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園長の日記

子ども主体の保育・・というけれど

2021/11/08

いい歯の日(11月8日)の今日、大人の歯へ生え変わる年長さんたちの、ぐらつく前歯を「ほら、みて」と見せにくる子たちと接しながら、子どもが自分自身の体の変化を分かち合う共同体が、ここの生活なんだな、と妙に感じ入った瞬間がありました。人が「主体的に生きる」とは、自分は自分だけど、自分は自分だけじゃない、という感覚をしっかり持つことも、大事なことなのでしょう。

子ども主体の保育について、説明する機会が今日は2回、午前と午後にありました。午前は見学に来た桜美林大学の3年生に、午後は千代田区が主催したリモートによる園長会です。この主体性という言葉は、わかったような、わからないような、実に扱いに困る言葉なのですが、保育の質や大人の価値観と密接に関わる言葉なので、一度はきちんと分析して理解した方がいい言葉だと思います。

まず「子ども主体の保育」というと、一般的には「子どもを中心にした保育」、とか「子どもを主人公にした保育」、などと言い換えられるような意味が多い気がします。

実際の保育場面では「子ども主体の活動にする」とか、「もっと主体的な遊びを取り入れる」などとも使われます。この場合は、「子どもが自発的である」とか、「自主的に自ら取り組んでいる」とか、「子どもの興味や関心に基づく活動になっている」、そういった意味で使われています。

ところで、日本語は外来語を訳した時と、しばらく経って、日常的に使われるようになるまでに、その意味がずいぶん変化してしまいます。この主体性という言葉も、本来の意味からずいぶんずれてしまった言葉のように感じます。

では、本来の意味はどうだったのでしょうか。言葉には、反対の言葉と並べてみることで、その意味がはっきりすることがあります。例えば自立と自律はよく似た言葉ですが、全く意味が異なります。いずれも子どもの成長の姿として大事なことですが、英語で考えるとはっきりします。自立の反対は依存です。自律の反対は他律です。自分の力でしっかり立つということと、人に言われなくても自分で自分の行動を律するということでは、かなり意味が違うことがわかります。

これと同じように、主体性の反対を考えると、本来の意味がはっきりします。主体の反対は客体です。文法で例えると主語と目的語ぐらい違います。人を主体として扱うのか客体として扱うのか。子どもの主体としてみるのか、客体としてみるのか。そう考えてみたとき、これからの保育について「子ども主体の保育を大切にします」と言ったとしたら、それまでは「子どもを客体として保育をしていました」と言っていることになるのかもしれません。

「大人が子どもを客体としてみる」ということが、もし「大人が主体で、子どもを客体としてみていました」という意味になるのなら、ちょっと極端な言い方をすると、それまでの保育は「子どもとは何かを教える対象」であったり、「指示して動かす対象である」という保育になっていたのかもしれません。

ちなみに、ちょっと脇道にそれますが、この「子ども客体論」に基づく偏見はたくさんあって、それを紹介すると、「大人は成熟していて子どもは未熟な存在である」、「大人はあることに長けていて、子どもは何かを身に付けさせなければならない存在である」、「大人は優れていて子どもは劣った存在である」、「大人が一人前なら子どもは半人前である」・・・・このような子ども観は、また至る所で見られます。

そうではなく、「子ども主体の保育」を本気で実現させようとするなら、子どもを客体として扱わない、保育の対象として扱わない、という意味にまで発展していきます。子どもも大人も主体者であり、同じ人間の主体者として、ともに生活を作り上げる主人公である。実際のところ、子どもは自ら環境に働きかけて、色々なことを学び取っています。子どもは「有能な学び手」であり、「小さな科学者」であり、一人の生活者、一人の市民として何事にしても自ら意思決定する存在であると尊重されていくのです。

当園でいう子ども像の「自分らしさ」とは、この主体性のことです。そして「意欲的で」というのは、主体性の性質です。だからこそ「思いやりのある子ども」は、他者の主体性も尊重できるような主体になりましょう、ということです。やりたいことを自分で決めて、やりたいことをやれるようにしますが、それは自分だけではなく、他者のそれとも両立するような形で(共生社会)ということになります。

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