保育の良しあしを決める基準のひとつに、間違いなくあると思うのは「一人ひとりの子どもと、毎日心を通わせているか」というものです。そこに大事なポイントがあるように思います。これには「つながっている手ごたえ」があります。このつながり具合は一人ひとりの子どもによって全く違います。このつながりが、しっかりしていると感じることと、保育が見えてくる感触は重なり合っています。一口に「子ども理解」というと、なにか対象化されている感じがするのですが、そうではありません。やはり通い合いなのです。気持ちや心の通いあいです。
このことは乳児の三つのかかわりの視点の一つにもなっていますが、これはその後の年齢になっても必須だと思います。このことは就学してからはどうなっていくのでしょう。担任との関係に引き継がれていくのでしょうか。私の個人的な小学校の記憶に頼ると、それがあった先生のことはよく覚えています。学んだことは忘れていても思い出すのはそういう場面のエピソードです。思い出になっているこからいいことだとはいえないかもしれませんが、やはり大事なことのような気がします。
保育園では何人もの子どもたちと毎日それがあります。その通わせ方の違いが楽しいし、それぞれの子どもが愛おしい。困っていると助けてあげたいし、こうしてほしいというとそうしてあげたい。きょうも私の手を引いて連れていきたいところに一緒にいくと見せてくれる世界があって、たとえばそれはお気に入りの水筒に描かれている「パウ・パトロール」のことだったり、濃いピンク色の水中眼鏡のことだったりします。その世界はまさにその子にとっての「お気に入り」の世界であり、他人に伝えたいこと、わかちあいたいことなのです。
その通い合いは、子供と大人との関係とは違うかもしれませんが、同じようなつながり具合が、子ども同士のなかに、その関係の網の目のように張り巡らされていることでしょう。ただ安定して静的に動かないものではなく、個々のつながり具合に応じてダイナミックに動いているものです。
その網の目は、複雑につながりあっていて、大人もその一端に入り込んで初めて、子どもの中に張り巡らされている網の目に気づくのです。子どもの世界はここにあるのか、と初めて気づくことになるような感覚を覚えます。心のうちに誘ってくれる関係が子どもとの間できたとき、子どもが息づいている世界に入り込めるのだろうと思います。
子どもの世界の中に起きている事とはそういうことであって、それを子どもに説明させるのは難しいことでしょう。だから子供が住んでいる世界とは、大人の方がその世界に迫る努力をしなければならず、心を許してもらえるとその世界を開示してくれるようなものなのです。