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園長の日記

見る力と学びの関係

2020/06/28

写真は歯科検診(6月25日)

子どもが何を考えて、どうしたいと思っているのか、それを言葉で人に表現できるようになる前と後で、本人の気持ちの整理の仕方はどう変わるのだろう。言葉にしなくても、表情や仕草や行動で伝わっていたのに、それだけでは伝わらない内容を心に抱えていることが、子どもにはあります。もちろん、大人もありますが。その思いが自分だけの世界で「〜というわけでした、マル」と完結しているならともかく、まあ、人間である限り、そんなことはあまりなく、誰かにわかってもらいたいという気持ちがあるものです。

これは人間だけが強く持つものなのですが、世界と自分を表すための道具としての記号、つまり表象を持つことができるようになった人間は、言葉もその表象の1つですが、その表象の世界の中に入り込んで、学び始めるということが起きます。没頭して遊んでいる時がそうです。また、昨日の日記で紹介したMちゃんが、モビールを触ってみたことで、それまでの「それ」とは全く異なる対象として「見る」ようになった時、モビールをじっとみているだけでも、それまでの「見る」とは意味が全く違う学びが生じていることになります。もし、また触りたいな、という思いが強ければ、それを見るたびに自分との感情的な対話も生じて、いつになるかわからないけど待つ、という能動的な「待つ力」を育む機会になっていくでしょう。見ることが学びにもなるのです。

その条件は、繰り返しますが、自分の世界の中に位置づくことです。その対象がMちゃんにとってのモビールのように、あるいは、ちっちのブログにあるようにAちゃんやYくんが「見た」くるくるチャイムのように、私もやってみたい、僕もやってみたいという興味の対象となっているような場合です。反対に節分に鬼が来たり、フェイスシールドをつけた歯医者さんが来て怖い体験をしたり、嫌な体験をしても、その対象は、避けたいものとして、その子の世界の中に位置づくわけで、これも「見る」こと、観察すること(思い出すことも含めて)が学びになっていくのです。どうやったら避けられるか、考える、みたいに。反対に、少し大きくなると怖いもの見たさ、というのもありますが。

そこに言葉が獲得されていくと、その自己の内面世界を「言葉」で再表現できるようになるわけですから、世界と他者と自分の3つの関係が「串刺しになって」(汐見俊幸)いく学びが、ダイナミックに展開されていくのです。面白ですね。子どもがそばにいることの面白さ、子育ての醍醐味は、その様相を大人が直に知ることができることにあります。子育ての楽しさを知るには、子どもの世界に私たちが入り込むことに限りますね。

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