昨日の続きです。両手で靴下のつま先部分をびよーんと引っ張って、取ろうとするのですが、かなり力を込めて上へ引いても、なかなか脱げません。靴下がかかとに引っかかっていることは理解できていないようです。それくらい子どもの認識はおおざっぱなのです。かかとを外してあげると、スポーンと勢いよく外れました。子どもの理解というのはこんな感じなのです。ここに物とのかかわりのなかで、靴下を脱ぐということだけでも、それが達成できるかかわり方を学んでおり、引っ張れば脱げるのだということも理解していきます。
ところで、こんなことがまだ難しいという発達でありながら(そこに面白さと注意が向けばもっと変わってくるのかもしれませんが)、もっとはるかに難しいことをできるようになっていることを思うとその落差に驚くほかはありません。はるかに難しいことというのは、私たち大人の話す言葉が通じているということです。うまれて数か月の赤ちゃんが大人の話す言葉を聞いてその意味を理解していくためには、音声と意味の相互関係が把握されているということになります、言い換えると概念の分析と音声の分析をやっていることになるのです。こんな難しいことができるのに、靴を脱いだり靴下を脱いだりする方法の理解と行為がおぼつかないというのですから、ヒトは動物と違って身に付けることの順番がかなり違うようです。身体的な行為よりもヒューマンコンタクトがとれる行為の方を優先するようにできているように見えます。
そこで大人はちょっと混乱してしまいます。確かに全体的には未熟でありながら、学び手としては有能であるという赤ちゃん像がよく取り沙汰されるからです。私もそうですが、そのあたりがうまくまだ十分に整理されていないのかもしれません。
Yさんと私の間には心地よい感情の交流が確かにあって、愉快な気持ちを共有し、そういうことがお互いの間に信頼関係を作っています。それはまだまだ漠然としたもので空想的なものなのですが。それでも、まだまだできないことがたくさんあって、それを支えてあげながらできた!という心地よい体験を積み重ねていることになります。