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園長の日記

表象を迂回しない知覚と行為の繋がりについて

2023/12/16

この話は土曜日の午後の園長の「うたた寝の夢」みたいなものです。少年が時計を分解して元に戻せなくなった悪夢みたいな。真面目に読まないでくださいね。

このところ、子どもたちはどうして模倣するんだろう?と考えています。すると私が考えていることは、心理学でもよく検討されていることなんだ、ということに気づき、また新たな見え方が生じて面白がっています。例えば発達心理学者の森口佑介さんが書かれた本『おさなごころを科学する 進化する乳幼児観』を読んでいたら、こんなフレーズに出会いました。ピアジェの「感覚運動期」第六段階を説明するくだりです。

「・・・そして模倣は行為による表象だと言えますが、これが内化されることにより、思考による表象へと変遷していきます。かくして身体や知覚を通した直接的な知的活動から、表象を通した間接的な知的活動へと質的な変化を遂げていくのです」

 私がおっ、と思ったのは「模倣は行為による表象だと言えますが」と、サラリと書いてあるところです。何かを真似をすることが、その模倣行為そのものが表象になっていると考えてもいいんだというわけです。そのことは、偶然にも今月12月の園だより巻頭言に書いたことと似た見方です。

そこでは表象を心動かされたことを再現する行為全般に広げてみたらどうか、という提案でした。それでもいいとなるなら、子どもの遊びや活動は表象活動であり、それが言葉や記号操作などに置き換わっていくことによって遊びや活動が減って大人になっていくという見方ができるのではないだろうか。ふとそんなふうに思えてきたのです。

つまり、それは私には「なぜ人間の場合は表象(文化)が拡大するのか」という問いと同種に思えるのです。と言うのは、動物には表象行為がほとんどありません。霊長類と人間の、その分岐点をマイケル・トマセロが指差しなどの共同注意に見出したのですが、意図を模倣したり共有することが人間たらしめ、そのラチェット効果によって、文化文明が進展しているのだと考えられています。

生態心理学は、知覚と行為をある意味で一体的に捉えるのですが、そのシステムの道の途上のどこかで、人間は表象という分かれ道を作り出しているのかも知れません。それが迂回して行為につながる道と、限りなく表象の彼方へ拡散していく道をつくっているように思えてきたのです。

 こんなことを考えていると、まるで分解しかけたアナログ時計を元通りに戻せなくなりそうな概念の混乱に襲われるので、また使い慣れた道具一式(デカルト的に二元論的なもの)を使って考えることに戻ってきてしまうのです。そんなことを言ったり来たり。まさにメカニズムを考えてしまうのですが、私たちが「生きていること」はメカニズムではなく、複雑な関係的な生成過程そのものなのでしょう。

ただ、模倣や表象という言葉にとらわれず、私たち生きているものとしてやっていること、あるいはやってきたことを、率直に表現し直す方が、実態に即して物事を捉えることができるのだろうと直感しています。が、しかし、それもまた使い慣れた概念道具一式をまえに、一筋縄ではいかないのです。

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