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園長の日記

11月を振り返りつつ、実践の方向性を確認する

2019/12/01

毎日、こうして日記を書いていて、「これでいいのかなあ」と、ふと思うことがあります。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)がいろんな意味で社会問題になっているからです。そうした報道に接すると私自身が「たまにはスマホやパソコンを使わない日を決めようかな」と思う自分がいるからです。確かに新聞記者をしていた30年ぐらい前は、ポケベルがなると公衆電話からデスクと連絡を取っていた時代がありました。紙の原稿用紙に黄色いビックのボールペンで原稿を書いていた時代でした。

11月に取らせていただいたアンケートで、35家庭のうちホームページをみている方が「ほぼ毎日」が14人(締め切り後の回収も含めて)、「週に数回」が6人いらしゃっいました。多くの方がホームページをみてくださっています。私はそれに応えたいという思いもありますし、アンケートの結果だけではありませんが、最近は慣れてきたこともあるのか、担任の先生たちによるクラスのブログの更新頻度も上がっています。私も毎日、お伝えしたいことが山ほど出てくるので、つい、日記なのにいろいろ書いてしまいます。ただ、クラスブログの量が多い時は、私の日記は少な目にしようと思っています。でも保育園で何が起きているのか、その意味について解説することを歓迎していただいていることがよくわかったので、それは続けていきたいと思います。

急いてみて欲しいことは「園からのニュース」に書きますので、日記は暇の時に時間つぶしで楽しんでくださいませ。

◆11月を振り返ると・・・

中旬から一気に寒くなって、雨が多かったので外遊びがあまりできませんでした。でも室内での運動遊びは活発です。

またお楽しみ会に向けて、乳児は朝のご挨拶や絵本や運動遊びを少し意識してやっています。それに加えて、2歳のにこにこ組以上は劇遊びや、楽器遊びを楽しんでいます。

また11月は保育士養成校との連携や、地域向けの子育て支援として保育所体験や睡眠講座も始めました。

そのうち、短大の先生、大学の先生、高校の先生と話す機会がありましたが、29日にお会いした忍岡高校の家庭科の先生がおっしゃっていた話が印象に残っています。その報告と感想を少しします。

◆高校生が保育士になりたいと思った時に・・

その話というのは、<いま高校生の間で、保育者になるには、ピアノが弾けて、素話ができることなどが条件のような空気ができてしまっている>といった話です。私は長年、日本の保育士養成課程のあり方に関わってきたので、現場を含め養成校の課題、特に実習のあり方などを検討してきました。でも高校段階でも課題があることは知っていましたが、こんなに身近なところで、違和感を持っている家庭科の先生とお会いできたのです。

◆高校生に本来の専門性とは違うイメージが伝わって・・

保育者の専門性は、環境を通した教育、自発的な活動としての遊びをいかに創り出すかにあるのであって、主体は子どもなのです。ところが、今の家庭科の教科書や保育検定の試験対策が、「子どもが一斉に受け身的にしか体験することしかできない表面的な技術」を優先的に高校生に教えるので、それが保育者の専門性だと誤解されかねない状況を作り上げてしまっています。

例えば、音楽領域ではピアノ演奏で伴奏しながら大きな声で歌えること、絵画・制作領域では折り紙が折れてポスターが作れること(私は知らなかったのですが、折り紙には動物、植物、その他など種類に分けられていて。「カエルはどの種類ですか」という引っ掛け問題があり、それに「動物」だと答えるとバツになるというのです。カエルは両生類ですが、動物ですよね!)、言語領域では3分間で素話ができること・・・こんな表面的な技術がまず必要だと高校生に教えてしまうことは、罪作りなことだと思います。子どもの発達を理解したり、子どもが環境に働きかけることや、遊びの重要性などは、ほとんど問題にされていないのですから。

◆保育士資格を取るための試験について

私も保育士の資格を持っているのですが、試験を受けた時のことを思い出しました。確かにこの3領域の実技試験を受けました。バイエルを練習したりしてました。私が試験を受けた時はピアノ伴奏曲が「おつかいありさん」でした。「♩ あんまりいそいで ごっつんこ〜」で始まる、あれです。絵画・制作は「動物のイラストを使った運動会のポスター」作り、そして素話は、なんでも自由に覚えておいていいので、私の子どもが好きだた絵本の話をしました。3分で話さないといけないので何度も練習したことを覚えています。

確かに、こうした技術は必要かもしれません。それなら海外のように楽器はギターの方が子どもの方を見ながら伴奏して歌いやすいですし(今の実技試験はギターやアコーディオンでもよくなりました)、絵画制作は先生が作るのではなくて子どもがもっと幅広い制作遊びができる環境づくりを問うすべきですし、素話も大切ですが、記憶には限界があるので、いろんな絵本や紙芝居を読んであげたりすることが現実的です。

◆あくまでも保育は子どもが自立することを目指す

もっと重要なのは、大人がやってあげるのではなく、子どもが主体的に関わって遊ぶことの方がいいのです。楽器は子どもが触れて親しむ、歌は伴奏も手拍子で子どもがやってもいいし、絵は子どもが描くものであり、劇は鑑賞するのもいいですが、子どもが劇遊びをすることなどを主にすべきです。

海外の有名な保育室を見ると、子どもがペープサートや指人形を演じる子どもサイズの舞台や枠が用意されています。子ども用のイーゼルや子どもが使いこなして演じて遊ぶための衣装ラックが置かれています。子どもと大人のどっちが主役か。発想が逆なんです。

この点をどうにかしないと、アクティブラーニング(遊び)になりません。いつまでたっても、言われたことがやれる子どもが良いとされ、自分でやろうとする主体的な青年が育たないと思います。

◆どうしたらいいのか、突破口はどこに?

その家庭科の先生は、「これでいいのかな」という違和感を感じていました。話を伺っていて、また同じ課題だなと思いました。つまり今、社会で話題になっている問題の解決策を考えていくと「そうした方がいいとはわかっているんだけど、変えるきっかけがわからないし、そうすると、今までそれをやっていた人たちに迷惑がかかるし。実際には、どうしたらいいかわからない」という、誰もが気づいているあの「気づき」です。

余談ですが、分野は違いますがマスコミの第一線の政治部記者も、この「気づき」の話をしています。この問題は社会が抱え込んでしまっているアジア的閉塞感(SNS上の誹謗中傷、指殺人、いじめによる自殺、正論を言い続けることが空気を読まない異端児とされる風潮)が社会心理的基盤を作ってしまっていることとつながっています。

◆今の時代を俯瞰的に見てみよう

社会学によると、このパラダイム転換は1980年代に起きていると分析されているのですが(近代は1980年代に終わり、ポスト近代に入っている)、日本をはじめとするアジアは、どうもその主体性の転換ができていないのかもしれません。外山滋比古さんも昔『思考の整理学』などで同じことを言っています。大人が引っ張って飛ばすグライダー式教育はお終いにしましょう、と。ずいぶん昔ですけれども。

昨日読んでいた雑誌に次のような文章がありました。

「社会の仕組み全体が20世紀後半のままなんですよ。だからみんなの根本のマインドセットも昔のまま。人口構成が変わって、高齢者が増えましたが、年を取っても皆元気になっている。・・(中略)終身雇用と住宅ローンのセットをはじめとして、色々なビジネスモデルは制度が終わっているのに、それを変えられない。端から見たら、我が国の状況は滑稽ですよ」(川端康夫・アクティブビジョン(株)代表取締役)

「(社会心理学者の故)山岸俊男氏の説によると、日本人は先進各国の中で最もパブリックマインドが薄く、自分の所属集団の中でのポジション取りにしか関心がない。自分のポジションさえ維持されば、ゲームの結果として全体がどうなるのか、ということに関心を寄せないという、非常に重要な特徴があり・・・」(社会学者の宮台真司・首都大学東京教授)

◆実践あるのみ・・理念の実現に向けて

というわけで、こうした理念に基づくと、保育園の保育方法も、行事のあり方も変えないといけないと思います。出口のない話は気分が良くないので、じゃあ、こうしよう、という話をしていくつもりです。でも「気づき」がないと、変えようという動機も持ちようがありませんよね。もうしばらく、その「気づき」報告を続けさせていただきます。(また、ちょっと長くなってしまったなあ。申し訳ありません)

 

 

 

 

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