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園長の日記

「ヒロシマ」の日に感じる思い

2021/08/06

ヒトは生物なので、色々な気持ちを持っています。外からの刺激を視覚や聴覚などの五感を通じて感じるもの(外受容感覚)と、たとえば「ああ、お腹いっぱい!しあわせ!」と感じるもの(内受容感覚)などがあります。子どもとふれあい遊びをやっていると、肌と肌を触れ合わせて、接触する遊びには、この二つが融合しているような手応えを覚えます。

木曜日の朝遊び。「ハンバーガー作ってください」と私が一番下のパンになると、ハンバーグが2枚3枚と乗っかってきて、「ダブルバーバーできました」「もぐもぐもぐ、ごちそうさま〜」とやって遊びました。子ども同士が身体的な接触を求めているのは明らかですが、ある仕掛け=遊びの環境を用意しなければ、意外とそれが生まれません。身体的接触がなくては、ヒトの脳は育たないのですが、現代の子育ては、その経験が家庭でも地域でも少なくなってきたと言われています。

親が子どもを産んでも、育てるのは村中の人たちが協力して共同保育をずっとやってきたヒトは、現代でいう保育園のような場所をずっと必要としてきたのですが、いつの間にか、共同保育の場としての大家族が喪失して核家族になり、少子化なのに虐待が増え続け、子育てが苦しいものになってしまいました。不自然な子育ての仕組みができてしまいました。ヒトの子どもが満たしたがっている欲求に丁寧に耳を傾ければ、深いところにあるエモーション(情動=大脳周辺系から生まれる感情)が聞こえてきます。

その深いところで満たしたがっている感情の強力さは、オリンピックを見ていても感じます。

約20万年前にアフリカで生まれたホモ・サピエンスが世界中に散らばって独自の進化を遂げ、亜熱帯気候に変化してきた東京に205もの国と地域が集まって、スポーツという人類が発明した非日常の競技の祭典「オリンピック」が明日で終わります。これを見ていると、どうしてヒトは力や技や美の極限や限界を競うことに、こんなに熱中できるんだろうと考えてしまいます。やるヒトも見るヒトも「競う」ことがこんなに好きな生き物は他にはいません。ここには大きな謎があります。やはりヒトは心理的に「戦う」ことを満たしたがっていて、それをスポーツという文化形式に転換して昇華しているのでしょうか?

そこで何が満たされいるのかというと、勝てば喜びや達成感という高揚感であり、負ければ悔しさや後悔や失望感を味わいます。その質は普通の生活の中では得られないものです。毎年ではなく四年に一回しかないという頻度も大事です。毎年やっていたら、希少性がありません。しかも、スポーツには一つの法則があります。どんな競技や種目も、そこには全く同じプロセスがあるのですが、それは目標を作ってそれに向かって努力して達成するというプロセスです。ルールや評価の基準があらかじめ決まっていて、その枠の中で、訓練や鍛錬を積み重ねなければ成し遂げることができないプロセスです。

競技を終えたアスリートたちが、「今どんな気持ちですか」「結果をどう受け止めていますか」と聞かれて、奥深いところから湧き上がってくるエモーションに、言葉で意味を付与していきます。物語の形式に変換しながら、喜びも悔しさも1人ではできななかったことに感謝するという概念に昇華させていくアスリートたち。ここにも共同保育で創られてきた共感力、他者の気持ちを想像できるメンタライジングの力を感じざるを得ません。

このプロセスがあるので、日常や平凡では得られない、特別なエモーション(情動)が生まれるのでしょう。それが実践者だけではなく、それを見る人までにも伝染し、マスメディアと通じて拡大され、増幅されて伝わっていきます。このような文化装置が巨大になればなるほど、その感染力を止めることは難しいでしょう。

このことは、無理と思い込まされていることも可能だと考え直すことにつながります。今日6日は「ヒロシマ」の願いを忘れない日だったのですが、人類がオリンピックという、これだけの文化装置を作り上げることができるのなら、本気でコロナと戦ったり、核兵器の所持や利用を禁止するためへ、政治のエネルギーを注ぐことぐらいできそうなものなのですが、そうした叡智を政治が発揮できないのは、どこかで私たちが「できない」と思い込まされているからかもしれません。アスリートたちの言葉を信じたり、勇気をもらえるのなら、原爆被害者の方々の戦いからも希望と勇気をもらえるはずなのです。

 

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