保育参観は子どもを理解するという営みの一つです。
保育参観に限らず、毎日、私たちが子どもとの生活を描くのも、その一環でもあります。

ところで、どんな言葉づかいと枠組みで保育を描くかという、表現方法の選択は、どの「層」(あるいは相)に、どんな視点を持ち込んで描くかという判断と切り離せない気がします。私にはそう見えているという、「現象的間主観的世界」にとどまっているなら、共通の見方をだいたい共有しあえているので、話が通じ合うと思うのですが、描く方が、その背後にあるだろう「物自体」に迫りたいという衝動を強めれば、描く人の主観や思い込みが入りすぎて、それでは、誰にでも伝わる言葉になりにくくなります。
そこで大事なんだけど、どう表していけばいいのかわからないので、それをなんとか表せないかという可能性の追求を諦めてしまいがちです。そこに伝えたいことがあるんだけど、大抵は、書かない(書けない)で終わってしまうことも多くあります。
子どもたちは「その世界」に生きています。私たち大人も、その世界のでともに生きることを知っているから、それをもっとよく理解したいと願っています。そして、そこに一緒にいなかった保護者の方々に、その姿をなんとか伝えたいと私たちも努力します。子どもの住んでいる世界の外側にいる大人たちに伝えるために、なんとか通じ合う言葉のつらなりを発見しながら、その世界の意味に翻訳したいと願って。
でも、どうしても陳腐で型通りの話になってしまうことが避けられない。それを本気で乗り越えようとして伝えようとすると、多分、長編小説を書くことと同じようなことになるかもしれません。
そういう願いの先に、保育参観はあります。保育参観という、ちょっと錆びついた時代錯誤的な慣用句がいやなら、この言葉を刷新してみたい。子どもたちのワンダーランドへようこそ!みたいに。










