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2023年 7月

美味しかった七夕のカップゼリー

2023/07/07

七夕会は所どころ、入園見学の方と一緒に見ました。子どもは楽しかったことや面白かったことを再現させたがります。それは実際に「もいっかい」とやることになることもあるのですが、たいていは再現遊びになります。

今日は行事食だったので、いつもよりもちょっと凝ったメニューだったのですが、夕方の自由遊びの時間に、今日のおやつのカップゼリーを制作している子がいました。ブルーハワイ色のゼリーには炭酸も入っていて、食べるとプチプチ弾ける清涼感も味わえました。

そんなときに、「子どもはスキルを学びたがっている!」と強く感じます。こういうのを作りたいというイメージがはっきりしているときに、とくにそうなります。どうやったらカップゼリーが作れるか。その4歳児の女の子は、その味や美しさに心奪われているのでしょう、どうしても作りたいという熱意が伝わってきます。実物と同じ透明なカップに、青いゼリーを入れるのですが、過去にソフトクリームでやったことがあるらしく、テーパータオルをクシャクシャにして丸くすると、青色の折り紙で包み、その丸くなったぜリーをカップに押し込みます。

その上に黄色い紙を星形に切って(そこは私が手伝いましたが)セロテープでくっつけました。ほとんど自分でできたのですが、出来栄えに納得しているようで、うれしそういです。ところが実物の写真とくらべて何か違うと気づきました。白いクリームが抜けていたのです。またすぐに星を外して白い紙の上に載せなおしました。お迎えに来た母親にもその制作物をみせ、展示食ケースに入っている実物を親子でみていました。

私は模倣というのは人間の本質的なところに働く何かだと思うのですが、心動かされた世界と出会い、その魅力をもう一度味わいたいから、言い方を変えればもっとよく知りたいから、再現させているように見えます。それを繰り返しながらさらに、そのことが好きになり、その世界へ入り込みながら、またいろいろな差異に気づき、さらにもっと知りたい、できたいとつながっていくのでしょうね。

水遊びにおける表出から表現へ

2023/07/06

水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。

そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。

確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。

それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。

水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。

それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。

 

色々なことの「いつ頃から、どのように?」

2023/07/03

伝統的な行事と言っても、それには必ず歴史的な起源があるはずです。日本に根付いているものが、いつ頃どのようにできて、またどう変わってきたのか。はっきりしているものから不確かなものまで色々です。七夕はどうなのでしょう。なぜ「たなばた」というのか、についても諸説あるようです。その話はまたの機会にするとして。

さて、保育園にも笹に願いごとを書いた短冊が飾られています。昭和や大正のころの願い事は、機織りや習字が上手になりますように、といった生活上切実なものだったのでしょうが、今ではそういう願いとはいささか違いますね。

保育の活動としては、七夕飾りの製作や装飾を楽しんでいます。飾りは折り紙などを使って、色々な形になるのが面白いですね。四角い紙が、切れ目の入れ方はひねり方、糊でくっつける場所の違い、輪にしてつなげてみたり、「色とりどり」になっていく、できている中に「わあ、きれい」「こんなになったよ」が色々できて、そこには確かに「いいね」「きれいだね」ができていきます。

そういう美への感性が育つのは、どんな時なのだろう。ということを改めて考えてみると、考えれば考えるほど、結構、謎めいてきて大人にとっても面白いテーマです。確かに「それいいね」はあるので、それをを作っていくことが楽しいのですが、子どもにもその差がわかるとすると、いつ頃どのように芽生えてきて、どのどうに育っていくのでしょう。

私の世代は橋本治を読んだり、一つ上の(つまり10年上の)世代は吉本隆明の「言美」だったりしますが、どうして「美しい」がわかるのか、や何かにとっての美とはなにか、ということも、「いつ頃どのように」の経緯がありそうです。孔雀の羽が美しいのを、雌の孔雀がそう思うのなら、動物にも「それがある」ということなのでしょうから、さて、それは人間の「それ」と同じなのかしらん?などと考え出すと、果てしない美の冒険となっていくのでしょう。

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