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アート(保育アーカイブ)

バンドネオンとダンス

2023/03/11

今週を振り返ると、大学との連携に関することがいろいろありました。保育実習生が来ていることもありますし、栄養士になるための保育体験も受け入れたり、大学へ出かけて外国の保育者養成校の学生と交流したりもしました。そして今日は美大でダンスと映画に取り組んでいる学生と話も出来ました。この二人は、当園のダンス指導に来てもらっているコンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんの教え子で、海老原商店での今日のイベントに来ていた方です。

今日のイベントは、青木さんが主催している「EBILAB」の26回目で「バンドネオンとダンス」と題し、珍しい楽器バンドネオンの演奏に合わせて即興ダンスをするというコラボレーションでした。10代から80代まで、20人ぐらいの幅広い年齢層の人たちが、音楽と踊りを楽しみました。

バンドネオンの調べは、どこか懐かしく、国籍を超えたノスタルジックな色調を帯びるから不思議です。それが日本の伝統的「看板建築」の海老原商店とよくあうのです。バンドネオンの音が伝統空間の中で光と音と時間を融合させ、それを青木さんのダンスがさらに「意識を見えるもの」にしていきます。何が見えたのか? もちろんそれは人ぞれぞれですが、私には歴史の時間が見えました。

キリストのチャーチ(教会)を持てなくても讃美歌を歌たいたいという民衆の力が、この楽器を産んだと言います。信仰から必要とされてドイツで生まれた楽器が、南米に渡って受け継がれ、それが日本にたどり着いて、この空間で奏でられているという文化伝承のつながりの中に、楽器がたどってきた歴史を感じました。そしていかにも「昭和な」建物の中の「ネオン」に照らされて、私たちが忘れている意識のどこかを、この楽器は呼び覚ましてくるのです。その呼び覚まされる意識に導かれながら、青木さんの身体が空間を刻んでいくのです。

https://www.instagram.com/stories/nao_ya.aoki/3057988809170839114/

このタイムトリップしたかのような場。それを日常のように思えるのは大いなる勘違いでしょう。なぜなら、難解な演奏スキルを必要とされ、そこから悪魔的楽器という異名をとるバンドネオンが実際に目の前で生演奏されていることさえ、至って稀有なことなのに、建物自体が伝説のような空間で、コンテンポラリーダサーの青木さんの身体が舞うのですから。こんな贅沢な一回きりのどこにも残らないアート作品。そう、人生の生きる時間はどこにも残らないものなのでした。

 

保育実習生を受け入れながら

2023/03/09

保育園や幼稚園、こども園などでは、「先生」が働いています。保育士や幼稚園教諭です。それぞれの専門性を養成している「学校」があって、私たちは一般にそれを養成校、といいます。当園のようは保育園で働くには保育士の国家資格を取得する必要があるのですが、その保育士養成課程(カリキュラム)の中には、養成校で学ぶだけではなく、保育現場に行って実際に保育を体験する「実習」も含まれていて、それが養成課程の核になるといわれているほど、大切なものです。したがって、実習を受け入れる保育現場は、学生の養成課程の一部を担っているので、私は養成校でなにをどう教えているのかをできるだけ知ろうとして、大学や短大、専門学校の先生方との交流を続けてきました。

日本保育学会でも続けて実践提案をしてきた時期があったのですが、保育現場が妖精の一翼を担っているという意識と仕組みがどこまで進展してきているのか?と不安になります。というのも学生が実習に行って、かえって保育者になる意欲を失った、という話が養成校の先生から聞こえてくるからです。実際のところ園長会や養成校がもっと組織と組織とのつながりを持って、保育の質についてまず最低限の合意を取りながら、その上で保育者の質につなげてもらいたい。

この数年、コロナ禍の影響で実習の受け入れが中止になったり延期になったりして、養成校は大変でした。学生も然るべきタイミングで実習ができなかったり、本人も体調を崩したり、受け入れる園の方も外部からの出入りがあるとヒヤヒヤだったり、この3年間、本来の養成課程とは違う綱渡りのようなことをやってきた気がします。昨年秋から話題になった保育園の職員による体罰問題なども、養成課程への影響というところまでは、あまり話題にならなかった気もします。

ちょうど3月6日から、大学の実習生3年生が一人きているのですが、当園は2回目の実習Ⅱになります。幼児クラスに連続して入り、今日9日に「責任実習」を終えました。この責任実習という概念や位置付けも見直さないといけないと思ってきた課題の一つです。色々なことが実習を巡って課題が多いと思うのですが、あまり自治体関係者の方は課題の内容をご存知なく、話題にすらのぼらない時期もあったのですが、最近はどうなってきているのかな、と思います。

 

 

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

アートとしての味覚体験

2022/11/28

けさ出勤するといい香りがします。なんだろう?と2階に向かうとバターで何かを炒めている香りです。子ども用キッチンの電磁調理器を使って、3つのパンで野菜を炒めていたのは、全日空ホテルのシェフ江口さん。実は今日28日、ちょっと変わった<食育活動>の準備をしてくれていたのです。

どんなものかというと、子どもがディップ状になった野菜ペーストをパンに塗って食べてもらうのですが、子どもは最初それが何かわかりません。うすうす「食べられるもの」だとはわかったようですが、どんなものでできているのかわからないところから、その活動は始まりました。

赤、黄緑、紫の3種類のパテをスプーンで好きなように塗って、いわば<遊ぶ>のです。ただ子どもたちも、パンに塗っているし、美味しそうな匂いがするので、絵の具のようなものだとは思っていなようです。「これ(黄色い方)はとうもろこしで、これ(橙色)はかぼちゃ、こっち(紫)はにんじん、じゃない?」などと言い合っています。

実際に食べてみると「う〜ん! おいしい!」と、食べ始めます。

このような状態の食べ物が普段は苦手そうな子も「おいしい」と言って食べています。それを見ていて私はおもしろいなあ、と思いました。そして手作り絵本で種明かしがされます。実はどの色のディップも「にんじん」だったのです。

私も朝いい香りがしている時に、これ何?って聞いたのですが、どれもにんじんだと聞いてびっくりしました。子どもたちは、パンに塗って、混ざて食べたので、それぞれの味はよくわからなかったはずですが、子どもたちもまさか、これがにんじんとは思わなかったようです。

こんな活動をしてみたのは、ちょっと理由があります。子どもが何かを体験するとき、その「出合い方」次第で、体験の質が大きく変わることがあります。それは食べ物もそう。子どもが環境とかかわると言っても、その環境から受ける刺激が、その子どもに合っておらず、選べない、という場面が生じます。

それは絵の具との出合い方でも感じてきました。描くための道具として絵の具と出合ってしまうと、その多様な可能性が狭まってしまうのです。絵を上手に描くための手段としての絵の具の上手な使い方、みたいになってしまうと、私などは「色との出会い方が残念」と思ってしまいます。

子どもによっては、音に敏感であったり、匂いに敏感だったり、大きすぎる空間だったり、食べ物の味や食感が合わないこともあります。肌に触られることを嫌がることだってあります。それは、大多数の人と違うからこそ、大切にされなければならない見事な個性です。私の知り合いに、生のりんごは食べられない女性がいます。でも、りんごジャムや焼きりんごは食べることができます。

ちょっと話が広がりすぎるかもしれませんが、この味がこんな味だと区別することは、その味との出会い方、状況によっても変わってくるのではないでしょうか。例えていうと、大人がセンスの良い服や部屋やデザインを好むように、味覚にも、その差異に敏感であることもありそうなのです。

私たちは青を青と思っていますから、誰でもそう見えていると思い込んでいますが、実は実際に見えている色合いは自分しかわからず、他人が同じように見えているとは限りません。ことばの音の文節を学ぶことで、母語(たとえば日本語)を獲得していくのと同じように、私たちは世界に任意の境界線を引くことで、何かを理解しているのです。昆虫や動物はそれぞれの線の引き方で世界を理解しているように、私たちもそういことがあるんじゃない? と思う次第。

 

この場合は、これもにんじん? という発見から多様な「にんじん」というものと出合い、そうでないものとが区別されたのです。こんなことを繰り返していく味覚体験は、きっと私が目指している、食べ物そのものを、もっとよく「味わう」という行為を深めていくことになるはずなのです。そして愛着を感じたり、そのものへのリスペクトが生まれながら、おいしい、という字には「美」が入っていることを、「美味しい」と書くことに納得していくのではないでしょうか。

味にもアート的に「美味しい」と感じる世界がありそうです。今日はその第一回目でした。

 

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

コンテンポラリーダンス「ZER○」の青木尚哉さん

2022/09/03

10月22日(土)の「親子運動遊びの会」(運動会)は、昨年、一昨年と同じように、コンテンポラリーダンサー青木尚哉さんとのコラボレーションで実施します。青木さんは「ZER〇」(ゼロ)という名前のダンスグループを創って活躍されている方です。身体と表現の関係から運動を捉え直していことで、子どもの発達にとって本当に必要な運動や環境とはどういうことかを探究していく活動になっています。今年は7月下旬から月2回ほどのペースで園に来てくださり、子どもとダンスを通じた体験を積み重ねています。運動会では、親子でその醍醐味を味わえたらと思っています。「ZER〇」のダンサーで、青木さんと一緒に園に来てくださっている芝田いづみさんも、丸3年のお付き合いです。子どもたちはお二人が大好きです。「大きくなったらダンサーになりたいです」という子どもたちが、出てこないかなあ、と思ったり。連絡アプリでお伝えした、お二人の自己紹介の動画、ぜひご覧ください。

 

 

社会見学の下見/柳原通りで「どこでもダンス」

2022/03/21

卒園式に合わせてくれたかのように昨日20日(日)、東京の桜が開花宣言され、近所の桜もきれい咲いています。今日21日(月)は、その桜の下で、贅沢にもプロのバイオリニストとクラリネット奏者の曲にあわせて、ダンスを楽しみました。

また保育園の屋上でも、スケッチ大会を開催。いろいろな人たちと春の訪れをアートで楽しみました。ダンサーの青木さんがプロデュースしている年間プロジェクト「ダンスのある風景」のイベントです。保育園の園児とお母さん4家庭も参加してくださいました。

午前11時から始まったこのプロジェクトですが、楽器の音色に合わせて踊るダンサーの方々の、音楽にあった体の動きを見ていると、体を動かしかくなってくるから面白いです。

つい私も引き込まれてしまいました。そして、商店を出て、保育園の前を通って、歩道橋も渡り、桜の木の下で、気持ちいい青空を胸いっぱいに吸い込んでいたのでした。

海老原商店の中では、お絵描き、かくれんぼ、楽器遊びなどで自由に遊び、また歩道にはチョークでの落書きを、子どもはダイナミックに、大人は、ノスタルジックに心の中のちょっと深いところにある快感を探り当てていたようです。

午後は1時から保育園の屋上が、野外アトリエになり、モデルを囲んだ写生大会が開かれました。

身体というものを耳で受け止めて体に共鳴させるのか、それとも目で受け止めて2次元の真っ白な平面に、そのイメージを投影させるのか。身体のもつ感覚的な世界との対話は、まったく自由。

その自由さに気づきにくいことに気づく時、私たちが縛り付けているものは、私たち自身の思い込みだったりすることにも気づくのでした。

さて、季節が暖かくなってきたこともありますが、東京の蔓延防止対策も終わったので、少し地域で活動しやすくなります。

今週は25日の金曜日に年長児の「お別れ遠足」があるのですが、それとは別に、早速ですが明日22日(火)、都会の中でのちょっとした自然体験をしにいきます。大手町・鎌倉橋の隣にある「エコミュージアム」です。

そこで今日は朝からその場所へ下見に行ってきました。すいすいとホタルの放流を体験します。都会でホタル?さて、どんなことになっているのか、こちらも楽しみです。

 

間中ムーチョさんの世界へ

2021/11/26

いつもの海老原商店の玄関ではありません。一歩、商店の中に入ると、そこは確かに「ワンダーランド」でした。あの動物のマナケモノの世界です。

2階への吹き抜けが、大きなうんちが落ちてくる土の中に続いているという大規模な異空間に仕上がっているのです。

中にそ〜っと入ると、子どもたちはその空間に引き込まれてしまいました。

2年前、2019年10月22日の「園長の日記」に、「・・間中ムーチョさんと出会う」というタイトルの日記があります。女性絵本作家の間中さんの初の絵本『にんげんさまへ』の原画展を紹介しています。

その間中さんが今日26日(金)から、海老原商店で個展「マナケモノさん 土の中から ありがとう ワンダーランド」が始まったので、誕生会のあと早速、園児10名と出かけてきました。28日(日)までです。ぜひ親子でお出かけください。

 

遊びの中で体が自然に動き出すダンス

2021/11/23

勤労感謝の日の今日23日、海老原商店とその前の柳原通りが、ちょっと面白い空間になりました。

楽器や木箱を叩く音に合わせて子どもと大人が踊ったり、保育園の屋上でダンサーをモデルにデッサンをしたりと、「コレモ?ダンス?」のタイトルのとおり、どこまでがダンスだかわからないパフォーマンスを参加者が楽しみました。

主催したのはコンテンポラリー・ダンサーの青木尚哉さんとその仲間たちです。今回のイベントにはクラリネット奏者の西村薫さんと、代々木デッサン会を主宰する北村範史(ノリチカ)さんとのコラボレーションがあったことです。

午後1時から6時までの5時間。秋晴れのもと、休日で通る車もあまりない柳原通り。

海老原商店の玄関前で、子どもがチョークで黒板や歩道にお絵描きをしたり、木琴をバチで鳴らしたり、ポータブルラジオから音楽が流れたり、そのリズムや音が醸し出すイメージに合わせてダンサーたちが即興的に踊ります。

保育園までの間の通り全体が、ダンスパフォーマンスの空間になって、歩行者も「何をやっているんだろう」という面持ちで、立ち止まって身いったりしていました。

保育園からは4家族の親子が楽しみました。お絵かきや楽器遊びをしながら、子どもたちは自然に体が動き出します。それもダンスだと思えてくるから、面白い空気感です。

子どもは本質的に体を動かすことが好きな存在ですが、そのことを本人も周りの大人も積極的に楽しもうという雰囲気があること。この意味を再発見できたことが大きな収穫でした。海老原商店の中でかくれんぼしたり、おやつを食べたり、楽しいひと時だったようです。

夕刻になるとクラリネットの音色に合わせて青木さんたちが本格的なダンスを披露してくれました。歩道で見ていた人たちも一緒に踊ってフィナーレでした。

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