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園長の日記

チュンちゃん、うるさいからだよね〜

2023/02/13

セキセイインコの「チュンちゃん」が、Hさん(5歳)の手からおやつを啄んでいます。私がしゃがんで一緒に見ていたら、バタバタと鳥籠の中を飛び回ります。どうしたのかな?と私が呟くと「うるさいからだよね」と、隣にいたお友だちのMさん(5歳9ヶ月)に語りかけます。二人は毎日のように、餌をあげたり、水をくみかえてあげたり、鳥の世話をよくしています。チュンちゃんは周りがうるさいのがイヤでバタバタと飛ぶのだと考えています。きっと、そうだよね〜と、お友だちとその考えを共有しているようです。

また年長のグループはお別れ遠足でどこにいくのか、話し合っています。今朝もかなり長い時間、目的地と移動手段を考えていました。候補は前日のいちご狩りの後に寄ったグリーンパーク、水族館、木場公園などの候補が挙がっていたそうで、そこへの移動手段もバスで行くか、電車で行くか、いろんな意見や考えが交わされていました。

ところで、「考える力」とは、どういうことを指すのだろうと、それこそ考えます。私は言葉を使った仕事をしてきたので、言葉は道具のようなものなのですが、もし言葉がなかったら考えること自体が無理だろうと考えていました。しかし、保育の仕事を始めるようになって、考えるということが、言葉もさることながら、領域「環境」の視点で捉えることが大切だったり、そのそも言葉の獲得には「人間関係」の中で伝えたり、わかりたいという「ことばの前のことば」の過程を抜きに考えられないことなどを知るようになって、ますます、考えるとは?ということを考えるようになっています。

さらに、赤ちゃんが好きな人がいることが、接触を求めることになり、意思疎通の感情と動機を産んでいるとも言えます。ヒューマンコンタクトが、考えることの駆動装置のようでさえあります。また、聞く力の土台となる聴覚機能や、話す力の土台となる構音機能を持っていなくても、手話のように映像的に考えることができる人も現にいます。その時の思考にはどんな差が生じるのだろうと想像してしまいます。語彙の差が生む思考の差はあるはずです。関わりが先にあって、色々なことがそこから始まっていく。領域というよりも関わりの視点から乳児が考えていることも捉えるようにすることも学びました。

二人の小鳥の観察とお世話から気づいたことが、「うるさいと飛び回る」という原因と結果で語らえていると見るなら「ほう、よく気づいたね=考えたね」と私は言いたくなります。子どもたちの思考力という言い方をするなら、そのようなものも深まってきています。ものの性質や特徴に気づき、というのは、考えることと同じく認知の一部であり「わかる」と言っていいのでしょう。不正確だったり未熟だったりしますから、芽生えとして、でしょうけれども。

そして「気づく」ということの大事さに「気づき」ます。私たちは何かに気づかないでも生きているし、考えることはできてしまうのですが、もしあることに気づいていたら、そうは考えていなかった、それは選択しなかったと考え直すことがあります。つまり知識の有無は明らかに、思考と行動に影響を与えます。それは小さい子どもでもあるでしょう。

ここからは、全く余談ですが、さらに「自由」との関係で考えると、私は自由に考えていたことにはならないと気づきます。どこまでが自分が自由にやっているといえるのか、わからないことに気づくのです。それぐらい、自由に生きるということは、簡単なことに思えなくなります。自由だと考えている、その背景の因果関係をとり出すことは不可能に近いほど、思考を生み出す背景にあるものは、まるで地下茎的に広がっている根のように、何がどう関わって「縁(えにし)」を作ってきたのかは、ほぼ不可能だからです。樹木の枝分かれのように追いかけることはできず、どのような線もひける複雑系の中に自由は放り出されているようなものだと思えてきます。

その過程に「考える」という現象が起きているようにも見えます。あたかも自分の意思で始めたかのように錯覚しているのかもしれません。例えば自分の思考の記憶を辿っていっても、2歳前後の記憶までしか再生できず、それ以前の記憶は忘却の彼方に見えなくなっていくのですから、思考の始まりも見つけることはできません。

かなり話が脱線しましたが、このように色々なこととの相互関係の変化そのものが、気づきや考えに影響を与えていることがあると気づくと、その差を突き止めたくなり、生態学的なものの考え方を学びながら、発達に引きつけていくための考え方を探るようになっていきます。そこに保育の認識学のようなものを引き寄せたくなるのですが、そこまで遡ってみると、大きな要因になっていそうなのは、身近なもの、そして人との出会い。人間関係の中での「自己」の引き受け方のスタイルや美学なのかもしれないと、また私の思考も拡散してしまいます。

またしても、そこにも形と方法が先にあって、そこに自分の居心地を探していく。そこで感情も合わさって溢れ出てくるものの一つが思考なのかもしれません。自由の概念もそうした動向とは切り離せない気がします。

ですから私にとって自分に静かに向かい合う時間をもつことは、とても大事なもののように感じてきました。でも子育て中は、忙しくて、それができにくいものでした。今でも忙しすぎるのですが。これは勝手な思いつきでしかありませんが、自分のことを振り返ると、せめて親になる前に、物事を考えるという営みが自分作りに欠かせず、それに気づいた子どもたちがじっくりとそれを考える時間を持てるようにしてあげたい。その子どもにとって必要な関係、発達のシステムを整えてあげるという意味で。さらに子育て中の大人にも、たっぷりとそうした時間は必要です。

 

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