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STEM保育(保育アーカイブ)

保育の展示会で見えてくる動向

2024/01/23

保育園や幼稚園などの施設設備や保育遊具を製作したり、販売したりしている保育業者はたくさんあって、その中にも大手や中堅や小企業があります。それぞれ得意分野があったり、専ら販売だけだったりする会社もあります。今日は夕方から蒲田まで出かけて、保育教材の展示会を見てきました。

和紙の折り紙から創業した福井に本社のあるこの会社は幼稚園に強く、自分で幼稚園を運営もしています。広い展示会場には、園庭用の大型遊具や室内や屋上でもおける運動セットなどが所狭しと並べられていました。それぞれの開発メーカーの担当者が詳しく説明してくれます。当園に足りないかもという点を、このような展示会で気づくこともあります。

また、展示会は毎年開かれているのですが、継続して見てくると、その変遷から新素材の登場や流行している遊具がわかったりします。手作り遊具だけではできないような「付加価値」のあるものが開発されているのですが、幼児教育の本質を考えていくと、「それは、そこまでお金をかけなくても、これででできるな」ということも結構多くて、結局は自分たちではできない施設設備などに関心が向きます。

当園の藤森理事長が提案して商品化になったものも多く、例えば園内や園庭の「ゾーニング」設計の思想や、動線のコンセプトなどから、STEM遊具セットまで、色々なものがありました。

意外と難しい「音」をきくこと

2023/12/19

今日のお手伝い保育では「音」についての体験を試みてみました。3人の年長さん(すいすい組)を相手に、糸電話でお友達の声や、吊るした糸を伝わるスプーンの振動音、水を入れたワイングラスの共鳴音などを聞きました。

私の実験の意図は、子どもに「音」そのものを経験することは、どれくらいできるだろうか?と考えているからです。

私たち大人も幼児も、ふだん聞いている声や音は何にしても、そこに意味やメロディや象徴するものを「聞いて」いることが多いでしょう。音そのもの、ということがどういうことになるのか、そこも私もよくわからないとこが多いのですが、いずれにしても、できるだけ「音」そのものに注意を向けてみることができないだろうか?と思っているのです。

たとえば人の声は意味を聞いてしまいます。でも喉の声帯が振動し口腔や鼻腔で共鳴しているのですが、その「音」そのものは聞いていないのではないでしょうか。

(そこで、まず三人には私の喉を触ってもらい、ガギグゲゴと声を出してみるときに、のどがどう動いているかを感じてもらいました。そのあと自分の喉にも手を当ててもらい、おなじようにガギグゲゴを言ってもらいました。そのあと、ひそひそ話で話してもらうと、声帯が震えないことを感じてもらいました。あまりわからなかったので、次回はそこは工夫が必要でした)

例えば、遊びの中でよく登場する糸電話ですが、近くで二人がやっているのを見ると、糸はだらりとしていて、紙コップを耳に当てたまま喋っていたり、口に当てて「聞こえた!」と喜んでいたりと、まあ、実際には糸を伝わってきた振動を聞いているようには見えないことがよくあります。

もしかすると、糸電話の格好をした「電話ごっこ」をしているだけだったり、そもそもケータイで話す姿もあまりみなくなり(イヤホン越し)、ましてや聞く部位と話す部位がそれとわかる「受話器」は、もう見かけないので、糸電話が「聞く」と「話す」を同じコップを交互に使い分けること自体の意味がわかっていない可能性があります。ですので、年長さんでも意外とその面白さを知らないことが多いのです。

そこで、写真のように、こんなに離れてやってみました。しかも「ヒソヒソ話」で。確かにコップから声が聴こえた!という体験になったようです。3人とも面白い!といっていましたが、多分それまでの面白さとは違ったはず。

ワイングラスに水を注いて、指を少し濡らして、グラスの縁をゆっくりこすって動かすと、キーンという共鳴音がし出します。とても大きい音になるのですが、指をほどよい強さで押し付けながらこする力の加減がちょっと難しいのですが、「あ、鳴った」というときの感触を覚えていくと、鳴らすことができるようになります。3人とも鳴らすことができました。

それからやってみたのは、食具のスプーンを糸で吊るして、先端を輪にして指にひっかけ、その指を耳の穴につっこみます。そしてスプーン(フォークでもなんでも金属がいい)をたたいてみます。ぜひやってみてください。とてもいい音がします。お寺の鐘のようにゴーン、といつまでも鳴っています。

そして最後に、部屋のなかに面白い音がないかを探しをしてみました。今回は棒で叩く子が多かったのですが、いつも登っているネットを揺らしてみたり、階段の手すりを手で、こすってみたり、少し広がりも出てきました。偶然、楽器ゾーンにあったトライアングルも、スプーンを鳴らしたように触らないで吊るした方が良い音がする、と言うことに気づいたようです。

音探しから新しい楽器との出会いになったならいいのですが、どうだったでしょうね。

 

 

 

キャンディーの包み紙の工学

2023/12/08

こっちのキャンディーと、こっちのキャンディー、引っ張ると開くのは、どっちだと思う?

口で説明するだけでは難しいので、子どもたちにやってみせました。

制作ゾーンにおままごと用の、食べ物がたくさん作ってあって、その中に大量のキャンデイがあったからです。

ひねってある包み紙を引っ張ると、クルリと回って開来ます。

でも、もう一方の方はいくら引っ張っても開きません。

さあ、どうしてでしょう? というわけです。

これはエンジニアリングですよね。工学の話。

子どもたちはキャンディの包み紙を、大抵は右手で右回りに捻り、もう片方も同様にしてしまうので、開きません。開くようにするにはキャンディーの捻り方を反対にしないといけません。正確にはキャンディーを横向きに置いたとすると、輪切りにする面を基準に「面対象」(鏡に映ったよう)にすると開くのです。

あれ?と気づいた年長の女の子は、それを手にして何度も引っ張ってみましたが、何が違うのかわからず、捻り方の向きの違いには気づくことができませんでした。

ブンブン独楽も同じことなんですがね。

スローモーションで、何度も見れば気づくかもしれません。これもまた別の機会にやってみます。でも子どもの関心がそこに向かないときは自分から「どうなっているのか」その仕組みをよく見ようと思わないのです。無理もありません、どっちも中身が「取れたよ」という感じですから。笑

金魚の水替えの隠れた理科実験

2023/12/05

大人が普段やっていることを子どもはやりがたります。子供だけではできないので、その「お手伝い」という形でその一部を担ってもらうのです。今日は事務所にやってきた年長3人と一緒に、金魚の水替えと玄関に飾るリースづくりを手伝ってもらいました。子どもたちは、このような活動がとても好きです。どのような仕組みで成り立っているのかがわかり、自分で部分的にできるようになっていくことが嬉しいようです。

金魚の水を換えるとき、ホースを使って高い位置にある水槽の水を一旦、バケツに移します。棚の上にある水槽と床に置いてあるバケツは落差があるので、ホースで繋ぐと下に流れます。しかし子どもたちも「水が高いところから低いところへ流れる」ことは知っていても、あることが起きると、水が流れなくなります。「あれ、出なくなった」というので、どうしてかな?と考える時間をとります。

水槽とバケツを繋ぐホースは「逆U字の、山形」にどうしてもなります。ホースの中を流れる水は、高いところから低いところへ一直線に流れるのではなく、途中で一度、上り坂を越えなければならないのです。しかし、水槽の水面からホースの口が離れ、空気がホースに入り込むと、水の流れが途切れて、バケツへ水が出なくなるのです。その理屈が子どもにはわかりません。その現象をクリアするために、それ専用のホースには途中にポンプがついていて、バグバグすると一方へ空気を押し出す仕掛けになっています。灯油を石油ストーブへ注ぐための給油ホースと同じです。そこを子どもが「どうしてだろう?」と考えてみたくなるようにするには、透明なホースを使って、水の動きが見えるようにしたらいいのですが、今日はそこまでできませんでした。こんなことの中に小さな理科実験が隠れているのですが。

水槽のガラス表面が暗くなるのは、内側に「藻」が発生しているからです。その「藻」は別に悪いことはしないのですが、金魚が見えなくなってしまうので、定期的に洗っています。タニシを入れて食べさせるという方法もあるのですが、小さいタニシだと金魚が食べてしまうので、大きなタニシを手に入れるといいのですが。知り合いの田んぼには、オオタニシがたくさんいるのですが、その卵はピンクと紫が混じった毒々しい蛍光色をしていて、天敵に対して、いかにも「食べてもまずいぞ、毒があるぞ」と言うふうな意味を発信しています。

そんなことを思い浮かべながら水槽の水替えを手伝ってもらうのですが、水道の水にはカルキ(塩素)が入っていることを説明して、きれいな水槽に入った水道の水にカルキ抜きの液体を注ぎ、子どもにかき回してもらいます。そして最初に水槽からバケツに移していた元の水を戻します。水替えは3分の1ぐらいずつ取り替えます。一度に全部変えることはしません。透明な綺麗な水槽に戻りました。

この3匹の金魚たちは、子どもたちが朝夕、餌をあげていて、すでに4年ぐらい生きています。絵本「きんぎょがにげた」に出てくるパーツのモビールを吊るしています。

なぜ造花ではダメなのか?

2023/11/27

当園は造花はできるだけ使いません。それは「自然」ではないからなのですが、なぜ自然にこだわるのかというと、自然なるものを経験するのが乳幼児教育だからです。

子どもは自然とそうでないものの区別がつきません。自然の草花は季節によって変化します。今朝は幼児の部屋で先週から育てはじめたシイタケが大きくなっていました!

今の季節では例年よりも公園の紅葉は落ち葉が遅いのですが、その色の変化に気づいたり、地面に落ちている葉っぱを拾って触ったり、踏んでパリパリする音や感触を味わったりすることが大切になります。

毎年それをつみかさねているうちに自然というものが季節の変化とともにあることや、活きている物だから芽が出たり花を咲かせたり枯れたりすることに気づき、そこに子どもたちが、その子なりの好奇心から世界とかかわっていく可能性が広がっていくことでしょう。

サナギから蝶に!

2023/11/21

サナギになってしばらく経った今朝、やっと蝶になりました。

毎日のように観察していた子どもたちは興味深く見入っていました。

午後には羽を広げて羽ばたき始め、今は保育園の玄関を舞っています。

「お腹が空くから砂糖水を上げよう」と、葉っぱにチョンチョンと砂糖水をつけています。

羽を指で挟んでもたず、指先に歩かせるようにとまらせています。蝶への関わり方にも子どものやさしさを感じます。

青虫を室内に入れてみる

2023/10/31

いつの間にか日本の秋にハロウィーンが入り込み、保育園に大鷲神社から「酉の市」の知らせが届きました。毎年、熊手を授かるのですが、長袖のシャツをまだ腕まくりして仕事をしているというのに、もう正月への準備が始まる季節だということに驚きます。

子どもたちも散歩に出かけるときは、半袖の服に薄手の上着という身軽な服装です。その度に秋らしい物を持って帰ってきます。玄関にはアゲハの幼虫がまだみかんの葉を食べていて、丸々と太ったピカピカの体が蛹になる準備に入っています。

スーパーなど果物屋には、ちょうど色々なみかんが売られていて、今日のお昼ご飯にもみかんが出ました。まだアゲハの季節が続くのでしょうか? みかんの新芽の季節はとうに過ぎたので、もうすぐ終わりでしょうが、よく分かりません。でも、お迎えの時などに一緒に観察してみてください。この週末には蛹になり、来週後半には朝、室内を蝶が舞っていることでしょう。

遊びからの広がりの可能性をどう見るか?

2023/10/26

話は昨日の続きです。保育参観で私が見えた光景についての話です。

◆セロテープが溶けた経験の波及度

火曜日にセロテープをお湯に溶かしてストローになったことを面白がっていた年長の女の子は、担任によると、その後、お友達にそれを再現して見せていたそうです。また、そのお母さんは先ほど「保育園の科学実験の本のコピーを持って帰って、卵を酢に溶かしてみたりして、家中が酢の匂いなって(笑)」と報告してくださいました。家でも実験が続いているそうです。

今日はパンダの人形を作りたいという別の3歳年少さんと、ノリの無くなっている容器に水を入れてかきませていたら「とかしているの?」と聞かれました。何かを溶かすなんてことは、しょっちゅうやっているわけで、改めて人の行動と意味(意図)がセットになっていることは、相当小さいうちから(1歳過ぎから他者の意図に気づく)人間の得意技だったと思い出したのです。溶ける、という物理現象の意味を理解するのとは違いますが。

確かに子どもは絵の具でもノリでも、固まったものに水をかけて溶かすということは、これまでもたくさんやっているのですが、見慣れた状況の中で思い出されてくるものの繋がりを柔軟にするためにも、これも溶ける、あれも溶けるというようなことがたくさんあるといいのかもしれませんね。

◆場所は違っていても音の広い空間の中で参加していたダンス

ある風景や活動が、その子には「面白そう、なんだろう」と近づいて手にしてみたい、やってみたい、と思える情報になる場合と、そうならない場合もあります。さっきまでごっこ遊びをしていた子たちが、別の場所でリズミカルでアップテンポなBGMがなり出すと、年中の何人かはそれに加わらず、先生の膝の上で、じっとみていたり、トランポリンを続けて跳んで遊んでいたりします。ところが、別の曲が聞こえてくると、トランポリンに乗って、その音楽に合わせて体を動かし始めました。

参加していないように見えながら、場所は違っていても自分にとって心地よい場では体が動いているのです。また、他にも、輪になって「鬼さん、鬼さん何するの?」とみんなが言うと、順番に回ってくる子が「これするの」と思い付きの格好をするという遊びがあるのですが、それには加わらなくても、「これするの」の格好をカーテン越しに真似している子もいました。

写真は今日、おうちを作っていた年中さん。ダンボールを切る鋸と上手に使ってドアと覗き窓も出来ました。

◆スポーツやアートだとなると、社会に認められるという感覚

ボールを屋上で転がしている2歳の子がいました。ゴルフやカーリングやラグビーやサッカーなどのスポーツになると、「転がる物」の、物の特性が巧みに取り入られているわけですが、大人はそういう文化的区分に慣れているから、そこにつながるようなことなら「上手になる」ことに、俄然、情熱を注ぐわけですね。でも昨日のような「ガムテープ転がし」だとそうはいきません。

でも「ガムテープ転がし遊び」は、私には幾何学や工学につながる遊びに見えてしまいます。円柱の中心に棒を差し込むと車輪になる、というつながりを見出したり、といったことです。世界に広がっていく可能性のあるもの、とでも言えるのでしょうか? 例えば、きっとガムテープのような円柱でも、それを絵の具に浸して、手袋でもして大きな模造紙の上を転がしてみたりしたら、きっと大きな造形作品ができるでしょう。そうなると、わあっ、となってあたかも幼児教育をやっているように見えるのかもしれません。実際にやってみたいですけれど。

◆子どもの遊びの広がりや深まりをどう捉えるか

このように大人に受ける活動の枠を作ってしまえば、大人はそれとして受け止めるようになります。大人のわかりやすさ(意味づけ)は、こうしてステレオタイプ化して、それを乳幼児の遊びを侵食していくのかもしれません。あるいは何が世界に開けていく経験になっていくのかを、見極めていくようなことが大事なのかもしれません。砂場での遊びのようなことをもっと再評価する説明力が必要になってきているのでしょうか?

・・・「どういうような形から科学的実験的探究活動は子どもに意味があるのか。多分、そこからの世界の広がりがあるかどうかだとは思うのですが。どう具体的に実践で検討するか。」

最近、実験用スケッチブックに書き込んだ言葉です。ここに立ち返って考えることが当分続きそうです。

 

子どもはガムテープを転がして遊ぶことができる

2023/10/25

◆保育参観でよく見かける子どもの姿

今月10月は「保育参観」が連日行われています。保護者の方が自分の子どもがどんな風に生活しているのか、遊んでいるのか、あるいはどんな風に食事をしているのか、寝ているのかなど、時間帯を選んで参観されています。散歩先の公園まで着いて来てみてもらうこともあります。今日は午前中は乳児は室内から屋上へ、幼児は戸外と室内の行き来がありました。乳児は子どもにみつからないように参観してもらう、というのも保育園の特徴かもしれません。

そこで必ずといっていいほど、家庭と園では見せてくれる姿が違うという話が出てきます。先日も年長の女の子とが「レバーのマリアナ風(ケチャップ味)」を、「美味しそうに食べていた、お代わりまでして!うちではレバーとかは絶対食べないのに」と驚いていらしたり、今日は0歳児クラスの赤ちゃんが屋上の野菜のナスをちぎったり、花壇ではなくビオトープの雑草(猫じゃらしやパンを上手に前歯でかみ切って食べている様子をご覧になって「毎日の写真もありがたいが、やっぱり実際の動きをみてよくわかった」という感想を語られていました。

◆環境の違いからくる子どもの「やりたがり度」

それは最も大雑把に言えば、家庭と園の環境が違う、というということですが、同じ保育園の中でも、同じ子どもが「そっちはやりたがり、でも、こっちは興味を示さない」というようなことが、その都度いっぱい起きています。今日はダンサーの青木さんたちもきて、身体を動かして遊ぶ時間もあったのですが、そういう活動に入ったり、入らなかったりする子どもの様子を私もみていて、このことを改めて考えてみたいと思いました。

その差は子どものさまざまな欲求(生理的欲求や社会的欲求)や、知的な興味や関心、それらを含めた個別の「発達の違い」などと言われているものを中心に捉えることが多かったように思うのですが、それだけでは捉えにくい姿が実際には起きていそうです。つまり遊びをみていると、子どもの内面や心理などの子どもの内側のことに主たる要因を求めるのではなくて、「同じ子ども」が新しく出会う「環境」と子どもの間に実際に起きていることは、別様の説明がいるのではないか、という感じのことです。特に遊びにおいて。

◆ガムテープを転がして遊ぶ姿

ある3歳児クラスの子たち4人ほどが、制作遊びで使うガムテープを床の上で転ばし始めました。タイヤの輪のような向きに転がせば「よく転がる」ということを、わかっているのか(気づいているのか)、わかっていないのか、録画していなかったので、今思うとそれはよくわかりませんでしたが、主に当てずっぽうに、放り投げたりしているように見えました。あわせてキャッキャと騒いで、自分の体も楽しそうに跳びはねています。いつもいる仲間と一緒にやっていることも楽しいようです。ガムテープは時々遠くまで転がったり、ぐねぐねと曲がったり、パタンと止まったり、カタカタと回ったり、緩やかなカーブを描いて戻ってきたり、しています。担任は「あ、戻ってきた!」など、多少演技性を発揮して注目してほしい現象をわざと言葉にしていましたが、子どもは特にそこに面白みを感じ取るわけでもなさそうです。

◆何が面白いのだろう?

自分の手で放られて離れ、ガムテープが床に着地するときの勢いや向き(面)で、転がり方が変わるわけですが、ガムテープという穴の空いた短い円柱という形は、重力下の平面の上では、力を加えると、このような色々な動きをします。これまでにも、この子たちは、いろんなものを同様に投げたり転がしたりしてきたわけですが、そういうことを繰り返しながら、ボールとも風船ともシャボン玉とも違う、物の動きをそこに見出して(意識して比較してはいないのでしょうが)、物の形が持っている特性を、物の動きの中からピックアップしていく、その情報を取り出しているということをやっているのでしょう。そのつながり具合の中に言葉などの象徴的な記号も含まれていくのでしょうけれど。

ガムテープという、子どもが手にして投げることができる程度の大きさと重さ、そこにちょっと広い床があって、自分で難なく操作できるということが、その動きを誘発しているかのように見えてきます。そのものがアフォードした動きが子どもたちの間に生まれた、という見え方できるのでしょう。まずはそうした場が持つ、ある種のエネルギーのような空間を用意してみて、子どもがそこにどういう動きを誘発されて見出していくのかを見てみたくなります。

◆大人が期待することと子どもの遊びのズレ

ただ大人は、普通こんなことしません。ピタゴラスイッチの番組を作っているような人や、SNSでガラス瓶を階段から転がして割れる動画を作っているような人ならともかく、よっぽど暇でもなければ、ガムテープを転がしてみるという遊びなどはしません。それは、しなくても、どうなるかは大体予想がついているから、あえてどうなるか、やってみたいとは思わないのですが、またそういうものは用途が違う、そんなことはしないでほしいもの、だからです。

あえてやったとしても、こんなとき大人が思う「面白さ」は、どうやったらもっよ「よく転がる」か、というあたり向かいがちです。あるいはどうやったら高く積めるかとか、綺麗な形になるとか、大人はそれを思わず期待してしまいます。でも子どもは、あたかも大人のいう実験のように意識して試すというほどの意識もなく、ちょっとやったら面白そうだから、また続けてやってみるという感じで、自分の体も物も勝手に動いている感じです。そして実際に、子どもたちは飽きたら何もなかったように他のことに移っていきました。この話は、明日に続きます。

 

 

チョコが溶けてセロテープがストローに変身した

2023/10/24

毎週火曜日の午前中は、年長さんが3人ずつ3グループに分かれて、いろいろなことをします。私が相手をした3人はNK さん、NYさん、KSくんの3人でした。乳児用の遊具作りや生き物のお世話、装飾のお手伝いなどをしてもらうのです。今日は子ども用の実験セットを準備する予定だったので、それを手伝ってもらったのですが、その前にある実験をしてみました。この子たちは科学とか実験とかが好きなんです。そこで私が選んだテーマは「溶ける」です。

子どもの身近な生活の中には「溶ける」という現象がいたるところで起きています。しかし、同じところに重なっている存在の現象は難しいのです。三様態も見えない気体が液体になる「結露」とかも難しい。「コップの中の水が伝わってこっちにきた」と言った理解をしていることを、この日記で報告したことがあります。

でも、子どもなりに面白いと思うことがないかと考えていたら、昨日月曜日の夜のテレビで、美味しさを競う料理番組があり「口の中で溶ける」という話をやっていて、そうか!と思い至りました。毎日食べているものが口の中で溶けるということなら、子どもは体験している。それを目の前で再現するというのはどうだろう?

すると今朝、保育室にあった本に「マーブルチョコレートがお湯に溶けて花びらの模様を作っている写真」が目に入りました。そこで早速やってみたのです。近くのコンビニにそれを4人で買いに行き、紙皿に「近い色の順番に」並べます。(写真1)

それに電気ポットで沸かしたお湯を、紙皿中央にゆっくりと注ぎます。するとチョコのコーティングが溶け出して、綺麗な模様ができ、3人から歓声が上がります。(写真2・3)

お箸で一粒ずつをひっくり返してみると、裏側が白く、色がなくなっています。このあたりからICレコーダーもオンにして会話を録音します。「白くなってる」(コーティングしている色が溶けて、下地の白が出てきている)「チョコが目みたい」(紙皿と接触していた部分が解けずに白い下地にポツンと残っているから)などと色々言います。でも溶けたという言葉は出てきません。そうか・・と思いつつ、これが口の中でも起きているんだよね、と話を進めて、一粒ずつ舐めてもらいました。3人とも、こうなることを最初から期待していたので、超ご機嫌です(笑)

ザラザラしてきて、ツルツルしてきた頃に鏡で口の中を見てもらうと、白くなって舌の上に乗っています(写真4)。

チョコは口の中で溶けるということと同じだとは、あまり感じないように見えましたが果たしてどうだったのでしょう。

今度は、透明アクリルのコップに一粒ずつ入れてお湯を注ぎ、割り箸で混ぜると、色水になって、白い粒が溶けずに残ります。どうも白い部分は色のところより溶けにくいようです。

その次に、どうして「トイレではトイレットペーパーじゃないといけないの」という私からのお題です。コンビニに行く途中でもらったポケットティッシュとトイレットペーパーを、溶かしてみました(写真5)。

すると結果が歴然で、ティッシュは水にほぐれることもないのですが、トイレットペーパーの方はドロドロ状になっていきます。これは厳密には溶けるということではないのですが、NKさんは「溶けた」と言い、NYさんは「わかった、トイレが詰まるから」という話まで結びつけています(写真6)

その後が面白い展開になりました。3人とも他のものではどうなるのかをやり出したのです。石を入れたり、砂を入れたり、そしてNKさんが面白いことを発見しました。セロテープを数センチ入れたら、「みて、みてストローになった!」というのです(写真7)。

私もそれは驚きました。そして混ぜ続けると、透明なセロファンになって「こうなったよ。でもくっつかない」と広げて見せてくれます。ノリが溶けてただのセロファンになったようなのです。私もそれは予想していなかったので、自分でもやってみましたが、確かにそうなるのです。

クラスに戻った3人について、担任は「またやりたい、すごく言っていて、とても面白かったようです」とのこと。チョコレート効果ではないといいのですが。このような活動は、少し大人側が主体性を発揮して活動を構造化する必要があるのですが、これまで絵の具や花びらで「色水あそび」はやってきたものの、それは色が変わる、綺麗になった・・の方へ注意が向っていたのですが、解けること自体に関心を持って「じゃあ、これはどうだろう」と試してみるという自発的な探究へ向かうには、そこまでの〈滑走路〉が必要だという感じがします。

こんなことを、いろんな場面で何度も繰り返していくことで、どうなっているんだろう?いいこと思いついた!(今日も数回、どの子からも、この言葉が出たのですが)という活動が増えていくのではないかと感じたのでした。

 

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