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園長の日記

学びからの逃走としての不登校が希求する学びとは

2022/10/27

自覚的な学びと無自覚な学びという時の「学び」は、学びの本質とは違うんじゃないか、そう思うことがあります。自覚してやっている学びにもいくつか種類があって、本質的な学びになっているものと、そうでないものがあると感じます。また、それと同じように無自覚な学びといわれる遊びにも、本質的な学びとそうでないものがありそうです。

遊びの中の学びを無自覚と呼び、学校の勉強を自覚的な学びと呼び分けてしまうと、何か表層的で、本質的な問いが埋もれてしまうのではないか、そんな懸念も伴うのですが的外れでしょうか。その問いかけが不登校にも現れている気がします。学校という自覚的な学びからの無自覚の逃走(さらにいうと、逃走という形での警鐘あるいは警告)、そんな側面もあるでしょう。また一方で、保育園にも、やらさていることは無自覚でも、本当の自由遊びでないことから不満を募らせてイライラを何かにぶつける園児もいるでしょう。

歴史的にみても学校制度ができてちょうど100年経ったころ、つまり近代の学校制度の目的が機能しなくなったポスト近代に差し掛かる1980年代、一斉画一的教育の「無効宣言」のように不登校(当初は登校拒否といい、病気扱いする風潮さえあった)という現象が社会問題化されました。その当時、すでに「母を亡くした日本人」「父を亡くした日本人」を語っていた渡辺寛さんは「不登校という言葉で語られ、国がその数をカウントするとき、すでにことの本質からずれてしまっている」と嘆いておられたのを思いだします。かけがえのない命。何度もそのことを繰り返されていました。数の増減で事の軽重を感じるのはおかしい。ずっと前から「学びからの逃走」(佐藤学)は起きてきたのです。でも同じ言説がずっと繰り返されている気がします。

本人にとって本質的な学びの状況になっているかどうかが、極めて個別具体的に問われているのであって、数値が多くても少なくても、本質的な学びから疎外されている子どもたちにとって必要なものは、いま流行の言葉で言えば、個別最適な学びと協働的な学び、それを両立させる社会への参画の道筋です。より良い社会への希望を繋ぐための「学びに向かう力」です。これはアクティブラーニングを言い換えたものなので、心がアクティブになるためには、学びの場を既存の学校の「かたち」のままのマイナーチェンジでは、時代に立ち向かうことできなくなってきているのでしょう。既存のパブリックスクールが社会の変革の先頭を走ることができなくなってしまったのです。

では、改めて本質的な学びとは何だろう?自覚的だろうと無自覚だろうと、勉強だろうと遊びだろうと、そこが問われているのに違いないのです。たとえば、一つの切り口ですが、私は人間が社会脳の生物だとしたら、デファクトスタンダードとなっているその脳にフィットするような環境を用意すること。人間の脳と身体は環境との間に創発的(エマージェント)な形で学び誘発するわけですから、そんな学びが成立する学校(それはもはやスクールではなく、ラウンジやフォーラムやワークステーションだったりしないとなりません)に変える必要があるのでしょう。

不登校の話題で登場するテーマに心に還元するな、というものがあります。そもそも人の精神は環境=社会と創発的に発達しているので、人と人の間の精神機能が個人内の精神機能に反映されていると考える必要があって(ヴィゴツキー)、だからこそ、精神と自我は社会とセットで考える社会心理学が教育には必要とされてきました。工藤勇一さんがずっと主張されてきた「心の教育で解決できない」というのは、このような意味に近いはずです。

本質的な学びの原型は、乳児が教えてくれます。今日の0歳児クラスのブログには、今日も描かれているし、子ども同士の関係の中での模倣(じっと見つめて自分でやってみる)ことから「まねぶ」し「まなぶ」になっている姿をじっくりと観察できます。この真似て学ぶというプロセスが本質的な学びの本来であって、学校教育の場にそれを創り出す必要があるのでしょう。だとしたら、児童、生徒、学生に本気で真似したい、学びたいと思わせるものをいかに用意したらいいのだろう。

先日の「親子運動遊びの会」をご覧いただいた大学生から、とても嬉しい感想をいただきました。

ちょと長くなってしまいましたが、紹介します。

「自由で好奇心のままにはしゃぐ子供たちがとても輝いていて、素敵な空間だなと心から感じました。ワークの間も、楽器に関心を持つ子もいればとにかく走り回っている子もいましたが、それはそれで心惹かれるものがそちらに向いているのだなと思いました。決して「自由」を履き違えている訳ではなく、優しく温かい自由な空間が素敵でした。私はよくある普通の運動会を経験してきました。当時運動会に対して嫌な気持ちはありませんでしたが、もし自分がこのような運動会であったり保育園での日々を過ごしていたらあらゆる物の考え方が最初から違っただろうという気がしました。それは具体的にどのようなことだろうと考えると、「自ら物事に関心を持ち、好奇心を持って歩み進める力」かなと思いました。それも自ら積極的に探しに行くのではなく、自然と関心が向き、興味を持って主体的に取り組める力なのかなと感じました。これは確実にその人の人生を豊かにする力になると思いますし、得ようと思って得られる力ではないと思います。今回見学できてとても学びになりました。ありがとうございました。」

学びのエマージェントな動向を感じ取っていただいています。嬉しいですね。

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