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園長の日記

人生の目的、と保育の目的

2022/01/11

(鏡開き。その後、おしるこでいただきました・・)

このところ、ずっと同じテーマを探求しています。今日11日(火)は、午前中に藤森統括園長の講義を受け、午後は私が研修会の講師を務めました。いずれも保育の質をめぐる研修会ですが、行き着くところは、結局、子どもたちの「発達の保障」です。私たち保育者は、何のために毎日「それ」をやっているのか?と聞かれたら、子どもたちの発達を保障しようと、「それ」をしているのです、と答えます。でも、やっている「それ」がそう簡単ではありません。まるで「人生の目的」を探しているかのように、広く、深い。わたしたちは、どこから来て、いったい、どこへ向かうのか?その往還の謎を、謎のまま携えていながら、わたしたち大人から子どもたちへ、何かをバトンタッチしているように、見えます。そんな感慨が押し寄せてくるのは、新しい年を跨いだからでしょうか、あるいは、新しく成人した若人を祝ったからでしょうか。

生まれた時と死ぬ時の記憶を、永遠に持つことができない私たちは、つまり経験はできても、その意味を振り返ることが禁じられている私たちの「生」は、どこからきて、どこへ向かうのか、という問いに対して、自分の経験として語ることができません。それは、どんなに「発達」しても、到達することのできない「向こう側」ということになります。私が往還の謎と呼んでいるもののことですが、それはすべての人に分け隔てなく与えられている人生のテーマの一つです。意識していようがいまいが、すべての人に必ず訪れるテーマです。この人生の謎を前にした時、国が示す保育の目標やねらいに対して「はい、そうですか、わかりました」と、そう簡単に納得できるものではありません。そういう目標にした根拠はどこにあるのか、誰がどうやって決めたのか、その議論の経緯はどんなものだったのか? 実はこの探求も一筋縄ではいきません。

それなら、公文書成立の経緯に頼らずに、どこに「保育の起源」を訊ねたらいのか、ということになるのですが、一つは私たちの過去の保育のありように学ぶことができます。平成、昭和、大正、明治、江戸時代と遡っていくと、子育ての歴史的特徴が見えてくるからです。3歳児神話が生まれた時期や、共同保育が核家族に変遷していく過程がわかってきます。今日の藤森先生の話は、哲学者ジョン・ロックの人間観にまで遡りました。人は白紙(タブラ・ラサ)で生まれてくるという、あの白紙論の時代の教育観は、赤ちゃんは何の能力もない、何も知らない白紙なので、すべて教えてあげないといけない、という考えになってしまいます。しかし、もちろん現代の子ども観はそうではなく、生まれながらにして環境に能動的に働きかける有能な存在であることがはっきりしています。どこから私たちが来たのかわかりませんが、どんな力を持って生まれてくるのかは、だいぶわかるようになってきました。

こうやって、私たちの生きている時間、つまり平均寿命の80年とか、せいぜい長くても100年ぐらいの人生の中で、どんなことが「発達を保障すること」になりうるのか、少しだけスタートラインが見えたに過ぎないのかもしれません。日本は教育基本法の第一条の「教育の目的」に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあり、その第二条に、その目的を達成するために「5つの目標」が掲げてあります。その5つの中に、25項目ほどのキーワードが詰め込まれています。どの国も、法治国家は国民に対する方針をもつに至っています。今日の研修会で私が例に挙げたのは、ニュージーランドの保育指針「テ・ファリキ」で、それには5つのテーマを保育の目標に掲げてあります。それは幸福(ウェルビーング)、所属、コミュニケーション、参画、貢献です。

このようにして、近代の国民国家は、私たちに対して「どう生きるか」あるいは「どう育てるか」という人生の目的や目標の一側面を、示していることになります。それは紛れもなく、個人のことと、集団である社会(人間関係)のことを、両方を生きる存在として、私たちが何を大切にするべきか、という価値観がはっきりと示されているのです。教育基本法の第二条に登場するキーワードは、常に私たちに生き方を問います。なるほど、と腑に落ちるまで、その価値観を吟味していく過程が、私たちには必要です。その価値観を選んだという当事者意識が、私たちにはないからです。今日は神饌としての「鏡餅」をいただきました。伝統と文化を尊重し、生命を尊び、自然を大切にし、真理を求める態度を養い、豊かな情操を培う・・こんな価値観が「鏡開き」の背景に隠れているのだとしたら、私たちが往還の謎を謎として大切にしてきた先人の思いを「鏡開き」に見出すこともできるのでしょう。

往還の謎は謎として、ともかく発達を保障する、その保育の営みに、もう少し目鼻立ちをつけて、くっきりとさせたくて、わたしたちは今の時代にふさわしい価値観を見極めようとしていることになります。教育の目的には「社会の形成者」というビック・キーワードもありますが、現代はそこに「持続可能な」社会の形成者、と修飾しなければならなくなりました。こちらは、多くの人が腑に落ちるものになりました。

 

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