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園長の日記

子どもの「体験の地図」を作りたい

2021/09/09

全園児がそれぞれの体験をしています。その体験がどのようになっているのか、全てを把握している人はこの世に誰もいません。もし、これを一人ずつ追跡、把握して、そこで起きている体験を記録しておく仕組みができたら、それはノーベル賞ものなのですが、というより原理的に不可能だろうと思います。というのも、カメラで全て記録したとしても、それは外から見える姿、行動の奇跡でしかなく、体験の記録にはなりません。体験は子どもの内面で起きていることだからです。心の話だからです。(まあ、脳とか身体も含まれますが)

では、体験を記録することはできないのでしょうか?その前に「体験」とはなんでしょうか?辞書的には色々なことが書いてあるのですが、私が定義するなら「実際に身をもって行った短い1回の出来事」とでもいっていいでしょう。保育体験、職場体験、戦争体験のように使います。一方、似た言葉に「経験」がありますが、こちらは体験の時間が長くて、その間に生じた心情や考えや知識やスキルなどが生まれ蓄積されていることを想定しています。人生経験、キャリアの中の保育士の経験、留学経験がある・・などと使います。

すると、子どもの育ちや成長の話は、「いい経験になったね」という言葉で表されるような、一連の体験の積み重ねがモノを言うことになるのでしょう。今日は散歩に行っていつもはできない砂いじりで遊んだという「体験」があったとしたら、それは久しぶりの戸外遊びで、心も体も開放されたような気持ちのいい「経験」になりましたと言えるようなモノだったかどうか。お泊まり会という一回の「体験」が、なんだか一晩だけなのに、一回り成長したような「経験」になった、と言われるように。

子どもの姿をカメラで記録したからといって、その体験がどんな意味を持つものか、機械が自動的に説明してくれることはないでしょう。例えば「今日は美倉橋公園の砂場で遊びました。滑り台に乗りました。〜もしました。・・・・」。それらは誰であろうと、見ればわかるようなことでしかありません。でも、それだから何だというのでしょう? そこから先が知りたいし、そこに発達や成長や心の動きや個々の「100の言葉」がある、その意味を知りたいに決まっています。

今日のぐんぐんの子どもたちが「カブトムシを土に返した体験」は、ずっと一緒にいたカブトムシとの別れから生まれる心情の育ちを感じさせる描写になっています。こんなにいい「経験」になっているということが、よくわかりますよね。

つまり、子どもが何をどのように「経験しているか」は、私たちがその姿から何かを解釈しているから、意味が生じていることになります。私がKくんやFちゃんが「すごく言葉が上手になったなあ」と思うのは(解釈するのは)、それまでの過去の姿を知っているからであり、一緒に生活してきているから、「わあ、今日こんなこと言ったよ」と感激するのです。成長を読み取るのです。もし、一緒に生活していない人がそれをみても、そのように感じることはできません。例えば、もし今日実習生がその姿を見たとしても、それまでの経緯を知らないので、それが初めての姿だとは気づくことはできません。

このようなことを考えると、保育というのは、今の子どもの姿から、どんなことを「体験」させていったら、意味のある「経験」になっていくのかを計画して実施に移すことだと言えるでしょう。

同じ種類の遊びをずっとやっている子どもは、「そのテーマの深い経験になっている」ことがよくあります。反対に今日は、実習生の2回目の反省会があったのですが、ある子どもの姿を語り合っていたら、「どうやったら、こっちの遊びも体験できるようにしてあげられるか」の話になりました。

実習生は、うちの先生たちの「関わり方の豊かさ」に気づいたそうです。保育者の役割はいろいろですが、遊びの発展に関する専門性としては、例えば子どもが思わずやりたがるような空間やモノを用意する。その時、その子が好きなごっこ運動遊びができそうな空間に変える。やりたがるような遊びを先生が提案して一緒にモデルになって遊び、子ども同士で遊べるようになったらフェイドアウトしていく。このようなそのバリエーションが豊かであるほど、子どもの今に合わせた応用ができます。

ちなみに、子どもが没頭しているその世界に先生も好奇心をもって一緒に探究できること。それも大切な資質になるでしょう。それなので、先生は子どもが興味を持つだろう世界に、一緒に興味を持てるように、先生は色々なものに興味や関心をもって、好奇心が向かう世界が広い方がいいのです。

話を戻します。子どもの体験がつながっていくと経験に変わっていきます。その過程で生み出されるものの中に、かけがえのない子どもの表現が刻まれていくのです。そこを丁寧に汲み取りたい。そのためには、どんな「経験」になるのが望ましいのかを考えることができる教育学者としての先生が必要なり、また一人ひとりの「体験」から生まれる「表象」に形に与えていく遊びを生み出す感覚に優れた先生も必要になります。

レッジョ・エミリア市はそのために、それぞれの園に教育学の専門家であるペタゴジスタとアートの専門家であるアトリエリスタを配置しました。前者は社会構成主義的な発達を保障できる専門家。後者は一人一人のウェルビーングを豊かにできる専門家です。

千代田せいが保育園では、子どもの「経験」の幅を広げていくために、色々な教育資源(リソース)を蜘蛛の巣のように繋いて、体験マップを作ってみたいと考えています。そのマップのどこをどのように選んで歩いていくのかは子どもの自由です。でも歩いているうちに、すごい「経験」が生まれていた!みたいなことを構想しています。保護者の皆さんにも、その体験マップのリソースになっていただきたいのです。どんな体験の地図ができるか、その地図はどのように表現したらいいのか、皆さんと考えていきたい思います。

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