現在のような情報化社会になると、インターネットなどで知識は覚えなくてもすぐに手入るから、ただ知識を答えるための教育は変えなければならない、という主張をよく耳にするようになりました。ここでいう知識というのは、どうも、一旦加工処理された知識を指しているようです。

本やデジタル書籍など書き言葉や図や絵になったもの、紙の楽譜やレコーディングされたもの、そうしたいわば情報化されたもの全般を指しているようです。そうしたメディア化された情報としての知識は、確かに手に入りやすくなり、それを覚えておくような意味での「知識」はすぐに手に入るということはよくわかります。生成AIが生活の伴侶のようになってきた現在、知らないことは聞けば教えてくれます。
しかし日々子どもと接していると、それは非常に限られた情報としての知識にすぎない、ということがすぐにわかります。赤ちゃんから年長さんまで、ものを手に取って触り、時には口に入れたり、積み木を積んだり、絵や文字をかいたり、体を動かし跳んだり跳ねたり、友達と一緒にゲームとしたり何かを作り上げたり、公園や林で虫や草花に触れてみたり。
そうした体験からえるものは、すべて「知識」でもあるのです。身体の知覚と行為が盛んに行われている限り、そこには名付けられていない営みが厳然と起こっており、そこにはまだ名付けられていない「知識」が躍動しています。
それは子どもたちの遊びのプロセスをよく観察してみるとわかります。私たちが機能や目的や意味を見出して命名すると、まだ名付けられていなかった、つまり隠れていた情報から「知識」が生成しているという見方だってできるからです。公園である虫をみつけました。名前は分かりません。図鑑で調べてみました。すると「ハナムグリ」の仲間らしいということが「わかり」ます。
では、この体験のプロセスの、どこから「知識」というものが成立したということになるのでしょうか?まだはっきりと分類されていない新しい昆虫を発見したとしたら、それは名前がまだはっきりししないから、正しい知識ではない、などということはないでしょう。もしそうなら、それなら発明や発見は知識ではないことになってしまいます。
虫ではなくて、色水遊びの色だったらどうでしょうか?子どもたちは赤、とか青とかいいますが、どんな場合でも、ある二つが全く同じ色なんてありません。微妙に違うはずです。和名の色は自然からとった命名法によって、実にさまざまな色の名前をもっています。すると分類によって知識の量が変わってしまいます。それと同じことが細分化された学問や研究の知識は、だれも全体が見えないほど膨らんでしまいました。誰が知の巨人だかわかりません。きっとそいういう知識ならAGIがそうなるでしょう。
要するに五感をフルに使った体験がまずは非常に大切で、生きるために不可欠な体験をたくさんすることです。
(以下は保育士等の専門家向けの話です。)
それでは知識というのは言葉のような表象記号、コーディングされたものをさすのではなくて、保育にける知識とは身体的接地がある情報を大切にしているように思えます。その受け取っている経験をいかに大切にしていくか。それがいかに「資質・能力」の循環として、生成しているか。またそれが生きる力になっているか。そのなかで動いているものの一面が知識と呼んでいるものでもある、ということでしょう。
もっと言うと「知識」に限らず、資質・能力の説明の中に出てくるキーワードは、全てそうした経験の1部として動いているときに、初めて意味をなすようなものなのでしょう。この事は「子どもの姿」と言う表現になっていることとも関係があるはずです。










