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アート(保育アーカイブ)

運動の中の「美」を体験する

2023/06/28

今年で4年目を迎えるコンテンポラリーダンス。今年もその遊びが始まりました。子どもたちに指導してくださるのは、子どもたちが大好きな青木尚哉(あおき・なおや)さん、芝田和(しばた・いづみ)さん、木原萌花(きはら・ももか)さん。ダンスと言っても何か決まった振り付けがあって、それを覚えて上手に踊る、というものではなく、自分の身体を気持ちよく動かす回路を開いていくようなものです。乳児から幼児まで、全てのクラスで楽しみました。

乳児の子どもたちとは、まずダンサーの方々と親しくなることから始めます。いつもの歌を歌ったり音楽に合わせて体を動かしたり。普段の遊びを一緒に楽しみました。この人たち、誰だろう?という感じから、すぐに慣れていってくれました。にこにこさん(2歳児)たちとは、膝の上にのってヒコーキになって跳んだり、ペンギンになって歩いたり。わいらんすい(345歳)になると、バリエーションが増えます。

じゃんけんのぐーやパーの形(格好)を顔や手や足や全身で表す「グーパー体操」。相手とてのひらを重ね合わせる「やさしくタッチ」。それを歩いたり走ったりゴロゴロ転がったりしてやります。タッチの代わりに「ぎゅー」になったり、「高いたかい」になったりと触れ合い方は様々に変化。これらは自分の身体が人と触れるという、関わり方のバリエーションの広さに改めて気づくことになっていきます。

青木さんのダンスの面白さは、それが「よくなること」が、自分の身体と周りとの接触の仕方や度合い、距離感というものに敏感になっていくこと、その感覚の解像後が高くなっていくことが「よさ」なのです。その運動の代表が「ポイントワーク」という青木さんが開発したメソッドです。例えば「マネキンとデザイナー」は、片方がマネキン(人形)役になって、もう片方がデザイナー役になります。そしてデザイナーがマネキン役の体をゆっくり優しく動かすのです。

子どもたちは身体の骨の模型を見せてもらっており、体には骨があって、関節のところで動くことを学びます。それ以外のところは動かないことを体感します。音楽に合わせて1、2、3・・・と数えながら、デザイナーはマネキンの手や指や腕や胴や脚や踵などを動かしていくのです。10まで数えたら、つまり10回手や足や頭の少しずつ動かして、最終的には「いい感じ」の格好を作り上げます、そして、その格好をデザイナーも真似ます。

ダンスのためのオリジナルわらべうた「鬼さん鬼さん何するの?」は、円陣を組んで鬼が「これするの」と応えると、みんなもそれと同じ動きを真似します。輪になって並んでいるので、順番に「これするの」をやる番が回ってきます。どんな動きをしようかなあと考えながら、思い切って動いてみると、どんなものであっても、それが表現として受け止められていきます。即興的に考える創造力、それをみんなが真似する面白さ。その中に、格好やポーズのかっこよさや美しさが垣間見あられるのです。慣れてくると、早く自分のところに来ないかなあというようになっていくのがわかります。

鬼ごっこやわらべうたでも、体を動かしますが、その関連を調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。例えば「わらべうた」を「遊び方」と「隊形」で整理されているものと比べると、青木さんとやっている運動と重なり合ったり、独立している領域が見つかったりします。

やっていることは違うことだと思っていても、身体の関節が動いている運動であること、それと同時に起きている身体「感覚」の体験は、重なり合っているのです。

その運動の起点となっている前後の動機やイメージなどは、移り変わっていくのですが、その連続性の中に「美」がいたるところに見出されるのが、ただの運動ではなく、アーティストであるダンサーの作り出す運動の楽しさです。何度も楽しんできたものなのに、今回の「マネキンとデザイナー」の動きの中に、主任はいたく感動していました。「青木さんたちがデザイナーをやると、違う。10カウント目の最後の動かし方で、ドキッとするくらいよくなる」と。それはきっと子どもに伝わっています。あんなふうに自分も「やる、やる」と、デザイナーやりたいという顔にそれを感じます。

さらに「なるほど」と思う感想を主任からもらいました。「これって、感覚統合からみると、とてもいい運動になっていると思う。そして主体性ということでは、マネキンの方がやらしてあげていて、デザイナーと対等じゃないか」と解説してくれました。自分の身体が教材や環境になっていく協同的活動としての遊び、とでもいうのでしょうか。

小さなアーティストたち~表現の前の居場所をめぐって~

2023/05/04

この時期は、新しく入園した子どもたちが慣れてきたかな、と考えることが多い。親御さんもそうですよね。すっかり先生たちに抱かれて「あっち」とか「これは?」とか周囲に目を向けて世界を広げている赤ちゃんたち。私を目を合わせるとにっこりして手足を動かしてくれる子も。乳児にかぎらず幼児の子たちも、友達と一緒に遊ぶのが楽しそうです。

わたしたちはよく、慣れていく話の中に、そこが子どもにとっての「居場所になる」という言い方をよくします。居場所になるといういい方は、ちょっと大事なニュアンスを含んでいるように感じます。人によっては「居場所づくり」のような、何かスローガン的な使われ方をすることもありますし、そうなっていなことがとても大事なものを失っていることを示しているようです。

子どもたちが園生活に慣れていくこと、馴染んでいくことと、その子たちにとっての居場所になることとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか? 居場所になる場というものは、空間とはちがうのでしょうか?物が置かれている空間やスペースとはどうちがうのでしょうか?

このGW期間に帰省されている方も多いでしょう。そこはご自身やご家族にとって故郷だったり生まれ育った場所だったりするかもしれませんね。懐かしさというものはその場所に行けば、あるいは思い浮かべるだけですぐに感じるなにかですよね。それほど私たち一人ひとりにとって、ある場所とそうでない場所は、はっきりと異なりますよね。物理的に見れば同じ空間であっても、人によって意味が違ってきます。

それと同じ連想で家庭と保育園の空間が、それぞれ愛着ある場所になっていくとき、好きな場所にかわっていくとき、そこがその子どもにとっての居場所になっていくのかもしれません。昨日の画家もそうですが、その画家にかぎらず多くの芸術家は、活動の拠点を探して変えています。モネなどはセーヌ川の水を引き込んだ池まで作りました。その池にかかる太鼓橋は、日本の浮世絵にでてくる風景からの影響だといわれています。

私が20代の頃、あるレストランを一緒に取材したカメラマンは店主に「ベストシナリーはどこか?」と必ず聞いていました。カメラマンからの風景と、店からの「ここです」は、たいてい一致しました。そしてそこに座る客にとっても、そこからの眺めが心地よいこととも通じていました。限られた雑誌のページに、店の特徴や店内の雰囲気をもっともよく表す一枚と料理を撮影するのに相当の時間を要しました。

保育園ができたとき、設計した建築家は、2階のガラス窓から外の風景を展望できる一角が、「子どもにとって、ここが人気の場所になるはず」と言っていました。確かにそこは、ここに子どもは基地づくりはおうちごっこをしたがる場所です。狭いこと、隅っこであることもありますが、景色を含めた「居心地のよさ」というものは、子どもに多くの意味を伝えているのでしょう。

ギリシャ語で「場」のことをトポスといい、物の本によると、その言葉の使われ方は、記憶などの何かを喚起させる場所のことで「いつでも使える何かが埋まっている可能的なプレイス」という説明がされていることもあります。私はアキハバラ近くの万世橋を歩くと、ある夏のシーンをリアルに思い出すことがあります。不思議なことですが、そこを歩きながら聞いていたポッドキャストの内容や音楽まで蘇ります。いつもとは限りません。ある情感とセットでよみがえる、ある種の質感(クオリア)です。

それとはちょっと違うのですが、安定的に定着している子どもの頃の思い出は、トピックスになって場面として映像的に記憶されています。こちらは大人になってから、本当にそうなのか怪しいものだと疑いながらの思い出です、というのも聞かされた話と混ざってしまっているからです。

この思い出したり、意味に気づいたりすることを駆動させているものを、ちゃんと調べたり考え抜かれてきた哲学的な歴史があること(アリストテレスから現代に至るまでの思考方法の開拓者たちによる)に気づき、それは修辞学的には「トピカ」と呼ばれてきたもので、場(トポス)に働きかけて引き出す働きを担っているという。そういう見方ができるのなら、トポスとトピカの相互共役的に働くありかたは、芸術家が場所からインスピレーションを得ているありかたとそっくりだと思います。

その働きかけをアルス(アートと言われる元の言葉)といってきたのだから、子どもが無自覚に突き動かされているのかもしれない遊びのなかにあるものも、芸術家が場所をかえて作品を創り出そうとしていることと、同じような何かかもしれませんね。子どもの姿を捉えて「小さな科学者」ということがありますが、室内をうろうろしたり、遠くを眺めてぼ~っとしているときにも「小さなアーティスト」たちが活動しているのかもしれません。そんなときは、大事なアルス・コンビナトリア(と、いうらしい。アート的な表象の結合術ということ)の最中かもしれませんよ。

線と色の葛藤のはてに

2023/05/03

多くの人が自分の時間に新しい意味を見出したいと思っているんじゃないだろうか。どうして休みになると出かけたがるのだろう。家にいるのがつまらないわけでもないだろうけど、新しいことをしたがるようにみえる。人々を動かしているそのエネルギーは植物の繁殖力とはちがう。人間の自由に関わる精神的な運動の在り方だろうか。

そこには、それは大人らしい好奇心と、プラスアルファの何かは人によって異なるものがありそう。私は家族と都内の美術館に出掛けてみた。有名なフランス人の画家の大規模な展示会で、新しい発見があって面白かった。芸術家もまた比類なき探求者で、その変化は絵画の時代的革新に関する要請に自覚的な、じつに敏感な意識的な変化であり、印象派が臨んでいたデッサンと色の葛藤を彼もまた抱えていた。線と色。実際に没頭して試みて、離れていく。筆色分割も散々やってみた挙句に次へと。

その変遷がよくわかる展示になっていて興味深いものだった。彼は大きな転換点には彫像に取り組んでいる。スタイルが変わるのは探し求めている自分に合った表現方法をみつけるためだということがよくわかった。デッサンという組本に同じテーマで異なるバリエーションをいくつも描いている。そこから何かをつかみ取ろうとしている。いくつもいくつもやってみて、そこから得る次の展開へ。この順番。そして体が不自由になると切絵にたどり着く。へえ~!コラージュなんだ。私はびっくりした。彼は色そのものを自由に扱える感覚があったそうで、そこに自己と表現が一致していくものを感じ取ったらしい。ああ、これも愛と知の循環だ。

こうやって、いつも思うのは芸術は繰り返し楽しむことができるということ。そこに立ち戻ることが目的と手段に分離しないこと。子どもの遊びに似ているように思う。そこにある創造と休息は命のリズムそのものであって、仕事と休暇ではない。そんな風な時間がいいなと思いながら、疲れてロビーのソファーにしばし座った。そうか、リフレクションは子どももやっている。振り返りはお集まりの時間じゃなくてもいいし、ソファーにごろごろしながら、大事なことを思い出したりしている。堀真一郎さんも同じことを言っていたことを思い出した。教室にはソファも必要だ。

絵が人の肘掛け椅子のようなものであったらという(先の世界大戦中の中での話ですが)、こんな探求もあると思うと、人間のやっていることが、他人のことなのに、なんだか人生がいとおしくなってくる。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

バンドネオンとダンス

2023/03/11

今週を振り返ると、大学との連携に関することがいろいろありました。保育実習生が来ていることもありますし、栄養士になるための保育体験も受け入れたり、大学へ出かけて外国の保育者養成校の学生と交流したりもしました。そして今日は美大でダンスと映画に取り組んでいる学生と話も出来ました。この二人は、当園のダンス指導に来てもらっているコンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんの教え子で、海老原商店での今日のイベントに来ていた方です。

今日のイベントは、青木さんが主催している「EBILAB」の26回目で「バンドネオンとダンス」と題し、珍しい楽器バンドネオンの演奏に合わせて即興ダンスをするというコラボレーションでした。10代から80代まで、20人ぐらいの幅広い年齢層の人たちが、音楽と踊りを楽しみました。

バンドネオンの調べは、どこか懐かしく、国籍を超えたノスタルジックな色調を帯びるから不思議です。それが日本の伝統的「看板建築」の海老原商店とよくあうのです。バンドネオンの音が伝統空間の中で光と音と時間を融合させ、それを青木さんのダンスがさらに「意識を見えるもの」にしていきます。何が見えたのか? もちろんそれは人ぞれぞれですが、私には歴史の時間が見えました。

キリストのチャーチ(教会)を持てなくても讃美歌を歌たいたいという民衆の力が、この楽器を産んだと言います。信仰から必要とされてドイツで生まれた楽器が、南米に渡って受け継がれ、それが日本にたどり着いて、この空間で奏でられているという文化伝承のつながりの中に、楽器がたどってきた歴史を感じました。そしていかにも「昭和な」建物の中の「ネオン」に照らされて、私たちが忘れている意識のどこかを、この楽器は呼び覚ましてくるのです。その呼び覚まされる意識に導かれながら、青木さんの身体が空間を刻んでいくのです。

https://www.instagram.com/stories/nao_ya.aoki/3057988809170839114/

このタイムトリップしたかのような場。それを日常のように思えるのは大いなる勘違いでしょう。なぜなら、難解な演奏スキルを必要とされ、そこから悪魔的楽器という異名をとるバンドネオンが実際に目の前で生演奏されていることさえ、至って稀有なことなのに、建物自体が伝説のような空間で、コンテンポラリーダサーの青木さんの身体が舞うのですから。こんな贅沢な一回きりのどこにも残らないアート作品。そう、人生の生きる時間はどこにも残らないものなのでした。

 

保育実習生を受け入れながら

2023/03/09

保育園や幼稚園、こども園などでは、「先生」が働いています。保育士や幼稚園教諭です。それぞれの専門性を養成している「学校」があって、私たちは一般にそれを養成校、といいます。当園のようは保育園で働くには保育士の国家資格を取得する必要があるのですが、その保育士養成課程(カリキュラム)の中には、養成校で学ぶだけではなく、保育現場に行って実際に保育を体験する「実習」も含まれていて、それが養成課程の核になるといわれているほど、大切なものです。したがって、実習を受け入れる保育現場は、学生の養成課程の一部を担っているので、私は養成校でなにをどう教えているのかをできるだけ知ろうとして、大学や短大、専門学校の先生方との交流を続けてきました。

日本保育学会でも続けて実践提案をしてきた時期があったのですが、保育現場が妖精の一翼を担っているという意識と仕組みがどこまで進展してきているのか?と不安になります。というのも学生が実習に行って、かえって保育者になる意欲を失った、という話が養成校の先生から聞こえてくるからです。実際のところ園長会や養成校がもっと組織と組織とのつながりを持って、保育の質についてまず最低限の合意を取りながら、その上で保育者の質につなげてもらいたい。

この数年、コロナ禍の影響で実習の受け入れが中止になったり延期になったりして、養成校は大変でした。学生も然るべきタイミングで実習ができなかったり、本人も体調を崩したり、受け入れる園の方も外部からの出入りがあるとヒヤヒヤだったり、この3年間、本来の養成課程とは違う綱渡りのようなことをやってきた気がします。昨年秋から話題になった保育園の職員による体罰問題なども、養成課程への影響というところまでは、あまり話題にならなかった気もします。

ちょうど3月6日から、大学の実習生3年生が一人きているのですが、当園は2回目の実習Ⅱになります。幼児クラスに連続して入り、今日9日に「責任実習」を終えました。この責任実習という概念や位置付けも見直さないといけないと思ってきた課題の一つです。色々なことが実習を巡って課題が多いと思うのですが、あまり自治体関係者の方は課題の内容をご存知なく、話題にすらのぼらない時期もあったのですが、最近はどうなってきているのかな、と思います。

 

 

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

アートとしての味覚体験

2022/11/28

けさ出勤するといい香りがします。なんだろう?と2階に向かうとバターで何かを炒めている香りです。子ども用キッチンの電磁調理器を使って、3つのパンで野菜を炒めていたのは、全日空ホテルのシェフ江口さん。実は今日28日、ちょっと変わった<食育活動>の準備をしてくれていたのです。

どんなものかというと、子どもがディップ状になった野菜ペーストをパンに塗って食べてもらうのですが、子どもは最初それが何かわかりません。うすうす「食べられるもの」だとはわかったようですが、どんなものでできているのかわからないところから、その活動は始まりました。

赤、黄緑、紫の3種類のパテをスプーンで好きなように塗って、いわば<遊ぶ>のです。ただ子どもたちも、パンに塗っているし、美味しそうな匂いがするので、絵の具のようなものだとは思っていなようです。「これ(黄色い方)はとうもろこしで、これ(橙色)はかぼちゃ、こっち(紫)はにんじん、じゃない?」などと言い合っています。

実際に食べてみると「う〜ん! おいしい!」と、食べ始めます。

このような状態の食べ物が普段は苦手そうな子も「おいしい」と言って食べています。それを見ていて私はおもしろいなあ、と思いました。そして手作り絵本で種明かしがされます。実はどの色のディップも「にんじん」だったのです。

私も朝いい香りがしている時に、これ何?って聞いたのですが、どれもにんじんだと聞いてびっくりしました。子どもたちは、パンに塗って、混ざて食べたので、それぞれの味はよくわからなかったはずですが、子どもたちもまさか、これがにんじんとは思わなかったようです。

こんな活動をしてみたのは、ちょっと理由があります。子どもが何かを体験するとき、その「出合い方」次第で、体験の質が大きく変わることがあります。それは食べ物もそう。子どもが環境とかかわると言っても、その環境から受ける刺激が、その子どもに合っておらず、選べない、という場面が生じます。

それは絵の具との出合い方でも感じてきました。描くための道具として絵の具と出合ってしまうと、その多様な可能性が狭まってしまうのです。絵を上手に描くための手段としての絵の具の上手な使い方、みたいになってしまうと、私などは「色との出会い方が残念」と思ってしまいます。

子どもによっては、音に敏感であったり、匂いに敏感だったり、大きすぎる空間だったり、食べ物の味や食感が合わないこともあります。肌に触られることを嫌がることだってあります。それは、大多数の人と違うからこそ、大切にされなければならない見事な個性です。私の知り合いに、生のりんごは食べられない女性がいます。でも、りんごジャムや焼きりんごは食べることができます。

ちょっと話が広がりすぎるかもしれませんが、この味がこんな味だと区別することは、その味との出会い方、状況によっても変わってくるのではないでしょうか。例えていうと、大人がセンスの良い服や部屋やデザインを好むように、味覚にも、その差異に敏感であることもありそうなのです。

私たちは青を青と思っていますから、誰でもそう見えていると思い込んでいますが、実は実際に見えている色合いは自分しかわからず、他人が同じように見えているとは限りません。ことばの音の文節を学ぶことで、母語(たとえば日本語)を獲得していくのと同じように、私たちは世界に任意の境界線を引くことで、何かを理解しているのです。昆虫や動物はそれぞれの線の引き方で世界を理解しているように、私たちもそういことがあるんじゃない? と思う次第。

 

この場合は、これもにんじん? という発見から多様な「にんじん」というものと出合い、そうでないものとが区別されたのです。こんなことを繰り返していく味覚体験は、きっと私が目指している、食べ物そのものを、もっとよく「味わう」という行為を深めていくことになるはずなのです。そして愛着を感じたり、そのものへのリスペクトが生まれながら、おいしい、という字には「美」が入っていることを、「美味しい」と書くことに納得していくのではないでしょうか。

味にもアート的に「美味しい」と感じる世界がありそうです。今日はその第一回目でした。

 

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

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