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園からのニュース

神田消防少年団に入ろう!

2021/06/16

神田消防少年団に入りませんかーー。今日、神田消防署からお知らせが届きました。小学生になると入ることができます。毎月1回、主に日曜日の午前中に、色々な活動を教えてもらえるのでお勧めです。防火・防災の知識や技術はもちろん、結索といってロープの結び方(5月)や、野外キャンプ(7月)、出初式への参加(1月)などもあり、一年を通じて多彩な活動が用意されています。指導するのは、消防署の方ですから、安全面もバッチリです。また生活リズムが崩れやすい日曜日の早起きにもなります。小学生になったら、の話ですが、

20210616 消防少年団の募集

 

第1回 睡眠講座「Mam’s Salon」開く

2021/06/15

今年度初めての睡眠講座「Mam’s Salon」を開きました。参加者は保育園の保護者の方と、地域の方の2名でしたが、これから連携をとっていきたい千代田区社会福祉協議会のアキバ分室の方もオブザーバー参加していただきました。この睡眠講座の内容は、日本人の多くの大人が知らないことが多いものです。しかも、何も知らないで子育てを始めてしまうと、当たり前と思ってやっていることが、実は違っていたということが結構あるのです。ぜひ、一度は聞いていただきたいと切に思います。詳しくは、このホームページのアーカイブ「睡眠講座」や「早寝早起き」をご覧ください。

疑った方がいい「当たり前」とは、たとえば「寝かしつけ」がそうかもしれません。子どもは赤ちゃんの頃から、自分で寝る力を持っており、なんとか寝たいと思って、むにゃむにゃいったり、指しゃぶりしたりしながら眠ることができます。あるいは寝ようとしているのです。そこを大抵の日本人の親は、誤解してかまってしまいます。このことは、なかなか理解してもらえない、最大のポイントかもしれませんね。今日の講座でも、最後にその話になりました。このテーマほど、「もっと早く聞きたかった」となる話なので、妊娠したらぜひ押さえておきたい子育てのポイントの一つのようです。

アキバ分室を見学してみて

2021/06/14

千代田区社会福祉協議会のアキバ分室を、睡眠講座の永持伸子さんと見学してきました。行ってきたのは先週11日の金曜日。目的はこの分室との連携です。散歩コースにしたり、この子育てひろばへ「親子遊びを打前」したり、社協主催の睡眠講座を開いてもらったり、地域の民生委員の方と交流したり、やりたいことはいっぱいです。その全てを語り「ぜひ一緒にやりましょう」となりました。

 

場所は万世橋の交差点を渡ったらすぐ。社協のフロアは6階で、そのベランダから眼下に中央線が走っています。まずはこの見晴らしを、子どもたちに体験させたいと思います。今日14日(月)から東京も梅雨に入りました。お出かけ先の一つになるといいですね。

「おとといの富士 あさってのブルーライト」展示は6/25まで

2021/06/13

昨日でも明日でもない間(あわい)の光景。そのもう一つの、別のアーティストによる作品群もまた、海老原商店に溶け込んでいるような展示になっていました。作者の林俊さんからは、かなり長い時間、作品の背景や意図などの説明を聞かせてもらいました。

こちらも秋山さんと同様にボンベが登場します。でも本物のボンベもあります。林さんは実家がガス屋さんだったそうで、幼少の頃から、ボンベを運ぶ台車に乗せてもらって遊んでいたそうな。ボンベとボンベがぶつかる音を毎日聞いて育った林少年は、それが運ばれ、管で繋がれ、ボンベの中身と使う場所とのつながり具合のようなものが作品のモチーフになっていった、のかもしれません。

林さんの話を聞いているうちに、私たちは誰もが自分と他者を隔てている境目を、無意識のうちに持つようになるが、それが身体の皮膚が境目であるという思い込みがどこから来たののだろう、と勝手なことを想像し始めてしまった。どうも人によってその境目は「扉のこちら側と向こう側」のような関係になっていて、その境目と感じるイメージも、時間を遡っていくと、かなり個人的な世界の深みにハマっていってしまいそうなイメージがわきおこってくる。

林さんには、その境目に美しさを感じるようで、ボンベが錆びてしまっている箇所だったり、朽ちて壊れた破片が落ちてしまったり、割れてしまったりしたものを、もう一度気持ちのいい「かたち」にコラージュしてしまう。作品は扉が壊れまた再生されている途上のようなあわいを、固定していました。というわけで、海老原商店そのものが、コラージュされるキャンパス自体になっているので、作品と展示会場の境目がわからない。そこが面白い。

昨年秋、歯科の山本先生にミニ講座を開いてもらった、1階の畳の和室が、床が剥がされて、まるで工事中かのような風景になっていたのですが、それが作品でした。林さんは、ステレオタイプ化された社会問題の「枠」ではなく、あくまでも個人的な実存の問題としての「枠」をモチーフにしているように感じました。

2階にあがると、壁に飾られたオブジェがしつらえてあって、それも壁と融合しているのですが、その美しさのままでいてほしい空間に仕上がっているのでした。

 

「おとといの富士 あさってのブルーライト」

2021/06/13

ここに「勿体」がある。

勿体とは、物体のことであり、物質の本質、物事のあるべき姿といった意味だったものから、それを損なうことを「勿体ない」というようになったし、一方で尊大なものや、大袈裟なものも意味するようになり、「勿体つける」という言い方もある。

という言葉の意味を踏まえて、この作品には「勿体」と書いてあるわけです。これは勿体です、と自己表示してあるのですが、形はボンベです。ガスボンベの中身がどんなガスかはわからないのですが、ガスですから見えません。でもその容器であるガスボンベに勿体と書いてあるということは、見えないガスを大事にしてね、という意味かな?と想像したりしていました。

すると、このボンベは全部、蜜蝋でできているというではありませんか。匂ってみると確かにロウの匂いがします。大事なのは中身じゃなくて、この蜜蝋でできた容器そのものの方にしか意識が向かわなくなりました。

それはそうです。それが作品なのですから。ペンケースのような形をしたカラフルな容器から、床の間のサイズを実測して作られた巨大な直方体にしても、すべて蜜蝋でできています。それだけでも圧巻です。

作品はあたかも、古民家の床や畳や棚に無造作に置かれているようでいながら、しばらくいると、ずしっとした人体のような重さを感じてしまうのは、柔らかな素肌のような鈍い光だからでしょう、海老原商店の空間と均衡関係をつくりながら、「そうか、勿体はこの海老原商店自体がキャンパスだと思えば、この蜜蝋は絵具の位置にあるのか」と気付くのです。

そう、この作品はオブジェでもスカルプチャーでもなく、絵画なんだそうです。

これを作成したアーティストの秋山珠理さんは、6月11日夕刻のトークタイムで、エキゾチックな雰囲気で語ってくださいました。

「作っているときは、肌も髪も蝋まみれになって」「よくある表現って、どうしても何か貼り付けている感じがあるけど、蜜蝋にはその境目がどこかわからない」「センセーショナルなものがないとアートたりえないとしたら」・・・

自身の口から語られる言葉を瞬間凍結させながら、何もないのかもしれないことを過去のものにしながらも保存される容器に、なぜか郷愁とエキゾチズムとエロティズムを古民家空間で表出させているのです。

そうか、だから今と昨日と明日がないのか。そんな鮮明な時間はここには似合わないから「おとといの富士 あさってのブルーライト」なんだろうか。このことに気づかないと、もったいないってことか。

自分のお昼寝を知る

2021/06/11

子どもが自立していくことを支えることが子育てです。保育園の「ねらい」にも、「支え合って生活するために、自立心を育て」(人間関係)ることが、大切にされています。その自立心ですが、自分で自分のことをよく知ることが基本になります。そんな自分が好きだ、自分をケアしよう、大切にしよう、そんな気持ちが育つことが、自分を大切にすることつながっていきます。自分のことを愛して大切にすることが、他人を大切にすることと共鳴しあっていくのです。

で、なんの話かというと、睡眠です。自分がどれくらい寝る必要があるのか、それに気づき、寝ることを望ましいものとして納得していくこと。前向きに受け入れていくこと、自分から寝ることに抵抗感を抱かないこと、そんな心もちを支えたくて、今週から始めたことがあります。それが、わいらんすい(3歳4歳5歳)で始めた「睡眠確認マグネット表」(からだをやすめる ぞーんひょう)です。

自分が寝る必要があるなら「おふとんでひるねをする」に、顔写真マグネットを移します。眠らなくても横になって心身を休める必要があるなら「しずかにごろごろしてすごす」に、移します。そして、眠る必要がない子は「しずかにえほんをよんですごす」に移します。起きていても、まだ活発に運動するようなことはしません。部分的には休息の時間でもあります。

このお昼寝ゾーンの表は、この3つを子どもが「選ぶ」というよりも、自分の状態がどうなのかを確認する、午睡へ気持ちを切り替えるきっかけにすることがねらいです。マグネットを具体的に動かすことで、意識の切り替えがスムーズになることを「支える」物的環境ツールです。

睡眠は夜の睡眠が本来のものです。少しわかりにくいかもしれませんが、昼間の午睡の取り方は、夜の睡眠の質を高めるためのものです。夜10〜11時間ぐらい、しっかり寝ることができているか、それに向けて午睡の在り方が、一人ひとり違います。決して足し算ではありません。「午睡は夜の睡眠の準備体操」と例えて言われることがあります。年齢で区切るということでもなくて、一人一人の発達、育ちの実態に応じて対応します。

朝7時に起きるなら夜8時に寝ないと11時間になりません。夜9時に寝るなら朝7時起床でやっと10時間です。夜10時だと9時間しか取れません。じゃあ、朝8時に起きればいいかというと、小学校ではすでに学校のいる時刻です。それまで朝食、排便を済ませておくことを考えると、小さいうちから遅くとも7時までの起床を習慣にしてあげないと、1時間の体内時計をずらすのはとても苦労します。

ただ個人差もあります。一律に当てはめるということもよくありません。その辺りも含めて、保護者のみまさんと話し合いながら、望ましい生活リズムを整えていってあげたいと思います。

三匹のやぎのがらがらどん

2021/06/09

水曜日の夕方は、園長の絵本タイム。今日9日はあの「三匹のやぎのがらがらどん」にしました。シンプルな内容ですが、3番目のがらがらどんがトロルを「こっぱみじんに」やってつけるという、あっけらかんとした強さを見事に描いた絵本です。用意していたのは、別の絵本だったのですが、午睡の頃から子どもたちの一緒に過ごしていて気が変わりました。もっと勇気づけられるような、シンプルなものがいいんじゃないかという直感からの変更です。

松岡享子さんは「単純明快な始まり、3度のくりかえし、クライマックス、大円団と、まるで図式通りと言ってよいほど、よく形の整ったノルウェーの昔話。話に一切無駄がなく、トロルとヤギの出会いは一回毎にサスペンスがあり、対決は勇壮・・」(『えほんのせかい こどものせかい』(文春文庫)と述べています。

このようなお話は、神話や伝承物語として、世界各地にあるわけですが、記録された歴史よりも長い人類の歴史とともにあるものなのでしょう。その意味を感じたいと思いながら、読んであげました。

今回から2グループに分けて、同じ内容を2回読みました。2回とも参加した子もいて「また、あれやりたい」と、がらがらどんごっこをリクエストされて終わりました。

生き物の不思議

2021/06/07

アリの巣をじっくり観察している子どもたちは、いろいろな気づきを教えてくれます。

自分の体よりも大きな石をくわえて運んでいる様子を「ほら、みて。あごでこんなに強いんだよ」と。

そのアゴをどうにかしてよく見ようとして、拡大鏡を当てて、覗き込んでいます。

また、アゲハ蝶になるのを楽しみ待っている子は「もうすぐかなあ」と、聞くのであと1週間ぐらいかな?と話しています。

私も同じようによく見たいものが見つかって、スマホのカメラを拡大鏡の代わりにして探しました。神宮司さんに教えてもらったのですが、玄関の稲の水の中に「ホウネンエビ」がいました。

小さな小さなビオロープができていたのです。卵が土の中にいたのでしょう。稲を植えた水の中が、居心地のいい場所になっているようです。

 

6月の最初の週を振り返る

2021/06/05

この日記を読んでくださっている方は、時々、週末の日記がその週の反省になっていることに気づかれていると思います。反省といっても「ごめんなさい」ではなくて、ああしたけど、本当はこうした方がよかったかなあ、とか、ああ言ってしまったけど、本当はこう言った方が良かったかなあ、とか反省しているわけです。それは週末に改めてやっているというよりも、その直後やその日に思ったり、感じたりしているのですが、それを改めて思い巡らす時間がやってくるのです。

疲れていると、それさえも億劫になってしまいます。反省も元気な時でないと人はできないものです。子どもが叱られて「反省しているの!」と言われることありますが、そんな時、子どもも反省していません。そう言われるから「はい」と言っているだけのことが多くて、本当の反省は、自分から「これこれこうだったから、これからはこうしなくっちゃ」決められた時です。ましてや気持ちが凹んでいる時は、できるものではありません。「だって、こうだったんだもん」が胸いっぱいだったり、思わず「イラッとしてやってしまった」自分への情けなさや、不甲斐なさや、怒られていること事態が心を硬くしてしまっていることもあります。

反省も前へ一歩進めて考えること、気持ちを自分で前へ動かすことですから、いい悪いの判断が「理解」できても、心と体が前向きによくしようと動き出すとは限りません。ちょっと脱線しますが、多くの人は心と体は別物だと思っているのですが、違います。多くの人は体を目に見える部分だと思っています。あるいは感じ取れる部分だと思っています。目に見えない部分や感じ取れない部分は、説明されないとそこも体だと思っていません。

心はみんな「ある」と思っているのですが、どこにあるのですか?と聞かれたら、まともに答えられる人はあまりいません。胸に手を当てたり、頭の中の脳だという人もいます。でもよく考えてみて欲しいのですが、私たちの心身は、私たちがデザインして作ったものではなくて、大いなる自然からの贈り物です。体も心も自然に属しているということを認めてもらえると思います。そしてその心身は、物として見えたり実感できる部分を「からだ」とよび、目に見えない心身の部分を「こころ」と区別してしまっているのです。本来は、精子と卵子が受精して受精卵が分裂を始めて以来ずっと、心身は同じ物であり、分かれていないものでした。

と、道草はここまでで、話に戻ってくると、反省して自分で考えも行動も動き出すには、この心身共々が一緒に動き出すことなのです。心の方だけを「理解」させて正しい行動をさせようとしても、からだの方が納得していない、ということが多いのです。からだの方というのは、カッとなりやすい、気が散る、落ち着きがない、寝不足である、睡眠リズムが乱れている、動物性タンパク質の過剰摂取が感情の不調をもたらしている・・・いろいろなトラブルを抱えていたりして、からだの方のコンデションが悪くて、心が憂鬱になったり、気分が滅入ってしまったり、我慢強さが発揮できなかったりします。

頭で理解できたからと言って、心身がバラバラだとうまくいかないのです。心身はもともと同じ物です。ちょうど、子どもが言葉を獲得する頃に、自分というものを認識できるようになっていくのですが、なぜが人間だけが自分を自分だと(客観視して)認識できる「自我」を持つので、こうやって私も反省ができるのです。

そして、それを精神というのですが、それが心だと勘違いしている人がとても多い。今思ったり、考えたりしていることは精神がやっているのですが、実際に鬱症状になったり、人に会いたくなかったり、人にあたり散らかしたり、世の中を恨んだり、理由もなく人生に焦ったりしているのは、本来は一体である心身の不調かもしれません。

目で見える体の方は、物に還元して治療を試みる近代医学(漢方も含む)に任せるとして、もう一つの目に見えない身体である心の方も、治療としてもメンタルケアが必要なのです。その二つがセットで健康であることが、人生に前向きな態度を生むことになるのでしょう。心の不調の方は、目に見えにくいので、発熱のような症状にならない限り、正しく受け止めてもらえにくいという事情があります。あたかも反抗的だとか、決まりを守らないとか、甘えているとか、誤った判断になってしまうこともありうるのです。

と、また脱線してしまったのですが、子どもの「心身=こころとからだ」が求めているものに感度よく傾聴しながら、大人は子どもにとって心の避難場所であり安全基地でありたいと思います。

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