保育参観という、ちょっと遠くから自分の子どもに気づかれないように、自分お子さんの姿を、隠れてみてもらう、ということをやってもらっています。親の存在に気づくと、そちらに気が向いてしまい、やっていることができなくなってしまったり、普段の様子をみてもらうという目的が果たせなくなってしまうかもしれないからです。また参観のあと、出勤する場合もあって、お家に帰りたいと別れられなくなるかも、という心配もあったりするからです。
でも、見つからないように隠れて様子とみるということに、ちょっとした後ろめたさを感じることって、ありませんか? そばにいるのに、そのことを隠している私の存在のあり方についての、違和感のようなことです。

けっして騙しているわけではないけれども、覗き見をしているような後ろめたさを感じてしまう、といったこと。たとえば、大人の場合と比べるとどうでしょう。もし、そんなことを大人にしたら、極端かもしれませんが、刑事か探偵か、スパイか、ストーカーのような振る舞いと似ていないわけでもない、と。されている側の大人が知ったら、あまりいい気分ではないでしょう。どうして声をかけてくれないの? そんなこそこそして気味が悪い、とで思われるかもしれまえん。もちろん、子どもはそんなふうには思わないのですが、隠れてみているほうは、もしかすると、そういう不自然さを感じてしまうかもしれません。
そう考え出すと、こういう想像は、あまりいい感じがしなくなるのでやめますが、子どもなら許されるというのは、もしかすると、子どもの人権という視点から捉え直してみると、じっくりと考察してみてもいいことかもしれませんね。

それでも虚心坦懐に、子どもの姿を感じてもらいたい、という気持ちが私たちにはあります。親子の関係、兄弟の関係、家庭での関係のなかにはない、この園という空間のなかでの姿が、いかに家庭とは違うものか。今日もそういう話をいろいろなエピソードとして伝えあいました。
ところで、さきほど、先週、手袋に水をいれて凍らしたい、と言っていた年長さんがやってきて、冷蔵庫からそれを取り出して眺め、また元に戻して行きました。あるいは、また別の子が、今日は暑かったので屋上で遊んだ水遊びのなかで、欲しくなった容器として、ペットボトルを探しに来ました。事務所なら、あるかもしれないと思ったようです。
今日のできごとは確かに今日のことなのに、昨日のことも明日のことも、その姿の中には入ってできているから、回想でもあり予告編でもあるようなシーンを垣間見たように感じます。子どもが、この場所で過ごしている時間と空間をどのように言葉で切り取って意味付けすることが、ふさわしいことなのでしょう。










