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10の姿(保育アーカイブ)

でもぼく、もうかえるんだよ(ケ 言葉による伝え合い)

2025/05/21

さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。

するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。

このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。

それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。

「でもぼく、もうかえるんだよ」。

先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。

でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。

相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。

 

真剣に楽しい一本締め(コ 豊かな感性と表現)(ウ 協同性)

2025/05/16

金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。

どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。

私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。

面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。

 

豆の料理から受け取る意味と言葉(10 豊かな感性と表現)

2025/05/14

今日は豆(そらまめ・グリーンピース・いんげんなど4種類)を食べ比べてみました。やる流れはだいたい毎回同じなので、省略しますが、今日の午後の振り返りで私が「面白いなあ」と話題にしたのは、次のようなことでした。

(1)江口さんが「つぎ、これ、〜していいかな?」ときくと、子どもたちは「いいよ〜」と答えます。料理ですから、洗ったり、下拵え(筋をとったり、へたを切ったり、さやを開いたり、中から豆を取り出したり・・)や、茹でたり、焼いたり、切ったり、さらに盛り付けたり、いろいろな手順があります。そのたびに「こんどは、こうしてみるよ、いいかな?」という感じです。

月に1回ですが、にこにこ組(2歳児クラス)の子どもたちも、毎回のように出てくる「茹でる」「焼く」のパターンへの見通しがでてくることでしょう。

今日も包丁を出してきてまな板のうで切ったり、いろいろやって、こんどは「じゃあ、これ、焼いてみるよ、いいかな?」。するとまた機嫌良く「いいよ〜」と返事が返ってくる。その繰り返しが、何回かも繰り返されていきました。

この応答は、<質問と答え>ではなくて、これからやるに決まっていることに、あえて同意を確認しているような感じです。よくみててね、という意味もあるし、さあ、どうなるかなやってみるよ。という意味でもあります。ようするに、これからこんなことをやるんだけど、みんなも一緒にやるつもりになってね。という感じです。

子どもたちが実際に自分でやってみたいと思っているはずなので、子どもが自分できる「子どもクッキング」は危なくないもの(梅ジュースを作ったり、振ってチーズを作ったりなど)は別の機会にやっていきますが、この味の探究は野菜が中心で、その新鮮な素材の味をできるだけ、そのまま味わうというねらいなので、シンプルに茹でる、焼くということが中心になります。というわけで、子どもは火傷などしないように、そばで観察することになります。

「いいよ〜」。という子どもたちの声。とても可愛らしい声なので、その雰囲気を動画でお伝えしたいほどなのですが、その姿は、まるで子どもの好奇心がむくむくと芽をふいている瞬間のように感じます。

これから始まる出来事へ身を乗り出しているときの集中。こんどはどうなるだろうという興味。「どうなるかまだわからないけど、うん、やってみて、ぼく興味あるから、ぜひ」。そんな、集中力を感じて、見えいて気持ちいいのです。担任によると、2回目なのに、この時間を待ち遠しく感じている子もすでにいるらしい。

(2)もう一つ、感じたのは、世の中の出来事について言葉で表されることはほんの一部でしかないということ。豆にはそれぞれ名前が付いていること。子どもにとっては初めて出会っている目の前の景色のなかから、名詞や動作や形容詞やオノマトペがそれぞれの瞬間に聞こえてきて、世界がそれで文節化されて、そこに何かの一貫性を子どもがみつけていくこと。

もちろん数回の経験で文節化されていくのではなくて、何度も何度も繰り返される事象のなかに生きていくことを体験しながら、そのなかで「そういうことか!」「わかった」と、明瞭化されていくようなことなのでしょう。意味が生まれていく過程を体験していることになるのでしょう。

他の言い方にしてみると、目の前に展開されている世界から、料理の過程の中に言葉のルール(言語ゲーム)を大人が取り出してきて、世界と言葉がセットでふるまいのなかに意味を立ち上がらせていく、ということでしょう。子どもにとっては「そこか」とか「そうなんだ」とか、一つずつそのセットを自分の中に取り入れていく。こうやって、こういうときはこうするものなんだということに慣れていくのだろうと感じます。

この場合は野菜の匂い、音、色そして味などについて、そのことに言葉がくっついて何かのふるまいがなされていきました。

(3)関わりながら、好きになり、もっと〜という流れが生まれていくこと。世界なかから取り出されてくることに対して、子どもたちは自分なりに「知覚」したことについて、言葉を介して体験が意味付けられていくということなのでしょう。また、その意味がさし示しているであろう範囲をぼんやりと意識して、そのうち自分の感覚で得たものをなんども照らし合わせていくうちに、自分の「行為」とつながっていくということでしょうか。

その過程では感情が共感的に働いて、食べてみたら「美味しい!という感情がそれらを好きになりながら、もっと食べたいという欲求を耕しています。豆の種類によって、味やおいしさが違うので、絵本で親しんでいる「そらまめくん」のイメージがその子なりにダブりながら、どんなふうに変わっていくのか、想像してみたくなります。先生たちはその変化を子どもの姿のなかに気づいていくことでしょう。

5月「豆類の食べ比べ」2025514ぼかし入り

神田祭を親子で楽しむ (オ 社会生活との関わり)

2025/05/10

保育園として神田祭に参加するのは、前回に続き2回目。前回は職員10名が神輿を担ぎましたが、今回は初めて園の親子も参加して子ども神輿を担ぎ、また山車を引かせてもらいました。

岩本町三丁目の子ども神輿と山車は、12時半ごろから山崎パン本社前の御神酒所から出て、午後2時ごろまで町内を練り歩きました。3時半には隣町の須田二丁目町会と東松下町会と合同で柳森神社前で御霊にお礼参りです。神田明神へお宮入りは明日11日です。

さて江戸三大祭りとも言われる神田祭。その本物の祭りに保育園として参加させていただき、とても貴重な体験になりました。保育園に在園している親子が約19家庭参加されたので、子ども神輿と山車の周辺は活気にあふれ、その賑わいを包み込んでいる地域の方々の思いに接して、図らずも目頭が熱くなったほどです。

地域の行事を見るだけではなく実際に参加してみることは、保育から見ても大切なことが含まれていそうです。地域の一員であるという実感をいつどのように感じるのかは、わかりませんが、こうした積み重ねが「自分のまち」という意識を醸成していくものになっていくのでしょう。

当園からは私も含めて職員が12人参加したのですが、知っている大人が法被をまとい手拭いを結び、粋な格好で普段とはちょっと違うメリハリを効かせて振舞います。子ども達から見れば、多くの知らない大人たちが大勢いて、その中に、よく知っている大人が一緒に混じって「わっしょい、わっしょい」と神輿を担いている。その姿は、子どもたちにどんな印象を与えたでしょうか?

そしてお父さんお母さんに手を引いてもらいながら、その神輿を担いだ、山車を引いた、抱っこしてもらって太鼓を叩いた。太鼓や鐘の囃子の音や大人たちのリズミカルな掛け声や身体的圧力を感じ、柏木の透き通るような音や、一本締めの手拍子、そばで声援を送ってくれている親の声。そういう祭り独特の空間に身を浸しきった時間。

21世紀も四半世紀が過ぎたこの時代に、江戸時代から続くといわれる地域の祭りを体験すること。その意義を確認したり、再発見したりする営みが必要だとしたら、何をどう考えたらいいのでしょう?

それはきっと、地域の当事者が主役となって、まずは一緒にその時間を体験することで、そこで感じる感覚を大切にしながら、言葉ではいい表せないことを紡いでいくことなのかもしれません。

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