆっくりと四つん這いで起き上がり、後ろ向きに椅子に座るのですが、それも上から吊るされている人形のように見えます。ところが、和さんの動きと違うのは、まるで普通の人のように振る舞います。劇が始まったのか、と思います。それはある意味で正しくて、青木さんがセリフを語り出すのです。「二つの出来事があって、それが一つになって・・」みたいなことを、客席に語りかけるようにも見えなくもなく。そのうちに、ボタンを押して移動して何かを手にして一旦躊躇して、引き出しから何か四角い枠状のものを取り出して水に浸して揺すって戻して蓋をして、クルリと移動してまた立ち上がり、そしてまた見えない空中のボタンを押して・・・を繰り返していくのですが、だんだん、それが速度をましていくのです。すると日常の動作が、ある地点から踊りのように見えてきます。加速されて早回しのフィルムに、サイボーグの自動人形が写っているかのよう。・・・・

二つ目の作品「Golconda」

坂田さんの振付・演出です。背を向けた4人がバラバラに生活しています。赤の他人なんでしょう。片目でみたり、足を触ったり、さすったり、踵を振り返ったり、いろんな仕草が切り取られ、空間が動く所作でできたコラージュになっていきます。所作同士の距離やバランスが面白いというか心地よいのです。しかし青木さんが手のひらにリンゴを乗せてゆっくりと空間を横切って歩き出すと、不意にそのリンゴが床に落ちて、音を立てて転がります。重力の所作まで加わって、人の動きの中に、自然の働きが違和感をもたらすのです。いつしか、個人が視線によってまとまっていくような予感を見るものに与えます。何によって集団はできるのでしょう。4人が着ている青白いシャツは、誰でもない、匿名の代名詞。でも助け合いながら生活している生活者たち。自己の軸が4人の軸になって連動して動き出すと、ソ連邦時代の映画のよう。社会には希望と絶望の間でできていて、その自立と共生が危うことを、立てても立てても崩れ落ちてしまうから、それでも、がむしゃらに支えようとする若き青年の痛ましさ。・・・古代から現在までの歴史を身体にしたらこうなるのかもしれないという、ダンスによる現代批評になっているのでした。シュールリアリズムの旗手だった同名の絵画がタイトルなので、私たちの無意識が何を語り出すか、その発光や発酵が面白いですよ。

カブトムシを手に乗せて

2021/07/02

6月下旬に土から出てきたカブトムシですが、わいらんすい(3〜5歳)の観察技術が向上しています。「手についている汚れがついちゃダメだから、手袋してからだよ」とか「引っ張ると痛いから棒に乗せてあげるんだよ」などと、教えてくれます。どの子も触りたくてしょうがないようで、手のひらに乗せて「ほら、見て」と嬉しそうです。

雄のツノの部分を摘んで、持っているときは自慢気です。じっとしていたり、のそのそ動き出したり、カブトムシの動きをじっと見つめながら、その感触を確かめています。棒の端まで来て、少し羽を広げようとすると、「あ、飛んじゃう」「逃げちゃうよ」「大丈夫だよ」「ダメだよ、飛んじゃう、飛んじゃう」「大丈夫だって、こっちに入れて」と、興奮する時もあるのですが、それもカブトムシへの愛着からでしょう。

こうして子どもたちは、カブトムシについて詳しくなっていきます。からだの表面に生毛のようなものがうっすらと生えていることや、足にトゲトゲがあって、それで「痛い」ってなることや、しがみついている時に無理にとろうとすると、引っかかって取れないこととか、色々なことを感じたり、気づいたり、試したりしています。棒から手にうつそうとしているのですが、なかなか思うようにいきません。上に登っていくので、棒の先に棒を継ぎ足してうつさせることに気づいている子もいました。知識を使って工夫しています。その過程で思考力が育まれているのです。

優しく手に乗せて、じっとしているカブトムシをまるでペットでも飼っているかのように、うっとりしている女子もいます。虫をとりたい、観たい、育てたい、触りたい、という関わりから、愛でたい、育てたい、大切にしたい・・と子どもたちの心も成長しているのですね。どうやったらいいのか、自分軸からカブトムシ軸へと関わり方が変化しています。よりよい生活を営もうとする学びに向かう力や人間性の育ちがみられます。こんな「生き物」との触れ合いを通して、いたわったり、大切にしたりする気持ちも育っているようです。

 

差し出された手に赤い色が点々と

2021/07/01

子どもが何かを気づいて、ちょうどそばにいた私にに「ほら、みて」って、差し出された手。「あ〜あ」と聞こえた、その時の声。ぐんぐんのKちゃんは何を私と共有したかったのでしょう。それはサインペンでお絵描きをした直後のことでした。「手についちゃったから、どうしよう?」のように見えるのですが、ちょっと違っていたような気がしたのです。

「お絵描き」といっても、まだ月齢21か月の赤ちゃんと呼んでもおかしくない子ですから、サインペン自体もどう持てばいいのかも試行錯誤といった感じです。「描く」ということも、なんとなくこうかな?と思いながら、いろんなことを試しています。紙の上に描くという前提もないので、テーブルやビニールクロスの上に、ペンを叩くように動かしたり、ペンと圧力の加減も知りません。紙の上に線らしきものが残ること、いろんな色があること、いろんなことが初めてかもしれません。

いつの間にか、赤い色だけが手についているところを見ると、赤が好きなだったのかな?と想像したりします。そして、それが手についたことも、面白い発見だったのではないでしょうか。だから「ほら、みて」というように、私に伝えたかったのかもしれません。すると、描かれた紙を持って「ほら、みて」と差し出されたら、ほとんどの大人は、きっと「あら、お絵描きしたのね。上手ねえ」なんて返事していたことでしょう。それが紙ではなく、たまたま手だったら、その手だって「あら、手にお絵描きできたのねえ」なんて返事してあげてもいいのかもしれませんね。私たちは、子どもの気づきや感動していることを、こうやって受け止めそこねていることがあるのかもしれません。

・・・

大人の思い込みを一旦外して、子どもの心の動きを想像してあげるためには、私たちの柔軟な発想が必要なようです。またそれは、見守る保育であり、保育者が行う養護(ケア)の働きだったり、子どもがモノをケアすることだったり、子どものアートの営みと同じであることを思い起こすことが大事だったのでした。

絵本の読み聞かせ「ケロケロきょうだい」「めっらもっきら どおん どん」

2021/06/30

物語のある生活には、同時に「想像力」が働く時間が増えていきます。教育のことが話題になるとき、創造力が求められることが多いのですが、実は、その前提にあるのは「想像力」の方なのです。そして、その想像力とは、言葉の定義からして「目に見えないものを思い浮かべることができる力」のことですから、それは子どもが得意とすることであって、どんな時にそれが起こっているかというと、物語の中で自由に心と体を動かしているような時なのです。そんな思いがあって、私は絵本の世界と時間を大切にしています。どんな読み聞かせ方がいいかとか、作者の意図がどうとか、そう言うことも大切なことは私も大学の授業で学生たちに説明しているのですが、しかし、いざ実践となると、そこは相手=子どもの実態があるわけで、ほとんどが定石通りにはなりません。

今日の絵本タイムは福音館書店の「こどものとも」から3冊を選んでみました。暑い夏を前に、池を探す冒険に出るカエル7人きょうだいのお話「ケロケロきょうだい」と、出鱈目な歌をうたうと、もんもんびゃっこ、しっかかもっかか、おたからまんちんのいる世界にワープしてしまう「めっきらもっきら どおんどん」です。どちらも、代表的な物語の特徴を踏まえており、こどもたちの心は、スーッと吸い込まれてしまうのでした。

人がどこからやってきて、どこへ行くのか、という人生のグレートクエッションは、それが永遠にわからない謎であるからこそ、人間の探究心をかき立ててやまないものです。いにしえの伝説にしても神話にしても、そして現代の絵本の物語にしても、底流にあるのはそうした謎をめぐる人生の何か、なのです。それを子どもたちは、子どもや動物の主人公になりきって、襲ってくる敵や妖怪や魔物との遭遇という形で、人生の暗喩を味わっているのです。

といった話は、こちらの醍醐味であって、子どもは単純にお話を楽しんでいます。でもその距離は大人が思っている以上に「近い」という感触をいつも感じるのは、面白い実践の味です。

第2回睡眠講座で思ったこと

2021/06/29

6月15日からスタートした今年度の睡眠講座ですが、今日6月29日(火)は2回目になります。参加いただいたのは6か月の赤ちゃんとちょうど1歳の赤ちゃんのお母さんお二人でした。参加された方は「睡眠の話は保健所などでも聞いたことのない話でしたし、睡眠のことはあまり意識したことはありませんでしたが、こんな話を聞けてよかったです」という感想を話してくださいました。いろんな悩みの解決に糸口が見えたと、喜んでいただけました。

これまでも同じような感想をたくさんお聞きしてきたので、どうにかして千代田保健所の事業として、出産前の子育てシリーズの一つとして「パパママになるための睡眠講座」(仮称)を実現させたいと考えています。

大人も子どもの世界最下位なのが、夜の睡眠時間。学力がちょっと下がるとあんなに大騒ぎするのに、若者のうつ病が増えると多くの方が心配するのに、コロナ自粛で若者の自殺が増えたといって特集番組をやるのに、これらの問題と睡眠や生活リズムの崩れが関係してないとでも思っているのかしらん??? なんて、思ってしまいます。

そうなんですね、繋がっていると思っている方が少ないんですよね。大学の先生や入試制度を考えている研究者も、政治家もお医者さんも、自殺予防活動を展開しているNPOの方々も。いえ「子どもの早寝早起きは大事」とは聞いたことはあるし、あるいは知っているのかもしれないし、いろんなことと関係してそうだと、薄々そうかな?と想像しているかもしれませんが、もしからしたら「エビデンスがない」と思い込んでいるからか、積極的に取り組まないということなのかもしれませんね。

これを書いている夜9時30分。世界的には子どもなら最も熟睡していてほしい時間です。寝入りに最も深く質の高い睡眠になっていることが、子どもも大人も大事なことだと言われています。果たして、どうでしょうか。まだ起きている子どもがいたとしたら、夢に誘うメラトニンが、あまり有効に働かない生活環境や生活リズムになっているかもしれません。朝日を浴びて午前中に体を動かすことや、寝る2時間前にはテレビは消して白い光を浴びないようにしたり、安心と満足の心理状態で、眠くなっていくような、生き物本来の生活リズムを保障してあげることが、難しい時代になっています。お母さん、お父さんだけでは、どう考えたらいいのか、どこから始めたらいいのか、わからないかもしれません。

子どもの人権条約(と私は訳すべきだと思うのですが)に批准している日本は、子どもの最善の利益を優先する政策の実施に躊躇すべきではないのです。これは国民的に議論してほしいテーマです。保育界では非認知的能力とか情動的スキルという言葉は浸透しました。同じように、保育における睡眠の質も早く常識化させたいものです。

わらべうた

2021/06/28

園だより7月号「巻頭言」より

見えないものだけど、存在するものが色々あります。心の動きもそうですが、子どもが何を体験しているのかということもそうですね。そして保育は環境を通して行うのですが、そのポイントとして、体験のなかに渾然と隠れたまま取り扱われることが大切なものが多いです。渾然と隠れたままのものとは、いろいろですが、それが子どもに気づかれることなく、しかし、大切なものが子どもの心と体に染み込んでいくような体験です。

たとえば、わらべうた。「いっぽんばし こちょこちょ」を、ぐんぐんの先生が楽しんでいました。

♪いっぽんばし こちょこちょ すべって たたいて つねって かいだん のぼって コチョコチョ

皆さんもやったことありますよね。赤ちゃんたちにやると大好きです。私がみていた時は、ぐんぐんの子たちが、「やって〜」と先生にせがんでいました。自分から横になって、手じゃなくて足も差し出していたから、可愛くて吹き出してしまいましたが。わいらんすいでも、きゅうりの収穫が始まった頃、♪きゅうりができた、〜しおふってパパパ〜さあ、食べよ〜 を楽しんでいました。大きなきゅうりの手触りや重み、味を体験しながらの遊びですから、それもまた豊かなイメージが頭の中で動いていて、とても楽しそうでした。一見、どれも他愛のない、ちょっとした遊びなんです。

こんなわらべうたですが、この遊びによって子どもたちに「渾然と隠れたまま伝わっていくもの」があります。それは、ミソラシだけでできた狭い音域、4拍子で歌いやすいリズム、日本語のイントネーション、高めのピッチといった音楽的要素を体感しています。わらべうたは、大人やお友達との「触れ合い遊び」でもあるのですが、心も体も同じイメージや感触を共有していく体験にもなっていて、意味や概念でつながるのではなく、感覚や気持ちでつながりあうことで、共感を支えています。わらべうたの触れ合い遊びは、共感する心の、その基礎みたいなところを、せっせと豊かに耕しているのです。心がふっくらと、柔らかく、優しい、包容力とユーモアが育つ心の土壌を作っているかのようです。

 

べつに先生も子どもも、「はい、わらべうたをやりましょう」なんて思っていません。ただ、平安時代や江戸時代に生まれた童(わらべ)の謡(うた)遊びは、その前の時代の日本書紀にも「童謡(わざうた)」と表記されていて、長い歴史があります。受け継がれてきたものには、時代を超えた普遍的な力が備わっているのでしょう。◯◯活動とか、◯◯遊びという名前のあるものではなく、生活に溶け込んだような見えない体験の中に、実に豊かな保育力が見出されるのです。

Zer〇の実験的レッスンの面白さ

2021/06/27

2人が手で持っている「物」は、いったい、どちらが持っている物なんだろう? 第三者が見ているだけでは、判然としないけど、やっている2人にとっては、はっきりとその差があるらしい・・・

こんな現代アーチストの練習風景を、リモートで公開しているライブを見せてもらいました。コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが主催している「Zer〇」(ゼロ)の公開レッスンです。昨年10月の千代田せいが保育園の運動会を始め、継続的に子どもたちにダンスを教えてくださっている方です。こんな貴重な機会はないので、自宅で見せてもらいました。場所はご存知、近所付き合いをさせていただいている海老原商店です。

間に入っている「物」は棒だったり、ボールだったり、傘だったりしたのですが、このセッションのダンス提案は、青木さんの元で、ダンス教室の講師をなさっている木原萌花さん。2人で持っている「物」は、実は、「自分が持っている」「相手が持っている」「相手と持っている」という3つの違いがあるのですが、その動きを2人の表現として眺めていると、一体、どんな違いがあるのかよくわかりません。

でも、明らかに「持っている」人の、物への支配権というかイニシアティブが働いているので、それを動かそうとする側は、跳ね返ってくる感触が全く変わってきます。自分の物と思うか、相手の物と思うか、それとも2人の共同物と思うかで、自己の意識や配慮が変わってきます。相手への配慮とか、返ってくる反応とかが全く変わってくるようです。

こんな感覚を実験しながら、クリエイティブな身体との対話と表現を繰り返しているエクササイズがあることを垣間見せてもらい、正直、静かな感動を覚えています。インプロビゼーション(即興的な表現)が生まれてくるプロセスが公開されているような、ダンスの実験室あるいは孵化装置の空間のようです。このような丁寧な身体との付き合い方を、子どもが経験できたら素敵だろうなと思いました。大人が「表現」を意図的に表すとしたら、子どもの場合は、思わず動き出す遊びの中の身体性になるのでしょう。

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