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2020年 8月

8月9日 昼食

2020/08/09

ご飯

豆腐ハンバーグ

切り干し大根の旨煮

わかめの味噌汁

麦茶

運動にとって美とは何か

2020/08/09

動物は行わないのに「人類だけが行うことを探り当てておくこと」が、どうして保育という仕事に必要なのかー。そのことをこれまで、この日記できちんと説明してきたかどうか定かではないのですが、保育を考える時には、何かにつけて、このことに触れていくことになります。動物と人間の、その境目なり起源なりに迫ることによって、人間としての特徴がはっきりしてくるからです。

◆人間がだけが行うこと アートも

例えば「二足歩行」「言葉」「火の使用」「共同保育」「共食」など、いろいろあります。「指さし」「意図込み模倣」などもそうです。これらは、本能なのか学習なのか、ずっと研究されてきたし、今でも探究され続けているのです。そこに「アート」も加わります。

今日、これから語ることは、昨日の続きなのですが、アートの中の「身体的な運動」についてです。体力をつけるための運動ではなく、運動における美とは何か、そんな話です。少し遠回りの話になります。

◆クロマニョン人の芸術

地球137億年の歴史を24時間にすると、約5万年前は1秒前になるのですが、道具が飛躍的に発達する「大躍進」の時代が始まります。クロマニョン人はその頃から動物の骨や牙や角を使って、ネックレスやペンダントの装飾品や、骨を細く削りって先端に穴を開けた縫針、あるいは動物の脂肪を燃やすオイルランプなどを作っています。

中でも2万4000年前と言われるオーストリアの「ヴィレンドルフのヴィーナス」(写真)は、実りと多産の象徴と言われ、美術史の中でも初期の芸術として紹介されます。スペインのアルタミラ近くの洞窟には、2万年前と言われる野牛(バイソン)の壁画が描かれています。これが現在わかっている世界最古の絵画ですが、同じ頃のフランスのラスコーの壁画と並んで「美術」は、氷河期の狩猟採集生活の中から生まれました。

しかし、何万年もの間、遺跡として残るのは、風雪に耐える石や硬い骨や洞窟だけであり、歌や音楽や踊りは「物」として残らないので、その頃にあったのか、なかったのかがはっきりしません。しかし8万年前から1万年前までいたネアンデルタール人の研究者の中には、笛を吹いていたとか、歌を歌っていたと想像している人もいます。

◆ネアンデルタール人類も踊っていたか?

イラクのシャニダール洞穴の遺跡からは、ネアンデルタール人のお墓から「ムスカリ」や「矢車菊」の花粉(おしべの一部である葯)の塊が発見され、1974年に後世の混入ではないことがわかりました(奈良貴史『ネアンデルタール人類の謎』岩波ジュニア新書)。

死者に花をたむけ、そこで歌や踊りもあっただろうと私は想像しています。前の保育園時代の卒園式の挨拶でこの話をしたことがありますが、この心優しきネアンデルタール人の話は、この春のコロナ自粛のときに実施したフラワープロジェクトの時にも、再び蘇りました。いかに人間は花に惹きつけられるのか。絵画や音楽で花は欠かせない対象であり続けています。子どもも素直に花の持つ美しさを感じます。

◆身体の美しさを描いてきた美術の歴史

ここで、やっと昨日からの話に戻るのですが、美術やアートの歴史の中で「身体の美しさ」は、エジプトの壁画から始まってギリシャ彫刻やローマ芸術、それ以降の変遷は省略しますが、モダンアートに拡散していく直前まで、すなわち印象派が登場するちょっと前まで、ヨーロッパの美術史の軸の1つにキリスト教の影響を受けた宗教画や歴史画における制約の中での探求が続きました。美しい身体をそのまま再現しようとすると、タブーになるために、真・善・美のシンボルとしての「身体」しか描くことが許されなかったのです。

◆日本の身体と表現

ところが近代以降の表象は、一気に世界の再現から個人の自己表現へと多様化しています。一方で、日本での身体の表象は仏像が多いのですが、江戸時代の浮世絵や美人画にその身体表現の美が捉えられていきました。そこに動きを伴う身体表現は、日本では宮廷や武家での神仏の舞いや地域の祭りや郷土芸能に、舞台芸術としては能、歌舞伎、人形浄瑠璃などに収まっていくのですが、その日本的な「舞踏」の面白さが、既存の芸術ではあまり広く継承されないまま、ポップカルチャーの大波の中で埋もれてしまっているような状況かもしれません。

◆表象文化研究とのであい

こんな時代状況の中で、乳幼児の身体と舞踏の関係を、どう考えたらいいのでしょうか。誰にも、どこにも相談することができないので、10年ほど前、一人、放送大学の「表象文化研究」を受講したところ、そこにヒントがたくさんありました。小林康夫、石田英敬、渡辺保の豪華3人が講師で、主だったアート領域を15回にわたって講義するのですが、いかに文化が表象から成り立っているのかが、見事に切り開かれていきます。

その講義の中では、幼児の表現などは何も語られないのですが、子どもがやっている模倣も、実は全てrepresentation(表象)だとわかってしまえば、人間だけが行っている表象行動が、一度体験したことの再現行動だと捉え直せると合点したのです。私には衝撃が走り、子どもの姿の見え方が一気に変わりました。ミッシェル・フーコーの「言葉と物」の最大の意味は、私にはここにあります。

◆子どもの再現遊びは表象である

そこでわかったのですが、子どもの身体表現であるダンスを楽しむには、まず自身の身体を自分で先に体験することが必要なのです。赤ちゃんが自分の手を自分の手で確かめるように触る時期があるのですが、いったん、自己の認識が始まると、自らの意図で行った身体的な行為の奇跡を辿ること自体が、すでに身体表象になっていくことがあるのです。

その再現が、心地良くて、なんか非日常的でいいな、と感じるものなら、それはアートだと言っていいのです。わかりますか。例えば1歳クラスのぐんぐんの子が、ハンコを手に持って、絵具で画用紙にぺたん、ぺたんと色を付けてみたとします。その形跡に何かを感じて(面白い!何か色がついた!)、もう一回やってみようとしてやったとしたら、そのことが表象行為なのです。その自由画はアート作品ですよね。

◆表象の中のアートとは

では、なんでも表象=再現行動がアートになるのでしょうか。

ここが大問題でして、その人がそう感じればアートです。第三者からの答えはありません。本人が「なんかいい」と感じること。「こっちがかっこいい」「これきれい!」「なんかいい」・・・とにかく、その身体表現のその感性、感覚のその部分の判断です。そうとしか言いようがない、感じがいいと思うところです。

多分、みなさんがやっているのは、デザインセンスといった方がわかりやすいかもしれません。何がおしゃれなのか、ファッションセンス、コーディネートのセンスがいい人は、アート感覚もいいです。インスタ映えするものを言葉で説明することができないからこそ、いいな、と思うものを写真にとるのだと思いますが、そのとき、とらえているイメージが表象です。カメラやインターネットの無かった時代は、絵にしていたんだと思うと、本当にすごい時代になったものです。

◆身体の動き=運動の中のアートとは

語ることができないけれども、そこにいいものがあるという、そのよさ。感覚、まさしく感性の領域ですが、それが「体を動かすということの中にもある」とわかってもらいたいのです。その探求が、保育園の中で始まっていると思ってくださると嬉しいです。絵を描いたり、製作あそびをしたり、歌を歌ったり、ごっこ遊びをしたりする中にある「美」と同じように、体を動かす遊びの中に、きっと美に相当するものがあるのです。

昨日、青木尚哉さんは、こうおしゃいまいした。

「心と身体が一致している時は美しいな」

ここに大きなヒントをいただきました。

今年の運動会はコンテンポラリーダンス

2020/08/08

10月24日(土)の今年の「親子運動遊びの会(運動会)」ではコンテンポラリーダンスを楽しもうと計画しています。つまり、体を動かすことをアート的にやってみようというわけです。昨年は「鬼ごっこ」と「相撲」を取り入れましたが、今年は「ダンス」でやってみようと思います。昨日7日(金)に、それを先生たちに説明しました。

皆さんはご自身の体について、どんなイメージを持っていますか? 私は身体、からだという言葉からは、健康やスポーツに関するものをたくさん思い浮かべてしまいます。しかしヒトの身体は、もっと広く捉えたいと思っています。特に乳幼児にとっての運動は、心と体が同時に動くものなので、体だけを動かすことは難しいものです。学校でもダンスや踊りが取り入られていますが、それが苦手な子どもにとって、新しい跳び箱や鉄棒になってはなりません。それは楽しいものであって欲しいのです。

これまでの経緯を少し説明します。昨年8月25日(日)、屋形船に乗った翌日ですが、ダンサーの青木尚哉さんと小学校の図画工作の先生がコラボレーションしたイベントを海老原商店で開いていました。その様子は「園長の日記」に記してありますが、青木さんは「身体」を図工の素材のようにして作品を表現するということをしていました。その時は気づけなかった身体表現の面白さを、今でははっきりと説明できます。というのは、その後今年2月から3月にかけてアーティストである青木尚哉さんとその仲間のダンサーの方々に保育園に来てもらい、子どもたちと一緒に体を動かす遊びをたくさんやってもらったからです。そこではっきりとわかったのは、子どもは青木さんのアプローチが、子どもたちには大人気でした。

 

昨日の説明会では、その時の様子の一部を動画で見てもらいました。アーティストである青木さんは、正確にいうと「コンテンポラリーダンサー」の第一人者であると同時に、振付師でもあります。インタビュー記事があるので読んでいただきたいのですが、青木さんはクラシックバレエのダンサーとしての活躍後、そのダンスを成り立たせている「身体そのもの」と「舞踏」の関係を探求していきます。そこで生まれたアートが「ポイントワーク」という身体表現でした。子どもたちが「マネキン」と言っているアレです。

http://dancerssupport.com/interview/2886/

手や足には骨と関節があって、それをゆっくりと1つずつ動かしてみるというものです。4秒おきぐらいに「ワン」、「ツー」、「スリー」という英語音声のテンポに合わせて、「テン」まで、即興的に動かしていきます。変化していく身体の形を作り上げていくとき、子どもたちは「こうしたらどうかな。あ、こっちがいいかな」という「自分なりの思いつき、アイデア」が動き出します。交代して友達に自分の体を動かしてもらうと、自分の身体の動きを体験します。どんな格好をしているのかを想像しながら、自分ではやったことのない姿勢や格好が生まれ、その身体感覚を体験します。よく「身体との対話」といったことが言われます。実はこれがダンスの基本であることがとてもよくわかります。

日本の幼稚園や保育園には、スイスの作曲家ダルクローズが作り上げた「リトミック」が輸入されて盛んに行われていますが、青木さんは「本物のリトミックを子どもたちに教えるときは、丁寧に身体とリズムの関係を体験していくプロセスを大切にするんですよ」と言います。「どんなダンスをするにしても、こういうことが基本になります」と。実は昨日の運動会会議には、青木さんにも参加していただきました。ダンスにおける「美」とは何かについても語っていただいたので、それは明日のブログでお伝えします。今年の運動会は、青木さんにインストラクターとして参加していただき、親子でダンスを楽しみましょう。

美の時間

2020/08/07

1日24時間の中には、労働時間と私的時間があります。きっと誰にでもあるでしょう。人によっては働くこととそうでない時間になるかもしれませんし、他人に貢献する時間と自分のための時間に区分できるのかもしれません。この2つに時間以外に、必ず、誰にでもあるもう1つの時間として「睡眠の時間」があります。これも仕事柄、睡眠そのものについては、健康とか習慣とかの話として意識することが多いのですが、睡眠というものは、それ以外にも、夢の時間とか無意識の活動時間とか、意識が宇宙に戻っている時間とか、人生の土台を作っている時間とか、いろいろな言い方ができる時間でもあります。子どもにとっての労働とか仕事とかは遊びになるのかもしれませんが、どの時間もそんなに明確に分かれていないのが「子どもの時間」であるかもしれません。

今日の午前中は、健康に関する睡眠、つまり質の高い睡眠を考える時間がありました。永持伸子さんの講師によるオンライン「Mam’s Salon」です。4家庭5人の父母が参加してくださいました。Zoomによる開催は今年度で4回目になりますが、もっとも多い参加をいただきました。すべて地域の方です。

サロンの進行役をやりながら、「面白いなあ」と感じることがあります。それは子どもにとっての質のいい睡眠とは、もちろん、単に時間の長さではなく(例えば昼寝の時間と夜の時間を足して何時間だから大丈夫、などのようなものではなく)、生き物である私たちを包み込んでいる大いなる生態的リズムにどうしたら合わせられるか、とか、そのズレにどうやったら気付けるか、とか、あるいは入眠の前の意識として「これから寝よう」という自覚や、睡眠への安心や信頼が睡眠の深さに影響するといった、いわば「生態学的心理学」のような話になっていることです。それでも、睡眠や自己意識は「見えない」ので、形のあるアフォーダンスのような話とは思えないのですが、でも「睡眠のコツ」の話を聞いていると、まるで「良質な睡眠」という目に見えない「型」があって、それにどうやったらフィットしていけるか、そういう時間のマネジメント術のような話になっていくのです。それが面白かった。心と身体が一致するための秘訣になってもいます。

午後は、今年の運動会をどういうものにするか、私から先生たちへのプレゼンテーションをしました。その話は明日のグログで詳しく紹介するとして、千代田せいが保育園のカリキュラムは、一貫して子どもと家庭の実態から必要なことを計画していくものなのです。ちょうど東大先端研の児玉龍彦さんが先ほどテレビで「走りながら考える」と語っていましが、全く同感です。情報は研究室ではなく社会にある、指標(数値)に振り回されないといった話にも共感しました。ウイルスの特性を正確に理解することからしか、適切な方法を編み出せないことがよくわかります。

この物事への行動様式は、アートと同じです。今年の運動会はそうするつもりなのですが、その先生たちへのプレゼンのあと、海老原商店の海老原さんから、来年に延期された「東京ビエンナーレ」への協力要請を受けました。今月末に海老原商店の外観(駐車場側)が、ちょっと面白いことになります。私たちは自分自身のことも、あまりよくわかっていないのですから、わかったような気になって他人が自分とは異なる行動をしているからといって、否定するのではなく、見えていないものを、もっとよく見ようとした方がいいと思います。今日は全部、「美」について語ったつもりなのですが、その心は明日説明します。

 

色んな「ちょうちょ」の楽しみ方

2020/08/07

午睡前、みんなで「ちょうちょ」の歌をうたっていると、ながせくんが 近くにあった本を持ってきて、ちょうちょの写真のページを開いて歌っています。手をひらひらとさせ、踊りも上手です。

言葉の意味とイメージがしっかり結びついて、連想ゲームのように関連づけて楽しむ姿がまた一段と増えてきましたね。

耳で聴いて、目で見て、歌を口ずさんで、体を動かして踊って…この一曲だけでも、こんなに色々な楽しみ方があって、それだけ表現の力も広がっているのですね♪

そして、みんな本当に歌が上手です‼︎

あたたかい手

2020/08/06

夕方、少し悲しい気持ちになり、泣いていたあやかちゃん。そんなとき、ゆうちゃんが音の鳴るおもちゃのスイッチをポチ!そして、あやかちゃんの手をとり、音楽に合わせ、歌いながら、「むすんでひらいて」をやってくれました。

ゆうちゃんのあたたかい手の温もりと楽しいリズムに、涙がとまって、微笑むあやかちゃんの姿がありました。

その様子を近くで見ていたそうたくん。「むすんでひらいて」の歌が終わると笑顔でパチパチ手をたたき、喜びを共有しているようでした。(その瞬間は撮れなかったのですが、、)

優しい気持ちが本当に素敵ですね。楽しいアイディアを見つけ、勇気づけてくれるお姉さんが身近にいてくれることで、気持ちを切り替えることができました。ちっちさんにとって、ぐんぐんさんは身近な憧れの存在です。

 

8月6日と8月9日と

2020/08/06

 

私が通った中学校は長崎の浦上天主堂から1キロぐらいのところにあります。爆風で崩れたマリア像は、私にとって戦争の象徴です。今日6日はヒロシマに原爆が投下された日ですが、ナガサキは9日です。私は約10万年の人類のグレートジャーニーが辿り着いた長い長い物語の1つの結末は、ナガサキだと思っています。人類って、なんと愚かなんでしょうか。地球に住んでいる80億の人口のうち、その99%は、その途方もない愚かさを知らないままでしょう。今後はもっと知らないままになるのでしょう。

ヒロシマ・ナガサキは、人類が実際に行った一切の過去の歴史の中で、規模においても手段においても、短期間に本当に実行されてしまった最大で最悪の集団殺戮です。それを実行した国が、世界の民主主義と人権のリーダーだというのも歴史を見れば真っ赤な嘘ですが、その「事実」について、日本人はこの75年間、ぼんやりと霧がかかったような目でしか見ることができませんでした。今でもそうかもしれません。それは日本が行った戦争犯罪への罪悪感によって帳消しにされてきたからでしょう。1つ1つの事実の酷さを冷静に受け止めることがいかに困難なことか。私たち人間の認識は「物語」に沿ってその立場から眺めることしかできないのでしょうか。語り続ける困難さ以上に、どう語るかも合わせて困難な戦後75年を迎えます。

 

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