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見守る保育(保育アーカイブ)

環境との関わり方や意味に気づく

2023/10/12

先週から毎日のように午前中は外へ出かけています。乳児は佐久間公園、34歳は電車で十思公園、年長は科学技術館と北の丸公園です。園庭がない当園のような保育園は、地域を園庭代わりに使いこなすために、それぞれの場所の特徴を保育に取り込んでいきます。それぞれの活動の様子は各クラスのドキュメンテーション(スマホで見ることができます)でご覧ください。

私は今日は年長と一緒に過ごしたのですが、科学技術館はお泊まり会いらい2回目です。1回目よりも今回の方がそれぞれの場所や装置に馴染みがあるので、少し体験が深まったようです。鍵盤が描かれた床を足で踏むとその音が鳴るのですが、当てずっぽうで歩いたり走ったりすると、それで音がすること自体が面白いようで、何度も繰り返しています。

NHKのピタゴラスイッチで球が転がっていくと物が動いたり倒れたりしながら、ゴールまで辿り着くのがありますが、あれと同じようなことを、ボーリングの球ぐらい大きな金属球で、フロア全体をぐるりと一周させるようなゾーンがあります。

機械を操作して押したり、転がしたり、クレーンで持ち上げたりしながら、その都度、止まってしまう球をなんとか次の場所へ動かすような仕掛けになっています。かなり力がいるのですが、球を動かすことで、仕掛けの意味(物体に働く力のパターン)に気づくことができます。

このようなことが面白いのは、自分の身体、感覚を使って働きかけながら、物が動いたり変わったり音がしたりするからでしょう。具体的に触ったり、握ったり、押したり弾いたり、引っ張って弾いたり、自分で働きかけたことで物が変化していく。そこには物理法則があるのですが、体験することで何か気づき、じゃあこうしたら?と考えたり工夫したりすることが起きていました。どうしたらいいのかわからなくなるときは、その仕組みを理解することが難しい場合です。それでも遊び方を教えるだけで、やり方がわかれば楽しめるので、大事なことはやることで気づけるようになっていました。

同じようなことが、お弁当のあと、北の丸公園の雑木林で遊んだ時にもありました。木登りです。

どの木なら登ることができるか?木の枝と自分の手足、バランスの関係を探りながら、あれこれ考えながら登ることができる手順を発見していきます。

枝の隙間に靴がや膝が挟まって動かなくなったり、斜めの木にお尻と足を押しつけてバランスをとっている状態から、次の上の枝に手が届かない時は諦めるしかない、ということに気づいたり。身体と木との会話のようなことが繰り広げられていました。環境との関わり方と意味に気づくことが、こんな形でも起きているんですね。

代弁とは「気持ちを言葉でなぞる」こと

2023/10/11

「先生、うまいこと言うなあ」と1歳児クラスのブログを読んで感心しました。以下に紹介します。最後に「こっそり共有するのが嬉しい」と書いてあったのですが、保護者の皆さん全員と共有したいので、ここに紹介させてもらいます。やっぱり、うちの先生たちは、子ども同士の関わりの育ちに関心が強く向くようです。

・・・・・いつものように、子どもの名前はイニシャルに変更します・・・・・・

昼食前、Sくんが水道で手を洗っていると、その隣の蛇口に、Yくんもやってきました。


Yくんが来ると、Sくんはさらりと隣の蛇口に手を伸ばし、ひねって水を出してあげていました。


Yくんも、そこで手を洗いはじめます。

言葉を交わすこともなく、ほんの数秒のことでしたが、なんだか、その言葉のいらない自然な関係や関わりが素敵だな〜と感じました。

さらにその後も水道の手洗いのようすを見ていると、Cちゃんが後ろで順番を待っていたRくんに「Rくんどうぞ〜」と、”自分の使っていた場所が空くよ”と伝えてあげたり、となりのお友だちに石けんを渡してあげたり…。

お友だちのものが欲しかったり、お友だちのことをやってあげたかったり、まわりの友だちに興味を持って関わりたい!という気持ちも強くなっているぐんぐんさんたち。
その分、時には相手との気持ちのズレやすれ違いで ぶつかって、ケンカになることも多いけれど、じっくりとよーく見ていると、こんな風に、相手への気遣いや “やってあげる・やってもらう(さらには、相手にやらせてあげる)” の関わりも、たくさん隠れています。しかも、そんな姿に限って、とってもさりげなく、自然に見せてくれるので、パッと見た姿だけでは、なかなか気が付きにくかったりもしますね。

お散歩前には、Rちゃんが、Sくんの帽子を持ってきて、渡してあげようとしていました。
みんな、自分のものだけでなく、それぞれのお友だちの持ち物をよく覚えています。

Rちゃんが、帽子を差し出しながらSくんを追いますが、Sくん、まだ帽子をかぶりたいタイミングでなかったのか、違うところに気が向いていたのか、Rちゃんが帽子を差し出していることになかなか意識が向いていないようすです。
Rちゃん、その姿を感じ取ったのか、”まぁいっか”と一旦帽子を渡しに行くのをやめようとしていました。それもまた、相手を思いやる姿かもしれません。渡してあげたい自分の思いもあったけれど、いまは受け取らないみたいだな…と相手の姿に目を向けて切り替えています。
・・・なのですが、この場面では、Sくんは帽子を嫌がっていた訳でもなく、そこに気が向いていないだけのように見えたので、大人が「Rちゃんが、しおんくんの帽子持ってきてくれたよ〜」と言葉にのせて伝えると、ふとその姿に気がついて、帽子のやりとりをしていました。


そうして、大人が言葉に乗せながら、子ども同士の関係を繋いでいく瞬間もあります。

子ども同士の関係を繋いでいくときに大切にしたいと思うのは、そこに大人の気持ち(主張)を入れ込まず、『それぞれの子どもの気持ちを言葉でなぞる』ということです。
例えばこのシーンで考えると、Sくんに対して「帽子受け取ってあげて」と言うのでなく、”Rちゃんが渡してあげたいと思っている”ということを、伝えていきたいな、と思います。受け取るか受け取らないか、そのときかぶるかかぶらないか は、Sくんが決めることだからです。
もしも、渡してあげようとしたけれど、Sくんが嫌がったとしたら、そのときは、「いまはかぶりたくなかったみたいだね。渡してくれてありがとう」ということをRちゃんに伝えたかもしれないな、と思います。
「子ども同士の関係をつなぐ」というのは、関わり合った結果がいつも『うまくいく』ということではありません。自分には自分の思いがあって、相手には相手の思いがある。そのお互いの気持ちに寄り添い、言葉でなぞりながら、「じゃあ、どうしようか」と一緒に考えていく・・・それを根気強く、繰り返していく中で、子どもたちも少しずつ、自分たちでその対話を試みるようになっていきます。
自分の「こうしたい!」の思いが強く表現できるようになって、ケンカも激しくなってくる時期でもありますが、その中で感じる悔しさや葛藤、気持ちを通わせていく過程も、まぁいっか、と思える気持ちも、すべてが大切な経験だと考えています。その体験を何度も繰り返して、対話やコミュニケーションを経験していく中で、子ども同士での関係性が育まれていきます。
わたしたちは、「こうしたら良いんじゃない?」「これは、嫌だな、悲しいな」などと大人の思いも伝えつつ(もちろん「うれしいね!」「ありがとう!」などのポジティブな思いも含めて)、あくまで子ども同士の関係の中にそっと寄り添うことを、大事にしたいなと思います。子ども同士の関係に関わりすぎず、でも引きすぎず…の距離感が、難しいけれど面白いところです。
だからこそ、最初の手洗いのシーンでも、大人は何も言葉をかけず、子どもたちのやりとりをそーっと眺めて、静かに感動していたのでした。そんな、静かな感動をひとりで噛み締めるのはもったいないので、こうして、お家の方やまわりの先生たちと こっそり共有するのが、嬉しい瞬間でもあります。

・・・・・いかがですか?先生たちの考えていること。大事にしたいと思っていること。気づかれていない言葉にならない思いが見えるようにする「言葉でなぞる」という表現に私は感心したのですが、昨日の「環境からの呼びかけに対する子どもの呼応」という話を思い出すと、これも子どもにとっては、お友達の気持ちを、先生が押し付けがましくなく、環境からの「呼びかけ」に変えてあげているように見えなくもありませんね。人的環境は、空間や物の環境とはまた異質ではあるのでしょうけれど。

自分で決めることを支えること

2023/10/07

頭で分かってはいるけど、行動に移すことができないこと。私にはしょっちゅうあります。できない理由はいろいろですが、案外自分でも「手強い」のは、納得できないで、もうもやしているのに、やらないといけない時です。頭でもよく納得できないでいるのでしょうね。でも立場上とか、言った手前とか、まあ、いろいろありますよね。

それは子どもだってあるでしょう。決めた時間に起きることや寝ること、好物の甘いものや炭水化物を食べすぎないこと、ケンカになって自分が悪いとわかているけど素直になれないこと。大人でも似たようなことありますよね。子どもの場合で、先週見かけたことは、どうしてもママに会いたいと朝から「お家に帰る」「ママに会いたい」と言って聞かないこと、それとは反対に好きな遊びを終わることがなかなかできず、お迎えの時間だけど「帰りたくない」と言ってお家の人を困らせること。また昼間でもありますが、遊びや遊具の交代は「わかっちゃいるけど、やめられない」の一つかもしれません。

今日は実習生の日誌を読み返して、総評をまとめていました。保育の理解の仕方の中には、そうはっきりと断言できるようなものは、意外と少なくて、例えば子どもが「自分でそうしよう」と決めているように見えていることも、いろんな要素や力が働いて、複雑な無意識の働きの結果、そうなっているのだろうということが多いと思います。その要素や働きの中に、保育者が支えるというによる影響も当然含まれます。それは、どういうことなのかを実習生にも理解してもらいたいと思うことがあるのです。

例えば10月2日(月)のことです。私はブランコに乗ってい3歳のIちゃんを後ろから押してあげていました。それが楽しいらしく何度も「もっと早く」とせがむので、押して大きく揺らしてあげていたのです。しばらく経ったとき、年長のHちゃんが「やりたい。代わって」と走ってきました。Iちゃんは黙っています。もうずいぶん乗っているので、代わってあげようという気になるのかな? どうするかなあ? と見ていたのですが、黙っているので「変わってほしいと言われていることはわかるけど、もっと乗っていたい」と思っていることがすぐわかりました。年長のHちゃんは、交代して遊ぶということを相手にも期待して「もう、代わって」と、強くもう一度言うのですが、だめだと諦めて別のところへ行きました。

そのいきさつを、ボランティアにきていた小学6年生のAさんもみていて「こういうとき(Iちゃんに)代わってあげるように言うの?」と私に聞くので「そうだね、Iちゃんはわかっているんだけど、そうしたくないんだよね。どうやったら自分で、いいよ、って気持ちになるのかな。大人が『代わってあげなさい』と、そうさせてしまうのではなくて、自分でそういう気持ちになるといいんだけどね」というと、小学生のAさんは「ブランコ、もっといっぱいやるといい」と言います。満足するまでブランコすれば、代わってあげようという気持ちになるだろう、と考えたようです。

年長のHちゃんは、乗るのを諦めましたが、乗りたい子が多いときは、また別の結果や違った行動になる場合もあります。ブランコに列ができるときもあります。そいうときは自分から交代することや、順番で遊ぶことなどを受け入れやすい状況だったりします。また相手によって自分のやりたいことを押し通せたり、自分が我慢しないといけなかったり、します。特に相手が知っているお友達だったり、その友達関係のあり方によっても、違ってきます。また援助している先生によっても変わるときもあります。また家でも、お父さんかお母さんかでも、子どもは自分の思いや気持ちの押し出し具体を変えることがあることに思い当たることでしょう。

このように自分から何かをしたり決めたりするのも、ある程度発達してきたからといって、いつも安定的に同じようにできるというものではなく、その資質や能力が発現しやすい環境や状況というものがあって、それと切り離せないようなかたちであらわれるということがあります。その繰り返しの中で、長い目で見た時に、成長を感じる時がきます。

また私が「Hちゃん、ブランコ、代わってくれないかな、だって」とHちゃんの気持ちをただ代弁したつもりで言ったとしても、Iちゃんにとっては、一緒に遊んでいた私がそれを口にすること自体が、別の意味を影響を生むことになります。自分でそうか!と気づいて行う、ちょっとした後押しになることもあれば、かえってIちゃんの気持ちを頑なにすることだってあるでしょう。

このように、どんな援助や声かけのようなものがいいのか、などをその状況判断を抜きに一般化することはできません。やはり個別具体的な判断とその振り返りの繰り返しの中で、その子どもにとっての、ある確からしいことが見えてくるのだろうと思います。その子どもが「代わって」と言われたことがわかり、どうしようかなと考えたり、どう言ったらいいのか工夫したり、表現することは、それぞれです。その過程で、内面で動いている心情は前向きな肯定的な気持ちや不快な否定的なものの間で揺らぎながら、自分なりに出口や光と思えるところを見つけていくでしょう。

思いつきで思わず手が出て、体が動いてやっている遊びが面白くなって没頭し、さらにこうしたいという目標が見えてきてそれをやろうと工夫します。自分だけではなくてお友達とのやりとりを通して、やりたいことや思いつくことも変わっていきます。その都度の積み重ねから、なぜかより善いことにつながっていくのでしょう。どうやってそこに至るのか、大人も子どもも、自分の中で無意識の仕組みの中で起きていることは見えようがありません。ただ、個別多様であっても、その2〜3年という長いスパンの中で成長していく筋道があります。その道筋はよりよい生活のありように向かって参加していくものになるといいのですが。

それだけに、わたしたち保育者は、いろいろ望ましい結果を生むように環境を考えますが、年中、年長ぐらいになる子どもにとっては「自分でやった」「自分で決めた」「それがよかった」という実感を生むようなプロセスを大事にしながら、他者のことも考えながら自分で決めたと思える行動に結びつくように思えるのが「幼児期にふさわしい生活」の一要素のように思えます。

オムニバスドラマのワンシーンからの想像

2023/09/21

保育の1日を振り返ることは、子どもたち一人ひとりのその時の姿や表情を思い出すことになるのですが、その振り返りは、まるで終わりのない連続ドラマを毎日、一話ごとに短い「ダイジェスト版」を作っているように感じる時があります。しかも、その今日のダイジェストは保育者によって異なっていて、クローズアップされるエピソードも、保育者が出会ったものから選ばれるで、内容は違ってきます。

それぞれが主人公のオムニバスドラマになっているはずの生活全体について、実は全てを把握している人など存在しません。それでも物語の「あらすじ」は、当たらずとも遠からず、だいたい成立しているように感じるのも、面白いものです。そこはさすが担任、いつも一緒に生活している彼ら彼女らが残す毎日の日誌やドキュメンテーションを読み解きあっていく中で、それぞれの子どもの成長の物語が見えてくるのです。

例えば、3歳の担任が先週、模造紙に写真を拡大して廊下に掲示していました。それには小さなダンゴムシが写っているのですが、その大きさがクイズになっている保護者向けの掲示でした。

答えの写真には十円玉が添えられていて、いかにそのダンゴムシが小さいか?が、その掲示で伝えたかったことのようです。

そこまで驚く担任の心理が最初、私は正直言ってピンと来なかったのですが、そんな小さなダンゴムシを公園で見つけてしまうことに、先生は感激したのだそうです。そこを私たちが共感できるかどうかも、それまでの子どもの変化を具にそばで見届けてきたから気づく子どもの姿なのでしょう。

あるいはこんなこともあります。3歳の子どもたちが仲良く集まって絵本を見ているのですが、実はお友達がやっているお絵描きをそばで待っている光景だったのです。そこに新しい仲間意識の誕生を感じ、一連の写真入りコメントが数日間並んでいます。とびとびに拾い上げられていた同様の姿を並べてみて、なるほどと気づく協同性の動向です。

あるいは、数日前に数人が製作遊びに没頭しているな、と思っていたら、明日22日に「こども縁日」を開くそうで、そのために密かに準備に勤しんでいた子どもたちだったことを今日、記録を読んで知りました。

屋上に置いていたみかんの木に、また八匹のアゲハの幼虫がいたのですが、年中のMくんが「どうして鳥のフンみたいなの?」というので、「鳥もフンだと思ったら、食べようと思わないでしょ。食べられないように、こんななんだって」と説明したのですが、<そっか、といいこと聞いた>というような顔をしてくれたので、ホッとしました。それがこれから、またあの青虫になるなると思うと、私も説明しておきながら不思議なもんだなあ、と思います。

その奥には、ベランダに設けた砂場があります。夏は暑すぎて遊べなかったので、また砂を入れて遊べるようにしていくのですが、ザルを持ち出して遊びたいような様子だったので、バケツに入っていた水槽用の砂利砂で少しだけ遊びました。

スコップで救い出して容器に入れたり、手で掴んでアイスを作り始めたり、小一時間遊びましたが、そにいたメンバーの意味については、その前後にまた別の物語があったりすることを、これまた後で私は教えてもらうことになるのです。

 

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

・・・・・・・・

<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

選択力も発達していきそうだ

2023/09/09

大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。

今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。

研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。

あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。

しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。

それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。

文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。

子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。

「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」

主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。

何もしないという選択も「あり」

2023/09/08

何もしない。これも立派な選択である。「これにする? あれにする?」って言われたって「どっちでもないんだけどなぁ」ということだってあり得る。

だから、何もしないという場所の保証するし、常にその他と言う選択肢を用意した方が良い。判断保留。何もしない。ぼーっとしておく。あるいは「ほっといておくれ」。これだってオッケーだ。

「いまやりたい」も選択である!

2023/09/07

今日の幼児のブログを読んでいたら、だれも選択だと思っていない出来事のなかに、選択と同じようなことが起きているのかもしれないと気づきました。

コードの不具合で電源が入らなかった電子ピアノが「乾電池で鳴るかも」と気づいた年長のMちゃん。発端は鍵盤ハーモニカをやりはじめたお友達に触発されたからですが、突発的に「やりたい」が盛り上がるのも子どもたちです。やりたいことをやる、ということを人は選択とはいいません。何かと何かから選んだと思わないからです。

でも「今やるか後でやるか、今でしょ!」ということなら選択したということができます。電源が入らないからあきらめていたのに、なんとかならないかと調べてみたら電池を入れる場所をみつけ、そのいきさつを知らずに私はMちゃんを連れてコンビニへ電池を買いに行ったのです。たまたま単三の電池が6本、園になかったのです。

子どものやりたいこをなんとか実現させてあげようとしたに過ぎないのですが、もし友達が鍵盤ハーモニカを弾かなかったら、先生とその子たちがやりたいと思わなかったら、もし私が電池を買いに行かなかったら・・・いくつもの「もし」という物語があり得ました。

なんでも後回しにしてしまう判断もありえました。子どもの「やりたい」に気づかない場合。気づいてもスルーしてしまう場合。どうせ大した差はないさ、と違う結果を予想する場合。いろいろな瞬間に大人の判断が働いています。それがチーム保育として成立するのは、保育に一つのゴールイメージを私たちが共有しているからです。先生たちの間で、子ども主体の保育が面白いと思えるから、できるだけ「今でしょ!」が選択されているようです。

 

選択から参画へ 脇道、戻り道、休憩所

2023/09/06

人生は選択の連続です。何をして働くか、誰と家庭を持つか、子どもを産むか、どの保育園に預けるか。みなさんは必ずこの岐路を選択してきたはずです。今日のご飯は何にするか、パンはどっちにするか、お迎えはどちらがいくか、延長保育は間食か夕食か。子どもたちも今日、電車で十指公園にいくか室内で遊ぶかを選び、幼児は結果的に全員電車で外遊びに出かけることを選びました。そして私は見学者を案内しながら、子どもたちが、何をどうするか、常に選択しながら生活している姿を追いかけていました。

今朝、親の腕からある先生の腕へ渡る時も、赤ちゃんは先生を選んでいます。ある遊具を棚から選び、絵本を手に取り、完成したパズルを棚に戻して新しいパズルセットを選びます。昼食をどのテーブルで誰と一緒に食べるのか、ご飯やおかずをどれくらいよそってもらうのか、おかわりをするかどうか、量はいっぱいかちょっとか。お昼寝をするかしないか、午後からは何をして遊ぶか。子どもが何かをしているとき、それは意識している、していないに関わらず「選ぶ」という行為が働いています。

そこにあるのは自分で決めることです。その決めた結果は自分と周りに影響を与えます。その結果が自分と他者にとっていい場合とそうでない場合があって、そのフィードバックをだんだん予想して決定していくようになっていきます。見通しと判断、実施とその被った結果への振り返り。それが選択という行動の中身、と言えるかもしれません。もしそうなら子どもは結果がすぐに返ってくる判断から、ちょっと先まで考えて下す判断まで、いろいろな選択をおこなっていることになります。最低限言えそうなのは、自分で自発的に決定したことがある影響を与える効力を自覚するので、それが自分がやったことという意味で自分を肯定することになるでしょう。

さらにその結果が自分に返ってきたとき、それに直面した自分が、そうなったのは自分がやったからだ、という自覚が生じる場合があるでしょう。その結果が賞賛されたら「またやろう」「もっとやろう」という再現したい、繰り返したいという意欲になるでしょうし、その積み重ねがアティテュードという態度、心構えが作られていくでしょう。

反対にダメだったら「あっちにしておけばよかった」という判断の修正が起こり、望ましい選択ができる方向へ自分を制御していく力になるでしょう。しかし選択肢が限られていると「やらなければよかった」に近くなり、肯定的な別の行動に気づく機会が生まれにくくなるでしょう。もしさらにマイナスの行き詰まりが続くと、諦めや無気力、無関心、自暴自棄、どうせダメだろうという自信のなさ、ひにくれた態度などが形成されてしまいます。

そう考えると、選択肢を枝分かれした道や迷路に喩えると、行き止まりになっても、戻ってこれることが大事。脇道から本線に戻れるルートがあることが大事でしょう。そこに試行錯誤が生まれ、できた時に自信が生まれ、自分が選んだ行為で他者が喜んだり嬉しそうにしていると、自分のおかげという効力感を感じてさらにそうしてあげたいという循環が生じるのではないでしょうか。

何をすればいいのかが決まっていることを率先してやる姿は自発的、自主的な、と言っていいでしょう。しかし、その動機が自分の選択から、自分の自己決定から始まることが欠かせない気がします。同じような行動に見えても、そこに至る過程に大事な宝物がいっぱい詰まっているのです。そのことが相互にぶつかり合って合意形成を作り上げていくこと、一緒に協力して何かを成し遂げようとしていく時に、さらに新しい自分づくりのプロセスが生じます。社会性、関係性の中での自分を作り上げていく過程がそこにはあります。選択から参画へ、という意思決定の高度化が予想されます。

第2回 全国実践研究大会 in 石川・富山(2日目)

2023/08/26

全国実践研究大会の2日目は、実践発表です。6つの実践が報告されたのですが、その後の藤森代表の講評の内容に沿って、実践の特徴を以下に簡単にまとめておきます。今年こども基本法が施行されました。これは子どもの権利条約を制度化したもの、と捉えることができます。そこで子どもの人権を大切にするということを、改めて保育で考えるとき、いくつかのキーワードから保育実践を振り返ることができそうです。そういう意味でも6つの実践は全てその参考になるものでした。

まず、子どもの人権や主体性を考えるとき、キーワードとなるのは「参加・参画」でしょう。子ども自身がどうするかを思い巡らしたり、意見や思いを反映を物事の決定に反映させてもらうこと。また意思決定のプロセスで話し合いなどをしたりしながら、子どもたちなりに最善の方法を考えていくことも含まれます。子どもの権利条約で「4つの柱」と言われているものの一つ「参加する権利」の具体化と言えます。

そうした「自己決定」と「選択」という視点から実践を報告したのは、芦花の丘かたるぱ保育園(東京都)の「君たちはどう育つか」。自分の意見だけではなく、他人の意見も受けとめて考える保育を積み重ねてきた結果「今では傾聴する力や受容する力が根付いてきた」といいます。年長児が野菜を育てていく活動の様子から「仲間と作る1年」が報告されました。

子どもの人権には「自分らしく育つことの権利」もうたわれています。その根底になるであろう心の基盤の一つとして大切に育てたいのは「自己肯定感」です。国際比較でも日本の若者のそれが低いことが、この間ずっと懸念されてきました。これは「今のありのままの自分を受け入れる力」と言っていいものですが、そこに注目した発表が、新宿いるまこども園(東京都)からありました。子どもの自発的な活動や、他者から認めてもらう経験を大切にする保育です。発達が異なる集団の中での生活や遊びの中に、そうした関わりが生まれ自己肯定感が育まれていくことがよくわかる内容でした。

同じ法人のいるま保育園(埼玉県)からは「我が国の課題に向き合う、見守る保育・藤森メソッド」と題して、自己有用感にスポットを当てた実践の分析が報告されました。乳児が幼児の姿をじっと見つめ、それを真似てお友達にやってあげる・させてあげる姿、幼児クラスでの当番活動、年下の子どもへのお世話や手伝い、ピーステーブルでの話し合いなどが動画で報告されました。異年齢での生活や遊びの中にそうした関わりが自然とたくさん発生しています。

子どもは障がいの有無や年齢、ジェンダーで差別されてはなりません。保育における包摂のテーマを取り上げたのは、幼保連携型認定こども園 城山幼稚園(熊本県)の「見守る保育におけるインクルーシブ」でした。具体的にはオープン保育、チーム保育、お手伝い保育、共食などを通じて「みんなと同じように活動に参加できない子どもを年長児が自然に受け入れ、その子用に遊具を用意したり、みんなで遊べるルールを作り始める」様子が報告されました。

「園庭にどんな遊具や場所があったらいいと思う?」。子どもにカメラを持たせ、子どもが何に興味を持ちどんな園庭を望んでいるのかを把握しながら園庭を作り直したのは、ちゅうりっぷ認定こども園(富山県)です。「子どもの様子や視点から園庭環境を考える」取り組みで、「子どもの参画」を大切にしていました。子どもの意見が反映させた園庭が徐々にできていく様子を、わくわくした顔つきで見つめていました。

子どもの人権には、子どもの育つ権利を含まれます。子どもの驚きや不思議に思う体験が起きるような環境づくりに取り組んでいるのが、わかばこども園(石川県)の「子どもの驚き・不思議さを引き出せ!〜STEAM保育の実践とこれから〜」でした。日常の中で感じた不思議について、自分達で調べたり遊びに発展させられるような保育を目指しています。

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