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2022年 11月

11月24日昼食

2022/11/24

パン

グラタン

オニオンサラダ

白菜のスープ

キウイ

麦茶

子どもが子どもを理解していることへのまなざしを

2022/11/23

(今日はですます調ではなく、である調で始まります)

22日火曜日のこと。子どもの泣き声がする。まさに倉橋が書いている廊下の描写のように。

彼女は泣いて訴えている。春に満4歳になった女の子が「 ◯◯コちゃんのママがいい」と訴えている。「いい」というの中には、「まだいて欲しかったのに、どうして帰っちゃったの」という気持ちが含まれている。保育園の玄関で、お友だちもそばで泣き止むのをじっと待ってくれている。子どもたちは何をいうでもなく、頭を撫でてあげたり、どうして泣いているのかを大人に説明してあげているだけ。子どもの方が<気が済むまで、そうしていていいよ、だって寂しいんだから、しょうがないじゃん>といった風に納得している。私にはそういう風に見えた。もし困っていたら「先生」と言いにくるからだ。

その「子どもの子ども理解」。つまり子どもが他の子どもをどう理解しているか、ということをもっと知ってほしいと、子どもと一緒にいる私などはよく思う。心の安全基地は大人だけじゃないよ、って言いたくなることも多い。子どもの世界で起きていることをちゃんと事実としてみてほしいと。でも、それがそう簡単でないことも分かる。なぜなら、子どもが泣いていると、どうして泣いているのかを聞こうともせずに「はい、抱っこ」といって、連れていってしまう大人が多いから。それをそばで見ている子どもが「あ、待って、連れていいかないで!」と言ってくれるならまだしも、そんなことをする勇気は子どもにはまだない。

でもそれが5歳になってくると「先生はまだいいから」と言ってくるようになる。子ども同士がピーステーブルで話し合っていて、なかなか終わらないような時に、どう?って聞くと「もう少し」とか、教えてくれる。子どもたち自身が先生は、僕達のことをちゃんとみて、待ってくれて、困った時は助けてくれる、そういう距離感を知っている。

ところが大人は、子どもが子どもを見守っているというようには見ない。泣いていたら直接関わりにきて泣き止まそうとするし、またそれが世間一般ではそうだから、それが間違いとも言えず、泣いているそばにいる子どもが、まさかじっと待ってあげているなどと想像できないのだ。それも分かる。だから気のいいパートさんに、その関わり方を伝えるのに苦労する。

今回は、その子も周りの子も私の関わり方を知っているから、私ももそばに寄っていって「どうしたいの。助けてあげるよ」と言ってみるが「ううん」と首を横に振って助けはいらないと拒まれる。まあ、そうだろうな、それでいいよ、とうなずいてあげる「わかった」と。さっきまで木場公園で一緒に遊んでもらっていた「◯◯ちゃんのママがいいんだよね、戻ってきてほしいよね」と言ってみる。なんとも言わない。大人が気持ちがわかったからって、そう簡単に泣き止むもんじゃないよ、共感してあげたら泣き止むとでも思っているの!と感じただろう、きっと。すごく賢くて繊細なんだから。

ただ、彼女は私の言葉に否定も肯定もしないので、少し彼女の気持ちに近いところまで近寄れたのかもしれないと思う。私は「じゃ、一緒に◯◯ちゃんママのところに行こうか」と言ってみる。チラリと私を見るが、もういい、という風に「いや!」という。そう、それも嫌だよね、そんなお節介も嫌だよね。

私は心配してそばにいた子どもたちと一緒に、期限が過ぎた掲示物を外して、その紙をビリビリ破って、小さくしては花吹雪を作り始めた。飽きていた子どもたち二人が、その遊びを嬉々として始めた。

内心、もちろん彼女の気が紛れて機嫌が直らないかなあ、と願って、そんなことを始めてみたのだが、それまでの彼女との会話も手伝ってくれたのか、あるいは私もそのビリビリに熱中していたからか、ふと気づくその子も、じっとそれをみていた。もう泣いていなかった。どうして泣き止むことができたのかはわからない。

彼女の「訴え」は、誰かに向けられているものではあるが、研究者たちは私が二人称的に関わったからだと解釈するだろうか。そうだとしたら、子どもも一緒に、その二人称的関わりの一部に入れてくれないかしらん。それも解釈としてはありの理論にしておいてもらいたい。望むものが「訴え」を経て共有されて、望ましいへ変化するのだとしたら、日本的曖昧さの中庸的共有みたいなものがあるのかもしれませんが。

柳森神社へ

2022/11/23

ぐんぐんさんとちっち組のちはるちゃんで、久しぶりに柳森神社へお散歩に出かけました。

お砂場セットを持っていくと、さっそく砂利で遊び始めます。

砂場の砂のように、型ができるわけではないけれど、子どもたちの想像力でいろんなお料理を振る舞ってくれました。「トマト」「ケーキ」「こいのぼりのごはん」・・・。
(今年のぐんぐんさんは、どこまでも「こいのぼり」がブームでしたね。いまだに「こいのぼり」の歌のリクエストがきます。笑)



かほちゃんが「お皿ほしい〜」と探していると、「お皿ほしいの?」とやさしく聞き取って、一緒に探してあげるさらちゃん。
結局、かほちゃんが欲しかったお皿は見つからなかったみたいですが、一緒に探してくれたさらちゃんのそのやさしい気持ちに、かほちゃんもホッとしたのではないかなぁと、ふたりの姿をみて思いました。

こうすけくんは赤いスコップを探していました。すると、こんどはかほちゃんが「赤いのほしいの?」と聞き取って、近くに落ちていたスコップを見つけて渡してあげていました。



取り合いっこも多いけれど、こんな風にお友だちの姿に気が付いて、手を差し伸べようとする姿もすてきですね。

ちはるちゃんは、まおちゃんの帽子を拾うと『どーぞ』と渡していました。


そして、手渡したあと、自分で「あっとー(ありがとう)」と言っていました。(笑)

神社の探検も。

お水冷たいかな?

ねこを見つけました🐈‍⬛

さゆきちゃんは、キツネの像に向かって「バイバーイ」と手を振っていました。「きつねさんバイバイって言ってた?」と聞くと、ウンウンとうなずきながら「うん」と教えてくれました。ふたりでおしゃべりしていたみたいです。

こちらはメダカを見つけたようです。

「おさかなさん、びっくりしちゃうよ」とこうすけくん。

 あっ。思わず手を入れちゃった!

 

「神さまに、いつもありがとうって、ご挨拶するところだよ」と手を合わせていると、一緒に手を合わせて、「いつもありがとっ」。そして、「いっぱいねて、ごはんたべてねー」と、神さまにお話していたかほちゃんとゆうかちゃんでした🤣

たっぷり遊んだ帰り道。先生と手をつなぎたくなかったり、途中でおもむろに靴を脱ぎ始めたり…。保育園まで長い長い道のりでしたが、そんな様子を道路の向かいからボタンやさんがニコニコ見守ってくれていました。いつもみんなをやさしく見守ってくれているボタンやさんです。

わいわい組は初めての冒険ひろば

2022/11/22

園庭のない保育園。だから木場公園は我らが園庭。3歳児クラスわいわい組が初めて木場公園の「冒険ひろば」で遊びました。

ここは、くぬぎやこなら、桜やいちょうが立ち並ぶ雑木林の中に、色々な大型遊具が配置された都立公園の一部。2歳児クラスから年長さんまで、思う存分からだを動かして遊びました。

真っ青な空を背景に紅葉が美しく、それだけでこういう場所にきた甲斐があるというもの。子どもたちはひとしきりすべての遊具で遊んでみると、お気に入りの遊びを続けたり、自分たちで鬼ごっこをはじめたり、落ち葉を拾い集めて大きな山を作り始めたり、思い思いの世界を深めていきます。

今日は年長組の保護者も3人参加してくださり、一緒に遊んだりしていただきました。こんな感想をいただきました。「子どもたちはかわいく、先生方は子どもたちのお手本となる素敵な方々で、とても楽しく、癒やしの時間でした。(まだ参加されてない方優先ですが)また参加したいと思っています。」(年長)

一方、2歳児クラスの子どもたちは、冒険ひろばとは別の芝生ひろば方面で遊びました。花壇や噴水の周りを歩き、途中に色々なものを見つけては、見入ったり、手にしたり。こちらも保護者からこんな報告をいただきました。「ドックランがあることを見つけて、柵の外から子犬が遊ぶ様子をみたり、綺麗に紅葉していた銀杏の木の周りを探索して遊びました。黄色いモンキチョウを見つけて、Fちゃん達と追いかけてたくさん走ったり・・池に枝の長い葉っぱを垂らして釣りをしたり・・「もっとあそびた〜い」というくらい満喫していました。」

同じ体験でも、誰と一緒かで随分と内容がかわるだろうことは想像できます。休日に親子で遊んだ場所も、保育園でお友達と一緒と過ごせば、かかわり方が違ってきます。保育園でいつも行っている公園もお母さんやお父さんが一緒となれば、遊び方も変わりそうです。

考えてみれば、それはそうです、人的環境が変わるわけですから。冒険ひろばで、氷鬼の鬼役をやって楽しかったと語ってくださったお母さんはお迎えの時「今日はぐっすり眠りそう」と心地よい疲れのご様子。親子ともども、いい思い出にもなったことでしょう。

「千代田せいが保育園に集う親の会」の愛称を募集中です(12月4日まで)

2022/11/22

(コドモンと同じ内容です)
「千代田せいが保育園に集う親の会」は、基本的に参加は自由で、その会から提案されるお手伝いや活動はその都度、募集します。みんなで楽しいことを企画・運営しましょう。つきましては、その名前の愛称を募集します。こんな理由から、こんな名前がいいんじゃないか、というアイデアがあったら教えてください。一応の締め切りは12月4日(日)までです。そこで集まった愛称を公表し、投票などで決めたいと思います。いま自然発生的に使っている愛称は「しずくの会」です。参考まで。

11月22日昼食

2022/11/22

ルーロー飯

わかめのスープ

もやしのナムル

バナナ

麦茶

生きる力の使い方が間違っていると思う理由

2022/11/21

私は12歳から13歳の頃、自律神経失調症にかかりました。全身の感覚がいや〜な感じになって、恐怖に襲われるのですが、それが定期的にやってきます。言葉では伝えられず、親に言っても心配されるだけで困らせることにしかならないだろうと分かるので、その苦しみは結局言えませんでした。雑誌に載っていた広告を見て、あるカセットテープと鈴がセットになった何かのセットを買って、寝る前に「右手が温かい、重くなる、左手が温かい、重くなる・・」のような自己暗示をかけて、リラックスするというのを毎日やってました。その不安感がくるときは予兆があって、「あ、来そう」というのが分かるのですが、それがくると自分の部屋で紐のついて鈴を目の前に垂らして、じっと見つめて「右に回れ、右に回れ」のように念じると、鈴が回るということをやってました。

いつしか症状は無くなったのですが、一度だけ母親が心療内科に連れて行ってくれたことがあります。それで何がどうなったのかは覚えていませんが、自分が何かの病気かもしれないということに、直面したことをよく覚えています。子どもは状況で物事に直面するのです。その状況というのはとても雄弁で、直接私に「体験」させてしまうものであり、その後で、その意味や解説や何かがついて来るだけです。その意味は、後になってよく分かるようになっていく、ということが物事の大抵の理解です。私の父親が戦争でラバウルにいき、朝「さらばラバウルよ〜」の歌を歌っていた心情も、後になって理解できるようになっていきます。

そのことを大人になると、錯覚してしまうのです。体験は言葉で説明できると思う人が出てきます。体験に含まれているであろう意味を先に取り出して、体系化して教えることができると、錯覚してしまうのです。それはできません。こっち方面です、とガイドはできても、体験はできないのです。言葉で説明された事柄だけでは、その意味は体験できません。こう書くと当たり前すぎる話に聞こえてしまいますが、教科書で体験に代わるものにはなり得ません。

身体は体験するようにできているのに、頭がその体験を分析的に理解しようとするので、頭は一部分しか体験できません。一旦分解しても全体ではないので、統合しようとしたがるのですが、それはいつまで行ってもできません。そのことを承知の上で、学問なり研究なりをされている方と、そうでない方は、自身の営みに謙虚かどうかですぐにわかります。わかっている方は慎重で繊細なのです。

そういう人間の限界という事情もあって、メタ認知が大事だとか、何々がこうだとかの知見が、なぜそうなのかを納得できるように説明していくことが大事だと思っていて、それはとても難しいので、引用したり、〜だそうだ、と伝聞で伝えるしかないことも多くなります。しかし、そういう意味では分かることとわからないことの境目にとても注意を払って生きてきたように思います。

そして、その説明のない教育のあり方が、多くの子どもを苦しめているように思えて仕方がなく、随分前から子どもそのものの在り方から、そのように学び続けることができる教育に変えたい、変えたいと願って、この仕事にたどり着いたという経緯があります。「おばあちゃんの作ってくれたカレー、美味しかった」と書いて命を絶った中学生のことが忘れられず、そうなってしまう生き方に追い込まれていまう若い人たちが、一人でもいなくなるようにしたい。ですから若い保育者や学生に「保育はこういうものです」と説いている先生に、どうしてそう言えるのですか?と聞いて、実はそこがまだよくわからないところなんです、一緒に調べましょう、と言ってくれる先生に出会うとホッとします。

今夜はそういう方々と火を囲んで心を温めることができました。このような方々は本当にありがたいです。

11月21日昼食

2022/11/21

ふりかけごはん

たらの西京焼き

ひじきの五目煮

もやしとわかめの味噌汁

麦茶

オレンジゼリー

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