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園長の日記

保育カンファレンスは動的な環境の調整のようなもの

2025/05/19

特定の子どもを選んで、じっくりと観察して、そのあとで話し合って保育の援助計画を修正しています。この話し合いを保育カンファレンスと読んでいますが、先ほどそれが終わりました。

子ども本人してみると、「きっと、こんな感じのことが無自覚に起きているのかもしれない」と想像しながら、支え方をああかな、こうかなと話し合います。だったらこんなふうしたら相互作用が変化するんじゃないか?とか、こんなふうに誘ったりすると、うまくいくんじゃないだろうか? こんなものや空間にしたらどうかとか。・・・

保育の話し合いでやっていることは、それぞれの子どもにとって、周りからの「呼びかけ」のあり方と、その子が「どう応答しているか」という関係を分析していることになっていそうです。そこで気づいたことがこういうことだろうから、こう思わず動いたのだとしたら、ここに空隙があって、越えられなかったからかもしれない、とか。

たとえば車の運転にたとえると、入ってくる視界情報と路面とスピードの関係を考えながら操縦している主体(子ども)は運転手です。当てずっぽうに運転する子どもの運転技術の度合いの違いが個性や発達の度合いで、保育とは、その車体がどう走りたがっているか、またそのスキルを想像しながら(この子はこうだね)、視界情報や路面環境などを整えているのに似ているかもしれません。

空間を止まったり走ったり常に動いている車の動的な動向を環境の方からうまく走らせていくような感じ。

運転手にとって、環境からの呼びかけ方は「聴覚からよりも視覚からのものがよさそうだ」とか、「声かけが先だと抵抗するから、そっと見えるように置いておいて、何気なく始まってしまった方がいいだろう」とか。そのカーブでは一時停止の標識は確認しにくいねとか。標識が多すぎて判別しずらそうだから、他の標識を隠してしまったほうがいいみたい、とか。運転しやすい道路空間のデザインを考える感じです。

子どもの姿が車の運転ぶりだとすると、この道路空間は「いつも走っているから、こうだ」と見通して安心できると好きなことに集中できる(車を快適に運転できる)が、予想外のものから呼びかけられたり、時間的にちょっと先に始まることの見通しがもてないと不安に感じたり、しているのかもしれない。急に「いやだ〜」になってしまったりするのは、どうして?その話し合いから、こんなアナロジーに似た感触を話し合いました。

本人にしてみたら、たとえば気持ちよく運転しているときに急に視界が遮られて、思わず急ブレーキを踏んでしまうようなことかもしれない。きっとこうなるとパターン化されているならできるが、未知の世界への入っていくときは、何かの既知からのつながりのある未知でないと不安なのだろうか?あるいは、「やりたいことがあってもできないことからのもどかしさ」がそうさせているのではないか?とか。

たとえは車の運転が相応しいかどうかわかりません。波乗りサーファーや川下りのカヌーのようなものでもいいかもしれません。いずれにしても動的な動きのある空間の例えがいいような気がしました。

それにしても私たちは本当に知らないことには不安を覚えるものです。その既知と未知はどうつながっているのだろう。そのつながり具合を工夫しているのが保育のようにも思えます。楽しい、面白いと思えるように世界への通路を作っているのが保育なのだとしたら、既存の世界と未知の世界の繋ぎ方として、楽しく運転していたら、新しい世界にはっていったというような形で運転をサポートすることが保育なのでしょうか。その微妙な調整の仕方を話し合っているのが保育カンファレンスのように感じました。

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