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園長の日記

月にのぼる者

2021/01/18

今朝、年長組のJ君が事務室にやってきて「園長先生、将棋やろう」というので3回ほど指しました。びっくりしたのは12月に初めたばかりの将棋を、もう立派に指しこなしていたのです。全てコマの動きを覚え、三手先(自分が指す手の後で、相手がきっとこう守るだろう)を考えています。大したものです。子どもの上達は早い。この学習速度は大人はかないません。こうして文化的実践力を身につけていくことは「豊かさ」に他ならないでしょう。将棋に限らず碁でも、チェスでもオセロでも構いません。体操でも英語でもバイオリンでも習字でも算盤でも、その文化的な共有資源につながっていくことは、その人が豊かになっていくことと言えます。

この遊びや保育の話を、昨日の話と繋げてみましょう。

豊かな保育とは何かを考えるヒントが、マルクスのいう「富」の考え方にありました。マルクスは富とは空気や水や公園や図書館やコミュニケーション能力などの例を挙げ、全てはお金にならない社会的な富であるとしました。自然の豊かさもそうでしょう。人間的豊かさも入れていいのでしょう。人が自然界のものを取り入れて、つまり食べたり飲んだり息をしたりして生きているわけですが、その結果がまた自然に戻っていくサイクルがあります。そのやり取りの過程に「お金」は介在しません。しかし市場(マーケット)が成立すると、なんでも「商品」に変わっていき、お金で手に入れることができるようになったのが近現代です。

富と商品は本来、別のものだということです。空気はまだ商品になっていません。水はすでに商品になってしまいました。なんでも商品になってくると、それを「買える」お金をたくさん持っている富豪が「豊かな人」だという錯覚に陥ります。本来の「富」は、お金で買えないものがたくさんあるのですが、それを手に入れようとする時に、お金で買うということで手に入れようとする態度に違和感を感じる原因はここにあります。富と商品の混同が生じているのです。

昨日17日のNHK「麒麟がくる」第41回「月にもぼる者」には、この「富は金に変えれない話」の例がたくさん出ていているように見えて興味が尽きませんでした。松永秀明が命の次に大切にしていた茶道具「平蜘蛛」を、光秀から譲られた織田信長が「なんとも厄介な平蜘蛛じゃなあ。いずれ今井宗久にでも申し付け、金に変えさせよう」と言い放つ場面。予想だにしなかった趣旨返しに光秀が驚愕しているのは、平蜘蛛を持つ者は「誇り高く、志を失わず、心美しき者であるべき」という富の話だったのですが、それを商品を扱うかのようにしたからです。

皆さんは空気が商品になったらどうしますか?それは困ると思いませんか。でもすでに土地は商品(不動産)になって久しいですし、水もペットボトルで買う経済にすっかり慣れてしまっています。地球資源がなくなれば、まだ誰のものでもない月も新しい植民地となるのでしょう、21世紀の帝国主義争奪戦がすでに始まっています。戦国時代はまだ、月を手に入れる話は寓話でしたが、今は現実になってしまいました。月も商品になる日が近いのです。昔から言われてきた「月に手を出すな」を言い換えると、「月を商品にするな」だったのですね。月を見て歌を詠んでいる豊かさの方が、本物の「富」ではないでしょうか。

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