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10の姿(保育アーカイブ)

ハッと気づいて、なるほどと思ったこと「お盆を自分で戻したい」(イ 自立心)

2025/06/18

今日、私がハッとして、なるほど!と思ったこと。

昼食を子どもたちと一緒に食べていたら、私の後ろで2歳児クラスの子(2歳4ヶ月)が、大声で泣き出したので「なんだろう?」と振り返ると、先生が「ああ、ごめんね、自分でやりたかったんだね、ごめん、ごめん」と、その子に謝っています。自分でやりたかったこと、というのは「ごちそうさま」をして「自分のたべた茶碗やお皿やコップなどが載っているお盆を自分で運んで机に乗せたかった」のです。

私の後ろがちょっと狭くて、お盆をもってその子がそこを通る時に、先生がお盆を落とさないように持ってあげて、配膳台の机に運んであげたのでした。子どもの手からお盆が離れて、机に置かれるまでの時間は数秒、距離にして1メートルもないほどのことなのですが、その子にとっては、自分のやりたかった意思が阻まれてしまい、抗議の声を涙ながらに発した、という場面だったのです。

この先生が偉いなぁと思ったのは、心を込めて謝っていたからです。もしかすると「それくらいのことで、怒らないでよ、先生だって危ないかな、と思って手伝ってあげたんだから」。多くの人はそう思ってしまいかねない場面でした。

私も実際に、そういうことでも、自分でやってみたいんだね、かわいいなあ、と思いました。でも、冷静に考えてみると、どうしてそんなに怒ったんだろう? どうして、それをそんなにやりたかったんだろう?と想像してみることが大事なんだな、と改めて気付かされました。というのは・・・そういう気持ちにらなる理由が、ちゃんとあったからです。

私が「そうことで泣いてしまうなんて、かわいいよね」というようなことを言ったのです。すると先生は「今日、〜くん、下で初めて食べたんですよ」と教えてくれました。彼は食べ物のアレルギーがあって、他の子どもたちのを間違えて食べないように、彼専用の高いテーブルと椅子で食べていたのです。それが初めて今日他の子どもたちと一緒に並んで食べて、嬉しかったに違いないのです。

そして自分でも「あれ、やってみたいなあ」と思っていたことが、いろいろあったかもしれないのです。その一つが自分でお盆を片付けてみること、だったのでしょう。

「おかわりもしたんですよ」と先生から教えてもらいました。これまでは先生が運んであげていたのですが、今日は自分の椅子から立ち上がって、席から離れ、お皿をもって歩いて、おかわりもよそってもらい、自分の席にまた戻ることができたのでした。

自分でなんでもやってみたい時期の2歳児クラス、というのはよく言われることなのですが、まさにそういうやりたいことの意思がはっきりと表明されていたことになります。子どもは独立した人格と尊厳を持つ主体なんだ、ということでした。

赤ちゃんの積み木遊びの見え方(カ 思考力の芽生え)

2025/06/11

子どもは目新しいものに目がありません。ちっち組で新しく提供した積み木のおもちゃに、興味津々で遊んでいる様子が報告されています。牛乳パックの中に詰めて、布を貼った立方体や直方体や円柱の積み木です。赤ちゃんが何か物を目にすると、なんだろう?と興味を持って、触ったり、持ち上げたり、落としたりしてみることがよくあります。物にはそれぞれに、こういう使い方をするという、作った人の意図がその形にデザインされています。

たとえばコップは中に液体を入れることを想定し、それを人が片手で持つことを前提にした大きさになっていて、口で飲むことがやりやすい縁だったりします。皿にしてもスプーンにしても、あるいは椅子やテーブルにしても、それぞれの使われ方が想定されています。物に目的とか操作性とかが、大人にその意味を伝えてきますが、赤ちゃんはそれを意識しないで関わる対象の場合と、ちょっと「これはなんだ?」と意識的に関わる場合がありそうです。今日の初お目見えの「積み木」は、それになります。

大人でも過去に見たことのない珍しいグッズやデザインに出会うと、興味を持ちます。自分の関心のある分野だったり、向こうから否応なく刺激してくるものなら、そのものに巻き込まれてしまいます。今朝、靖国通りを歩いていたら、2台のランボルギーニが青信号になるや、爆音を轟かせて発進したので、見入ってしまいました。車の運転方法と居住体感は、普通のセダンとは全く異なるでしょう。私にとっては未知の世界です。

赤ちゃんにとっての積み木も、未知の世界。赤ちゃんよっては、どう関わっていいものかも、当初は見当もつかず、恐る恐る触ってみるというあたりから接近していき、持ってみる、置いてみる、思わず落ちてします、ボールと違って転がらずに止まる・・・といったことぐらいから始まる場合もあるでしょう。似たようなものをすでに知っているなら、それとの連想から、きっとこうじゃないか、というイメージをもって関わり始めるかもしれません。

先生が積み重ねる様子を見て、ほう!そういうことができるのか!と真似してみる、というあたりから、今日の報告は紹介されています。積み重ねて崩れたことが面白いという様子が描かれています。

このことを最近の保育での言葉の使われ方、物事の捉え方に即して説明し直すとこんな感じになるでしょうか。

私たち大人は例えば「崩れた」という言葉でその現象を表現してしまいますが、つまり、そういう概念で世界を切り取ってしまいますが、そういう言葉の意味をしらない赤ちゃんにとっては、現象そのものが発する動きや音が、それはそれそのものとして目の前に展開されたこと自体との関わりが起きています。(どうしても回りくどい言い方になっていまがちですが)

積み木が崩れたという事態そのものをオノマトペで表すほうが、言葉以前の事態そのものを表せるとするなら、思わず姿を現してくる積み木周辺の事態が「グチャゴロン」となったことが、わあ、なんだこれ、おもしろ〜い!という世界との一度きりの出会いの瞬間でになっている、とでもいえばいいでしょう。

すると、きっと、またやって!と繰り返しながら、その世界が好きになっていき、どうやったらまた「グチャゴロン」が起きるかと、そのことに意識を向けて手が伸びていったと、捉えることもできます。

また「世界には深さとか広がりがある」とよく言われるのは、こういうことなのでしょう。積み木はどこまでいっても積み木なのですが、そのものが置かれて子どもが関わるとき、その子にとって起きている現象世界は、その子にとっての独自のなにか新しいことが世界から開示されている、あるいは新しい世界を発見している、ことを体験していることになります。

世界との関係を、このように能動的にでも、受動的にでも、どちらでもあるようで、ないようなあり方で、体験していくように見えてくること。つまり、私たちが使っている言葉は、直線に並べていかないと意味が通じないので、どうしても、そのような言葉遣いになってしまうわけですが、世界はそのように直線的な表現で表せるものにはなっていません。もっとトータルなことがいっぺんに起きています。

ですから積み木とそれが置かれた状況、そして積み木を積み重ねて遊んでいる子どもという主体の関係がどうなっているのか?という説明をしようとしたら、こんな感じになるでしょう。

そばにいる先生の真似をしてやってみた積み木とのかかわりで生成されていく事態がどういうことになっているのかを説明しようとすると、子どももその世界の一部となって、それを成り立たせている空間にはさまざまな要素というか主体(エイジェンシー)が影響し合っていて、そのうち主だった主体である先生、子ども、積み木という主体に目をやるなら、意図をもつ先生が引き金になって、相互に織りなす、協同的に世界が生成されているという言い方になっていくでしょう。

そして、その生成していくプロセスを、見方・考え方や資質・能力や3つの関わりの視点や五領域で捉え直すこともできます。

誰も何秒後に積み木の重ね合わせと崩壊が起きると予想することなどできず、「図らずも、思わず、偶然に」などと形容される事態のなかで起きてしまっていく事態なので、それらを生成するというように見えてくるというわけです。こういう事態が最もよく見られる事は、私たちが「遊び」と呼んでいる事柄なのかもしれません。

カブトムシくん、こんにちは!(7自然との関わり・生命尊重)

2025/06/09

6月になるとカブトムシが地面から顔を出します。それを触ったり、木の枝につかまらせたり、餌をあげたり、いろいろなことを子どもたちがやっています。ピカピカの背中、ゴツゴツとした角や足、もつとその力強さが伝わってくるのでしょう、カブトムシと子どもとの間に、さまざまな応答がなされています。

2歳児クラスでも、カブトムシが登場。恐る恐る見ている子もいれば、ちょっとだけ「ちょん」と触ってみたり、堂々と、どうだ!とばかりに持ち上げている子もいます。いろんな子の、いろんな側面がカブトムシの出会い方にも現れていていて面白いです。

でもぼく、もうかえるんだよ(ケ 言葉による伝え合い)

2025/05/21

さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。

するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。

このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。

それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。

「でもぼく、もうかえるんだよ」。

先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。

でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。

相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。

 

真剣に楽しい一本締め(コ 豊かな感性と表現)(ウ 協同性)

2025/05/16

金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。

どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。

私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。

面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。

 

豆の料理から受け取る意味と言葉(10 豊かな感性と表現)

2025/05/14

今日は豆(そらまめ・グリーンピース・いんげんなど4種類)を食べ比べてみました。やる流れはだいたい毎回同じなので、省略しますが、今日の午後の振り返りで私が「面白いなあ」と話題にしたのは、次のようなことでした。

(1)江口さんが「つぎ、これ、〜していいかな?」ときくと、子どもたちは「いいよ〜」と答えます。料理ですから、洗ったり、下拵え(筋をとったり、へたを切ったり、さやを開いたり、中から豆を取り出したり・・)や、茹でたり、焼いたり、切ったり、さらに盛り付けたり、いろいろな手順があります。そのたびに「こんどは、こうしてみるよ、いいかな?」という感じです。

月に1回ですが、にこにこ組(2歳児クラス)の子どもたちも、毎回のように出てくる「茹でる」「焼く」のパターンへの見通しがでてくることでしょう。

今日も包丁を出してきてまな板のうで切ったり、いろいろやって、こんどは「じゃあ、これ、焼いてみるよ、いいかな?」。するとまた機嫌良く「いいよ〜」と返事が返ってくる。その繰り返しが、何回かも繰り返されていきました。

この応答は、<質問と答え>ではなくて、これからやるに決まっていることに、あえて同意を確認しているような感じです。よくみててね、という意味もあるし、さあ、どうなるかなやってみるよ。という意味でもあります。ようするに、これからこんなことをやるんだけど、みんなも一緒にやるつもりになってね。という感じです。

子どもたちが実際に自分でやってみたいと思っているはずなので、子どもが自分できる「子どもクッキング」は危なくないもの(梅ジュースを作ったり、振ってチーズを作ったりなど)は別の機会にやっていきますが、この味の探究は野菜が中心で、その新鮮な素材の味をできるだけ、そのまま味わうというねらいなので、シンプルに茹でる、焼くということが中心になります。というわけで、子どもは火傷などしないように、そばで観察することになります。

「いいよ〜」。という子どもたちの声。とても可愛らしい声なので、その雰囲気を動画でお伝えしたいほどなのですが、その姿は、まるで子どもの好奇心がむくむくと芽をふいている瞬間のように感じます。

これから始まる出来事へ身を乗り出しているときの集中。こんどはどうなるだろうという興味。「どうなるかまだわからないけど、うん、やってみて、ぼく興味あるから、ぜひ」。そんな、集中力を感じて、見えいて気持ちいいのです。担任によると、2回目なのに、この時間を待ち遠しく感じている子もすでにいるらしい。

(2)もう一つ、感じたのは、世の中の出来事について言葉で表されることはほんの一部でしかないということ。豆にはそれぞれ名前が付いていること。子どもにとっては初めて出会っている目の前の景色のなかから、名詞や動作や形容詞やオノマトペがそれぞれの瞬間に聞こえてきて、世界がそれで文節化されて、そこに何かの一貫性を子どもがみつけていくこと。

もちろん数回の経験で文節化されていくのではなくて、何度も何度も繰り返される事象のなかに生きていくことを体験しながら、そのなかで「そういうことか!」「わかった」と、明瞭化されていくようなことなのでしょう。意味が生まれていく過程を体験していることになるのでしょう。

他の言い方にしてみると、目の前に展開されている世界から、料理の過程の中に言葉のルール(言語ゲーム)を大人が取り出してきて、世界と言葉がセットでふるまいのなかに意味を立ち上がらせていく、ということでしょう。子どもにとっては「そこか」とか「そうなんだ」とか、一つずつそのセットを自分の中に取り入れていく。こうやって、こういうときはこうするものなんだということに慣れていくのだろうと感じます。

この場合は野菜の匂い、音、色そして味などについて、そのことに言葉がくっついて何かのふるまいがなされていきました。

(3)関わりながら、好きになり、もっと〜という流れが生まれていくこと。世界なかから取り出されてくることに対して、子どもたちは自分なりに「知覚」したことについて、言葉を介して体験が意味付けられていくということなのでしょう。また、その意味がさし示しているであろう範囲をぼんやりと意識して、そのうち自分の感覚で得たものをなんども照らし合わせていくうちに、自分の「行為」とつながっていくということでしょうか。

その過程では感情が共感的に働いて、食べてみたら「美味しい!という感情がそれらを好きになりながら、もっと食べたいという欲求を耕しています。豆の種類によって、味やおいしさが違うので、絵本で親しんでいる「そらまめくん」のイメージがその子なりにダブりながら、どんなふうに変わっていくのか、想像してみたくなります。先生たちはその変化を子どもの姿のなかに気づいていくことでしょう。

5月「豆類の食べ比べ」2025514ぼかし入り

神田祭を親子で楽しむ (オ 社会生活との関わり)

2025/05/10

保育園として神田祭に参加するのは、前回に続き2回目。前回は職員10名が神輿を担ぎましたが、今回は初めて園の親子も参加して子ども神輿を担ぎ、また山車を引かせてもらいました。

岩本町三丁目の子ども神輿と山車は、12時半ごろから山崎パン本社前の御神酒所から出て、午後2時ごろまで町内を練り歩きました。3時半には隣町の須田二丁目町会と東松下町会と合同で柳森神社前で御霊にお礼参りです。神田明神へお宮入りは明日11日です。

さて江戸三大祭りとも言われる神田祭。その本物の祭りに保育園として参加させていただき、とても貴重な体験になりました。保育園に在園している親子が約19家庭参加されたので、子ども神輿と山車の周辺は活気にあふれ、その賑わいを包み込んでいる地域の方々の思いに接して、図らずも目頭が熱くなったほどです。

地域の行事を見るだけではなく実際に参加してみることは、保育から見ても大切なことが含まれていそうです。地域の一員であるという実感をいつどのように感じるのかは、わかりませんが、こうした積み重ねが「自分のまち」という意識を醸成していくものになっていくのでしょう。

当園からは私も含めて職員が12人参加したのですが、知っている大人が法被をまとい手拭いを結び、粋な格好で普段とはちょっと違うメリハリを効かせて振舞います。子ども達から見れば、多くの知らない大人たちが大勢いて、その中に、よく知っている大人が一緒に混じって「わっしょい、わっしょい」と神輿を担いている。その姿は、子どもたちにどんな印象を与えたでしょうか?

そしてお父さんお母さんに手を引いてもらいながら、その神輿を担いだ、山車を引いた、抱っこしてもらって太鼓を叩いた。太鼓や鐘の囃子の音や大人たちのリズミカルな掛け声や身体的圧力を感じ、柏木の透き通るような音や、一本締めの手拍子、そばで声援を送ってくれている親の声。そういう祭り独特の空間に身を浸しきった時間。

21世紀も四半世紀が過ぎたこの時代に、江戸時代から続くといわれる地域の祭りを体験すること。その意義を確認したり、再発見したりする営みが必要だとしたら、何をどう考えたらいいのでしょう?

それはきっと、地域の当事者が主役となって、まずは一緒にその時間を体験することで、そこで感じる感覚を大切にしながら、言葉ではいい表せないことを紡いでいくことなのかもしれません。

味の探究活動 動画で紹介されました!(ア 健康な心と体)

2025/04/22

毎月1回、2歳児以上の園児を対象に行っている「味の探究」活動がYouTubeで紹介されました。フランス料理シェフの江口さんのこともわかる内容になっていますので、ぜひご覧ください。

この動画は、自然食材などを販売するスーパーマーケットを運営している川田むつみさんのチャンネル「むっちゃんねる」制作です。とてもいい活動をなさっているので、保育園としてインタビューに協力しました。

https://www.youtube.com/@coco_mutchannel

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