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SDGS(保育アーカイブ)

カーボンニュートラルと保育

2021/02/27

久しぶりに朝日テレビの「朝まで生テレビ」を録画で観ました。日本のエネルギー政策がテーマでした。政府は2050年までにカーボンニュートラル、二酸化炭素の排出をゼロにすることを宣言していますが、その道程は険しいようです。風力発電や太陽光発電などの再生可能エネルギーの割合を約5割に持っていくために、どこまで原子力発電に頼る必要が出てくるのか、専門家の意見は別れていました。原発を新設しないと無理という見立てと、なんとか他のものでやれるという見解がぶつかっているように見えました。

科学者という専門家の間でも意見が割れているところに、素人の私たち国民がどのように議論に参加したらいいのかというテーマは昔からあって、私は専門が理学部だったので柴谷篤弘さんの「反科学論」などを自主学習会で読み合ったりしていました。今はなき柴谷さんの主張は、これも私の理解と要約ですが「一般市民がわからないから議論に参加できないのではなく、わからないからこそ参加すべきだ。そして、だからこそ、わからない、不安であるという主張は正当な国民の権利だ」というものです。難しいから専門家の判断に任せるという姿勢が危ないというのです。1970年代後半の議論です。

このような社会学的知見に立てば、コロナ問題も政府は専門家会議は、複数のプランが出るぐらいの、意見の異なる複数の議論が主張されるぐらいの議論を公にしながら、政府がその過程を公にしながら議論が深まるようにするべきなのでしょう。政治にメタ科学的政策論が足りないのでしょう。

その頃、同時にハイゼンベルクの「部分と全体」もそのころ熟読したことを覚えています。手元にその本がないので不正確ですが、趣旨は「科学者はその発見の結果が及ぼす社会的影響まで見通すことができるからこそ専門家である」という、科学者の社会的責任論についての命題でした。これは核エネルギーが原子力爆弾という大量殺戮兵器に利用されたことを悔やんでいたアインシュタインの晩年を思い出します。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが米ソの水爆競争に危機感を抱き、核兵器廃絶運動を推進するために草起した「ラッセル・アインシュタイン宣言」に結実します。1955年のことです。

それから65年が経ちました。同じ議論が続いています。あまりにも科学技術の進歩が専門的過ぎて、そのリスクをよく理解することが難しい時代です。感染者数をどう受け止めるのか、ワクチン接種はどうするか、有事の備えとは何のことなのかーーー。今から30年度の2050年は、卒園児が35歳。そのころ、福島はどのように復興され、再生可能エネルギーはどこまで普及しているでしょう。

これらのテーマを保育から考えると、こうなります。危ないと自分で気づき回避する力を持とう。そのためには、どのようなことが危ないことなのかをしっかり体験しながら学ぼう。わからないことは当たり前だよ。どうやったらわかるようになるのか、知る方法を一緒に考えよう。そして、「わからないから教えて」という意見がとっても大切なんだよ。

物を買って使うときは、それが何でできているのか調べてみよう。もし綿で出来ていたら、綿ができる期間は使おう。住む家が材木だったら、その木が育つ期間は使おう。その和紙が植物の材料だったら、その植物が育つ期間は使おう。プラスティック製品はできるだけ買わない、使わないようにしよう。使い捨てはできるだけ減らして、永持する道具に変えていこう。食べ物は生き物が幸せに育っている動植物にしよう。・・いろいろな「善いこと」を分かち合って生活の中に取り入れよう。私たちの生活がどこから来て、どこへ向かうのか、大人と一緒に考えていこう。・・・保育に結びつけると、こんなことになるのではないでしょうか。

卒園児にウェルカム!と言える社会に

2021/02/26

(園だより3月号 巻頭言より)

昨年の3月と今年の3月で異なるのは、保育園が開園して初めて卒園児が旅立つことです。昨年度は卒園児がいなかったので、卒園式もありませんでしたが、今年は10人が卒園します。私から一人ずつに保育証書を手渡しします。受け取ったら「大きくなったら○○になりたいです」という夢を語ってもらいます。どんな夢が語られるのか、楽しみです。

私たちはどんな子に育って欲しいかと聞かれたら、「自分らしく意欲的で思いやりのある子どもになってほしい」と願っているのですが、子どもたち本人は「あれがいいなあ、こうなりたいなあ」と具体的な夢や憧れを持ちます。抽象的に「思いやりのある人になりたいです」とは思いません。お医者さんになりたいとか、花屋さんになりたいとか、ピアニストになりたいとか、サッカー選手になりたいとか、具体的に憧れている仕事や職業を思い浮かべるでしょう。そこで「保育園の先生になりたいです」という子がいてほしいなあ、と期待してしまいますが、それは今人気の職業が反映されていたりします。

変化の激しい時代です。卒園する子どもたちが実際に働き始める頃、世の中にその仕事が残っているのかどうかわかりません。反対に5年前に「You Tuberになりたい」が小学生男子2位、女子4位になる時代になるとは想像できませんでした。その調査では保育園や幼稚園の先生は女子で5位になっていました。どんな時代になっても、保育の仕事はなくならないでしょう。生活に必須の仕事を最近はエッセンシャルワークと呼ぶことが増えましたが、私はこんなに大切で有意義な仕事は他にないと心底、思っています。まだまだ世の中の認知や社会的な地位が高くありませんが、子どもたが保育士になりたいと思った時、周りの大人がそれを誇らしく感じ、応援したくなるような魅力的な職業になるといいのに、と思います。

やりたいことができることは幸せなことです。しかしそれが難しい。やりたいことは変化し、それが仕事になるとは限りません。市場経済で買われる市場価値を産まないと職業になりません。しかもその仕事が豊かな働き方になっているかどうかも別問題です。豊かな働き方とは自分で構想して実行できるような仕事です。誰かが全体を計画して、その一部を歯車のように部分的にやらされる仕事は意欲を失います。ひどい時は拷問のようになります。人間は働く意図や目的が社会的な意味を持つことを望み、それにコミットしているとき生きがいを感じるからです。

私たちが今実践している保育は、子どもたちが「現在を最もよく生きる」ことができるように工夫しています。それともう1つ育てているものがあります。それは「望ましい未来をつくり出す力の基礎」です。大人と一緒に望ましい未来をつくるメンバーの仲間入りを果たすことー。それが大人になるということです。年長さんがもうすぐ卒園します。私たち大人は「ようこそ!」と言える社会を用意しましょう。

続・「人新世」時代の保育とは

2021/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

先月1月号の巻頭言で述べた「人新世」(アントロポセン)の保育について、具体的にその姿を想像してみたいと思います。持続可能な社会実現のためのポイントは、地球規模の自然資源と人類の生産活動との関係の中に、共有資産(コモン)を作り出すことです。保育園からそのことを考えてみましょう。

◆食材の地産地消とエシカル消費へ

給食の食材は玄関に「本日の食材産地」を蒲鉾板で掲示しているように、日本各地からやってきていることがわかります。江戸時代に航路を使った物流が発達しましたが、基本方針は地産地消に改変することです。都市とその周辺が食糧生産の社会資本ネットワークを再構築できるかどうか。ファーストフードからエシカル消費の食卓へ。身近な小規模産地を効率よく共有することにIT技術が活用できるかもしれません。鳥インフルエンザ予防のための鶏大量処分はあまりに痛ましい。こうなってしまう経済流通の仕組みを変えたいものです。本当の安全で健康的で持続可能な食の営みを取り戻したい。

◆エネルギーの地域管理への道

エネルギーはどうでしょうか。遠くで大規模に発電して延々と送電することを減らし、地域発電の割合を高めたい。保育園はささやかながら太陽光発電のパネルが園舎の壁面についています。戦艦大和を造船した呉で再開した船の第一号はタンカーでしたが、中東の化石燃料に依存するエネルギー体質を大転換したい。それを地域の社会資源を新しい形のアソシエーション(組織)で管理したい。町会のような組織を大胆に行政がバックアップできないだろうか。

◆保育園の絵本も遊具も共有資産

岩本町三丁目は既製服問屋街発祥の地。衣服はすでにリサイクルが普通になってきました。園がよくやるバザーのように岩本町・東神田バザールが展開できないか。そういえばコモンの代表格は公立図書館。保育園の絵本も遊具もコモンです。千代田せいが文庫が子どもの文化の共有財産だというのはわかりやすいですね。しかも読み聞かせボランティアの福田さんの寄付も含まれています。

◆子育ても地域の基盤財産

実は、そもそも子育ても人類は村単位でやっていた共有コモンでした。社会福祉法人は収益事業ができません。千代田せいが保育園は全額税金で運営しているので子育ての共有資産です。株式会社は株主への配当があります。そこをどう考えるのか。そして子ども自体が未来の共有財産だと私は思うので、望ましい保育ノウハウは共有するべきでしょう。保育士も学校の教員も医師や看護師と同じように使用価値を生産するエッセンシャルワーカーですからコモンであり、国家資格があります。水や空気や住宅と同じようにコミュニティが共同管理できるといいですね。

◆競い合わせない学力(環境にマッチした生き方)

そしてどうしてもそうなってほしいことがもう1つ。それは子どもの学力評価です。個人の資質・能力を測定することは、産業革命以降に効率の高い労働者を採用するときに始まったのが起源です。人的な富を個人に還元して分断させず、それぞれが所属する複層的なコミュニティの中で個性を発揮しあえばいいのです。せめてブランドで競う大学入試の選抜評価をやめ、働きながら学び続けることができる本当の生涯学習社会のインフラを作り出しましょう。

不安の中で確かなものを欲しがる心理について

2021/01/12

保護者の皆さんの職場でも、これまで以上の感染防止策の徹底が図られているかもしれませんが、保育園でもこれまで続けてきたことを再確認しています。千代田区によると今年になって、区内の園で職員に患者が発生しているそうです。私たちも改めて気を引き締めていこうと話し合っています。正直なところ、私たちも感染しないかと、ヒタヒタと迫ってくるような不安が強まっています。

連休明けの今日12日(火)、朝から冷え込みも厳しく昼頃には冷たい雨が降った東京ですが、肩を窄めがちな大人と違って、子どもたちは元気いっぱいです。子どもたちの持ち前の明るさが、私たち大人の重たくなりがちな気分を軽やかにしてくれます。その笑顔や無邪気さに救われるような気持ちになるのは、きっと世の中が緊急事態で、感染対策の意識を忘れることも許されず、その意識のコントラストが際立つからなのでしょう。

緊急事態宣言に限らず、外部から追い込まれないと大胆な決断ができない傾向のある日本人ですが、環境問題でも世界の潮流に逆らえないからか、エネルギー政策を大きく変えようとしています。あれだけの事故を起こしても原発を手放そうとしなかったのに、石化燃料から再生エネルギーへの転換を強力に進めることに舵を切りました。海上風力発電の割合を欧州並みの割合にするグリーン政策を始めます。そうでもしないと2050年までに二酸化炭素排出目標を達成できないからです。外圧をうまく利用するという意味では、緊急事態=有事だからと、国会で、特措法や感染症などの改正を議論するとき、平時なら無理なことも通りやすくなるバイアスが生じるんじゃないかと気になります。

強い他者の意向をうまく利用して自己実現を図ろうとする日本人の意識。そうした日本の歴史の真相に迫る作品を残した半藤一利さんが亡くなったというニュース。90歳でした。どこに主体性と責任があるのか判然としないまま物事が決まってしまうのは戦前も今も変わらないと語っていた半藤さん。今の一都三県から、明日には七府県にも緊急事態宣言が追加されることが決まりました。今年になっての一連の政府決断は、世論調査で緊急事態宣言を出すダイミングが「遅い」と思っている国民が半数を超えていたことが決定的だったように見えます。

何につけても、その決定がどうやって決まったのか、科学的な判断というよりも空気が決めているように見えてしまうこと。そのプロセスがすっきりと見えてこないと感じることが多いことも、毎日の生活の中に「不安」を感じてしまう要因になっているのかもしれません。大声ではっきりとモノいう人に人気が高まることも危ないなあと感じます。最初に結論ありき、ではなく本当に議論が深まっていくというプロセスがあることを信じたいと思います。

自然とヒトのバランスが崩れるとき

2021/01/11

日本海側で記録的な大雪が続いています。これも地球温暖化の影響かもしれませんね。産業革命以降、地球規模の気候変動をヒトが引き起こす時代になっています。近年の夏の暑さや大雨のように、自然の異変が身近に感じられるようになってきました。一説によると、2030年までに地球の気温を1℃上げてしまったら、北極の氷が溶け始め、そこに閉じ込められていた膨大なメタンが大気に放出されてしまい、ドミノ倒しのように2050年には気温が4℃上昇してしまうというのです。

気候だけではなく自然界と安定していたウイルスを、ヒトにも感染できるように変異させているのもヒトの仕業です。COVID-19もその例に過ぎません。過去にも、自然界の中で安定していたウイルスを人間社会に引っ張り出してきては、知らない間に疫病パニックを引き起こし、悪霊や魔女の仕業などと恐れてきたのが人類の歴史でもありした。

昨年6月に買った岩波新書『感染症と文明ー共生への道』(山本太郎著)をまた取り出してこの連休中に読み返しました。ウイルスは最終的にどうなっていったんだろう? コロナウイルスの行方を考える上で参考にしたかったのです。ウイルスは変異を繰り返しながら、最終的には発症しないで宿主である動物と共生することで安定していくものがあります。

例えば麻疹はメソポタミア文明ができたときヒトに定着しました。一定の以上の人口を持つ定住社会がないとウイルスは生きられません。ウイルスにとって都合のいいホスト集団(人間が集団を作って生活したこと)ができたからです。5000年をかけて地球上に広がってきたことになります。

それに比べて、ウイルスの感染効率はこの数百年で何10倍も早まりました。人口も増えたので広がり方も爆発的です。そのために変異スピードも速くなっています。それでも長い時間をかけてウイルスは安定するか消えていきます。山本さんは次のように書いていました。

「強毒ウイルスは、自らがもつ性格ゆえに消滅することになる。そして長い目で見たとき、強毒ウイルスは、自らの生存を支える宿主集団を巻き込みながら消えてゆき、潜伏期間が長く、感染効率と致死性の低い弱毒ウイルスが優位となる。このようにして、ウイルスとヒトとの間にある種の安定した関係が築かれていくのである」

これはHIVを例に挙げて説明しているのですが、コロナウイルスの場合は、まだ感染していないヒトがたくさんいて(感受性の高い人が多く残っていて)、感染爆発による変異爆発を起こしている真っ最中ですから、感染力が強かったり、強毒性をもったり、潜伏期間が短ったかりするような性質をもつ変異種が、これから出てきてもおかしくありません。日本でも数年たって、終息したように見えても、何年かしたらまた流行するということは大いにあるわけです。

記録的な大雪や水害や暑さなどの気象の変化も、ウイルスに影響を与えます。ヒトの中にはすでに安定して見えないウイルスと共存していて、その隙間があれば新しいウイルスが入ってくるような「動的平衡」(福岡伸一)も考えられます。宇宙ができて137億年、地球ができて50億年、ウイルスはすでに30億年前には発生していました。それに比べてホモ・サピエンスはたかだか20万年前に過ぎません。私たち自身の「生命」がウイルスとのバランスで成り立っているところがあるのかもしれません。

養鶏場の鳥インフルエンザの発生も同じ社会問題であると捉えたいところです。農林水産省は「ヨーロッパの動物福祉が輸入されたら養鶏産業は持たない」という判断にたっています。これもエシカル消費の世界基準から遅れを取ってしまいました。コウモリの中で安定していたウイルスが、ヒトにも感染するようになったのも変異だったこと、そして中国武漢の発生源が野生動物の売買市場だったことも忘れないようにしたいものです。

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

稲刈りを実況中継

2020/09/09

毎日のように食べている主食であるお米。9月になると全国で稲刈りが本格化します。そこで今日は、20年以上前から神宮司さんが交流を重ねてきた千葉県神崎町にある田んぼの稲刈りに参加してきました。そして、その様子をZoomで、わいらんすいの子どもたちに伝えました。

いま時、カマでイネを刈り取る「稲刈り」ができるところはそうはありません。この田んぼは、日本で昔から行われてきた「不耕起栽培」の田んぼです。稲刈りの時は水を抜きますが、そのほかの時は一年中水をたたえています。しかも全くの無農薬で、水田の中に生き物がたくさん棲んでいます。

イネを借り始めると、虫を食べるためにツバメが飛び交いはじめ、地面にはトウキョウダルマガエルがピョンピョンと飛び跳ねます。こんな場所で遊ぶことができたら、楽しいだろうなと思いました。

今日からはじめるエシカル消費

2020/02/10

今日の第5回コーヒータイムで使うかもしれない「今日からはじめるエシカル消費」の資料をホームページにアップしておきます。

20200210「今日からはじめるエシカル消費」

この資料は私が先日2月3日に東京都消費生活総合センターが開いた「消費生活講座」の資料です。講師の山本良一さんはこの内容を広く市民に伝えて欲しいとおっしゃっていました。

ここからは、コーヒータイムが終わった後のレポートになります。

◆にこにこさんと「お客さん」を待ちながら・・

このコーヒータイムは、本当に気軽に仕事帰りにちょっとコーヒーでも飲んでもらう、くらいの気軽な空間にしたいと思っています。それで今日は、最初のお母さんがいらっしゃるまでに、にこにこの子どもたち3〜4人が「何してんの?」とやってきました。私が電気ポットでお湯を沸かし、電動コーヒーミルで豆を挽きはじめると、興味津々で私がやることをジッと見守ってくれました。その眼差しが可愛いので、私は楽しいのですが周りの先生たちは「あ、園長先生のそばに行ってしまって、どうしよう」とハラハラしているのも伝わってくるので「大丈夫ですよ」と伝えました。子どもたちと「お客さんがなかなか来ないね」と待っていたら、最初のお母さんがのぞいてくださいました。

◆どんな時間が「自分の時間」か?

今日は4人のお母さんが参加されました。一人、二人、三人と増えていくたびに、「お仕事お疲れ様です。まあ、コーヒーでもどうぞ」という感じでおもてなしていたら、ふと、“これってコーヒーじゃなくて本当はビール?”という思いがよぎりました。「まあ、まあ、まずはぐっと一杯どうぞ」とやるのが筋だよな、などと思いながら。

「みなさんには、ビールというストレス解消法があるけど、子どもにはそんなストレス解消法ってないですよね」という話に。子どもにもストレスはあるはずだけど、その解消法は親御さんへの「甘え」ですかね。それとも遊びがストレス解消でしょうか。子どもの遊びのエネルギーと飽くなき探究心へのリスペクトと同時に、親御さんが、いつもそれに応えることができているのはすごい!というのと同時に、子どもからのそれをスルーしたり対応できない時ってありますよね、仕事と子育てから離れて自分のほっとする時間ってありますか? それはどんな時ですか?かという話になったかと思います。飲み始めたらもうそのあとは・・・やっぱり、そこはおんなじですね、と安心する話が聞けて小さな連帯感を感じたのは私だけでしょうか?

◆エシカル消費を実践したくても・・

さて、エシカル消費ですが、私の場合、これまで「食べ物は体に良いものを」という基準ぐらいしかなかったのですが、「倫理的な消費」には、もっと広い視野から考えることが求められます。例えば生産や流通の過程で、子どもに過酷な労働を強いていないかとか、食べることになる動物の福祉に配慮しているかと(鶏は平飼いにしているか)、環境保護の観点があるか、などとても幅広い視点から見直されています。保育園の周辺で生鮮食料品はどこで買っているのか教えてもらったのですが、ライフやまいばすけっと、成城石井ぐらいで、あまりないですよね。子どもの健康を考えると、エシカル消費を実践できる環境なのかどうか、この町をもっとよくする余地があることに気づかされました。ネット通販を使うしかないのでしょうか。もう少し情報を集めたくなりました。

質の高い教育をみんなに (SDGSその4)

2020/01/04

園だより1月号 巻頭言より

あけましておめでとうございます。今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります。皆さんに一人ひとりにとってどんな一年になるか、わくわくする一年ですね。この一年でさえ、どんな年になるのかわからないのですが、10年後の2030年がどうなっているのか、見通すのは難しいです。それでも、きっとこんな社会になりそうだから、こんな資質・能力が必要だという「未来からの視点」を見つけながら保育を創っていきたいと思います。そこで参考にしている指標の一つが、国連の「17の持続可能な開発目標」(SDGS)です。その一つが「質の高い教育をみんなに」です。

質の高い保育は、「その子にとっての経験の質」の高さと言い換えられます。同じ活動を、同じ時間、同じ場所で「させる」のではなく、「いつ、何を、どうやってやるか」の最適値を各自に保障することが大切になります。すると、それは対象もタイミングも「選択」が必要であり、複数の選択肢のある環境を用意せざるを得ません。育ちの支え方も、一人ひとり異なってくるので、子どもの周りにはタイプの違う他人や必要です。(オープン保育)

もう一つのキーワードが「自覚」です。子ども自身が考え、自分は何をやりたいのか自問自答できる力。自分は何が好きなのか、得意なのか、自分が生かされる環境を探し求める力がこれからの時代に最も必要な探求の方向だと思います。これは非認知的能力です。自分の社会の中での「志」を明確にしていく生き方、と言ってもいいでしょう。私は生物学者の「相川先生」を演じる高橋一生主演のドラマ『僕たちは奇跡でできている』のあるシーンが印象に残っています。自分の生き方に迷っている大学生に、小林薫扮する大学教授が「こんな風に考えるのはどうかな」と語ります。

「アイスの木のスプーン。普通はただのゴミだよね。でも相川先生がやっているのは、それを、どう生かしきるか、ってことだと思う。フィールドワークでは、ちょっとしたことに役に立つ。種や苗を植えた時の目印にしたり、魚を釣る時の浮きに使ったり。スプーンは他の何かにならなくても、色々と生かされる。スプーンが他のものと比べて何ができるとか、できないとかじゃない。ただそのものを生かしきること」

そこから学生たちは、「自分の道」を歩き始めるのですが、そこでの「自覚」の仕方は、その時代の「環境の選択肢」が見えることが大事です。多分、保護者の方がピアノや英語や体操や空手の教室に通わせてみようとするとき、「この子は何に向いているのかな」と考えるのと似ています。そこで保育園で計画しているのが「5歳のハローワーク」です。プロとして働いているお父さん、お母さんの出番です。子どもたちに今の仕事を伝える機会を作りますので、子ども向けに教えてください。子どもたちの「生きる道」を一緒に作り上げましょう。

子どもの経験の質を環境の選択肢から考える。その一歩を進めたいと思います。

SDGSと「楽しんだもん勝ち」

2019/10/29

園だより巻頭言11月号

◆  SDGSと「楽しんだもん勝ち」

 10月はラグビーや鬼ごっこから学んだことが、いくつかありました。近い将来、私たち大人がいない時代を、この子たちは生きていきます。その時、この子らが困らないように、私たち大人が2030年までにやっておかないといけないことが色々あります。

 貧困の解消、飢餓をなくすこと、健康と福祉の増進、質の高い教育、ジェンダーの平等、きれいな水と衛生、持続可能なエレルギーの確保、働きがいのある人間らしい仕事(ディーセント・ワーク)、インフラと技術革新への投資、格差の是正、持続可能な都市、責任ある生産と消費、気候変動への緊急対応、海洋資源の保全、森林その他の生態系の保全、平和と正義の推進、グローバルな連帯の強化。この17は国連開発計画の「グローバル・ゴールズ」(SDGS)です。あと10年です。

 これらの課題を解決していくために必要な手段は「教育」です。国際社会がそれぞれの国益を優先して争えば、共生社会は実現しません。資源獲得の争いから世界大戦が勃発した歴史、そしてEUが第二次世界大戦の反省から国家を超えて共生社会を生み出そうとしている事実、そして日本の近代史を踏まえれば、日本は東アジアの中での「共生」の旗を掲げる責任があります。

 「このチームにはいろんな国の人がいるので、ダイバーシティ(多様性)なところもしっかりと見せたい」。開幕前にリーチ マイケルはそういっていました。ラグビーで発揮できたことを、日本は政治でできないのでしょうか。EUがワンチームを目指しているように、世界がワンチームになるモデルを日本が提示できないものでしょうか。

 私は外に敵を作って、内部に統一感を出すナショナリズムの手法を選びたくありません。では、どうしたらいいでしょうか。それはラグビー日本代表がベスト8の目標を掲げたように、共生における目標を作るのです。「自分らしさ」を生かしきる仕組み、環境をデザインして創造するのです。例えば、遊びがヒントになります。鬼ごっこは練習がいりません。鬼ごっこをするために、練習する人なんていません。誰もが参加できるフェアで差別のない遊びです。日本では親が子どもを守るという精神が根底にある遊びだからです。

 昨日視察した「スポーツ鬼ごっこ」の全国大会で、面白いことに気づきました。それは大会に参加している「ふじみ野市スポーツ鬼ごっこ連盟」の旗にこうありました。

「楽しんだもん勝ち!!」

 もしかしたら、これが勝つこと以上に大きなモチベーションになりうる「ワンチーム」の作り方かもしれません。次回、お楽しみ会で、その精神を表現してみたいものです。

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