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園長の日記

満たされた心がスタートに立ちに行く

2019/11/26

タイトルで迷った挙句、書き出しで補うことにしました。「満たされて初めてスタートが目に入る」と、どっちにしようかなと迷った理由が今日の話です。

今日も見学がありました。昨日の見学者とはちがって、入園先を探しているお母さんたち6人です。いま来年4月の入園先を見学されている方たちがいっぱいです。千代田せいが保育園がわずかした募集できない定員であることは分かっていて、そのわずかな枠を求めて、いくつもの園を見学されています。

見学が済んだ後で、数人の方と直接相談を受けていて、子育ての話になりました。「さきほど、園長先生はやりたい遊びが最後までできないと、欲求不満になるという話がありましたが、途中でやめさせないといけないことって、ありますよね。それでも大丈夫ですか」とおっしゃるのです。

短い時間だったので私は「そういうことももちろんあります。誰でも望んでいることがいつも満たされるわけではないから、また続けよう、でもいいし、こんどにしようでもいいんです。自分から、こうしようって、見通しというか、あと何回やったらおしまいにしようとか自分が気の済むような、あと〇〇とか、そのつぎ〇〇を思えるようになるといいですね」といった話をしました。

「あと何回でおしまいにする」とか「おうちに帰ったらあれをやりたいから、帰りのお支度しよう」とか、自分でちょっと先の計画というか目当てを想像できると、自発性にスイッチが入りやすくなります。

「あと何回」と約束する、という方法のほかに「砂時計」も結構いいアイテムです。1分とか3分の砂時計を用意して、自分で選んで砂時計をひっくり返す。楽しいから大抵やります。砂が落ちていくのも見えて、少なくなっていく砂が自分に与えられた「残された時間」だと目に見えるので自分の気持ちをコントロールする時間の練習にもなります。(ただし最初は、砂時計で十分遊んでからでないとダメですが。また落としても割れないような物にしてください)

あるいは、食事の前に手を洗わせたいなら、「〇〇ちゃん、シャボン(ソープ)の香いはイチゴかバナナか、どっちにする?」と、選ぶという行動を誘うという手もあります。Aという行動をさせたいときに、ちょくせつAをするように言うのではなく、Aに選択肢Bも用意して、「どっちがいい?」とやるわけです。食べてほしい料理も、少しのと普通のと多めのと、ちゃんと用意してみるのもいいでしょう。少しのでも自分から選べば、その時点で気持ちは前向きですから、食べてみようかな、になります。

人間は食欲、睡眠欲、排せつ、保温(暑い、寒い)、運動などの「動物」としての生理的欲求に突き動かされています。それらが満たされないと、落ち着きません。空腹で、寝不足で、トイレに行きたくて、部屋が寒くて、ずっとじっとしてないといけない、なんていうのは、もはや拷問であり、人権侵害です。さらに、人間は「社会的動物」ですから、愛されないと死にますし、認めてもらわないと気が狂いますし、仲間がいないと病気になりますし、やりたいことが成し遂げられないとむなしくなります。こうした愛情、承認、所属、達成などの社会的欲求が満たされないと、情緒は安定しません。

この二つの生理的欲求や社会的欲求を適切に満たし、生命の保持と情緒の安定を図ることが、保育における養護(ケア)です。それが満たされると、自ずと次の欲求が表れて、今度はこうしたい!と心が自然と動き出すものです。満たされて初めて次にやりたいことのスタート地点に立てるのです。あるいは、その山に登ってみないと、そこからの景色は見えません。その景色が見えて初めて、「こんどはあっちにいってみよう」というスタート地点が目に入ってくるのです。

見方を変えると、ほんとうにやりたいことではない場合、無理にやらされている場合は、その代わりに別のことをやり始めます。どっちにしても逃避です。やりたくもないのに「やってほめられる」ことを続けていると、本当にやりたいことを無意識に抑圧してしまい、自分のやりたいことがわからずに、自分に不適応を起こしてしまいます。

親の気持ちに沿って自分の欲求を隠してしまう「いい子」ほど危険だといわれるゆえんです。親の愛情をゲットする代わりに、自分の望みを消しゴムで消してしまうことになったのです。事件を起こしている青少年の成育歴が時々、本になったりしていますが、それらをみると、社会的欲求のなかで、愛情や承認の欲求と引き換えに、達成欲求を売り渡してしまっているケースが結構あります。

私が「幸せの3条件」の最初に、「自分のやりたいことがやれること」を掲げているのは、そうした理由もあるからです。自己実現は根の深~い人間の社会的欲求だと思っていた方がいいでしょう。保育目標「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」の最初が「自分らしく」であるのは、最初でなければならないのです。

 

 

 

 

 

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