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2026年 10月

知らない間に設計されていく私

2026/10/03

これまでの話を振り返ると、AIを使っていると、だんだん、知らないうちに自分の主体的な思考や判断や表現が毀損されていく、というプロセスを説明してきました。ところが、お気づきの方も多いでしょうが、この話、これまでも散々聞かされてきた話と、とてもよく似ています。

そうです、メディア一般のなかで語られてきたことと、そっくりなのです。私は昔メディアのなかで働いていたので、そのことはよくわかるのです。AIを待つまでもなく、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネット、SNSで言われてきた危険性とそっくり同じではないでしょうか?

これはAIだけの問題ではなく、メディアが人間の注意・欲望・判断を、本人に気づかれないまま形づくる問題なのでした。

ただ、これまでのテレビや映画などの従来のメディアとAIには大きな違いがあります。それは付き合い方の違いです。

テレビや映画では、基本的に同じ作品が多くの人に提示されます。一人の受け手は影響されても、ほかの受け手は異なる受け取り方をすることが、時間的な差はあっても確認できます。距離を取って批評したり、他人と感想を比べたりできるのです。新聞の社説の読み比べ、テレビ時評、各種の論壇、などがメディアそのものに載っています。

ところがAIやSNSは、一人ひとりの反応を学びながら、その人に最も響く内容を返してくる。しかも、一見、私たちが主体性をもって、私たちが問いかけ、選択し、操作しているように見える。だから、

「自分で選んでいる」という感覚を残したまま、選び方そのものを誘導される

ことが起こり得るのです。

これは単純な「洗脳」よりも捉えにくいものです。本人は命令されているとは感じないし、禁止もされない。警鐘を鳴らす人がいても、聞こえてこない。むしろ選択肢は増えているように見えるでしょう。

しかし実際には、画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。好みではない感情を引き起こしそうなものは、無意識のうちに見ない、選択しなくなります。いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。

こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。

ちなみに、忘れてはならないのは、この主体的な思考や判断や表現というのは、私たちが保育の中で、あるいは日本の学校教育の中で育てている「資質・能力」の3本柱の一つ「思考力・判断力・表現力」と同じです。平たくいうと学校の通信簿の評価項目になっています。教育現場で子どもたちからAIを上手に使うためのポイントがここにあるのではないでしょうか?

年長さんの活動に集中する姿

2026/10/02

今日のクラスブログを紹介します。金槌で釘を打ち、思い思いの遊具を作っていました。担任はそこに子どもの育ちを感じたようです。一見すると、その育ちに「集中力」が育ったと、表現してしまいそうな姿なのですが、担任はその表現をあえて避けているようです。どうしてでしょうか? そこにこの保育のポイントがあります。

集中力がついているようい見えるとき、新しい遊びや活動に夢中になっていることが多いのです。周りからいろんな情報を受けていても、それを気にせず、成し遂げようとしている目的を達成するまで、途中で辞めようなどとは思いません。こんなふうなものを作りたい、そういう目的があってやっていることを途中で投げ出すわけがありません。もし、他のものが面白そうだと思ったとしても、よっぽど面白そう!と思わない限り、その活動をやめることはないでしょう。

とくに自分でこれをやってみたい!とひらめたことは、試してみたくなります。自分でやってみたい。そしたらどうなるだろう。できた、じゃあ、今度は? そうしたらいいんだ、それならこうしてみよう!新しい知識と方法を使って考えて試してみると、こうしたらいいんだと気づき、できた!という効力感を感じ、さらに自分からもっとやりたい!という循環が生じます。この循環の入っている時の人間の集中度はとても高いものがあります。

ですから、子どもは新しいものが好きなのです。新しい遊具や遊びには目がないですし、私が誘い出す「すいすいタイム」も「今日はなんだろう?」と興味津々です。子どもは好奇心の塊なのです。ですから、よく人が集中力をつけるとか、育てるなどといいますが、あれは嘘です。好きだから長くその活動に取り組んでいるだけであって、無理に諦めずに取り組ませれば集中力がつく、などというのは、間違いでしょう。

新しいものが好きだというのは、生まれつきです。生まれたばかりの赤ちゃんがどんなことが好きか、どちらに関心を持つかなどを調べる方法として「選好注視」という方法がよく使われます。この方法に信頼性をおく根拠は「子どもは新しいことに注目する」という特性があるからです。私が赤ちゃんの部屋でいくと、何をしにきたのだろうという顔をして私を見ます。入園前の見学者を案内すると、見慣れた私ではなく、お客さんの方をじっと見つめます。好奇を向けるということは、教えなくても子どもは持って生まれてきています。

さて、こんな解説を踏まえて、今日のクラブグログをご覧ください。とてもいい顔をしていますよ。
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今日はお部屋や屋上、運動ゾーンなど、それぞれの場所で子どもたちが自分の興味に合わせて遊びを選び、じっくりと取り組む姿が見られました。特に運動ゾーンでは、小林が中心で進めていた鬼ごっこを坪井先生と一緒に楽しく展開する姿があり、展開する大人が変わることで、同じ遊びの中にもまた違った面白さが生まれることを感じました。大人が一人で遊びをつくるのではなく、それぞれの大人の関わり方が子どもたちの遊びの広がりにつながっているように思います。

朝のゾーン選びでは、わいわい組の子が「虫のゾーンを開けたい」と自分から伝え、幼虫の観察をとても丁寧に行っていました。わいわい組の子どもたちの中でも、自分が興味をもったものを選び、実際に見たり触れたりしながら活動を進めていく姿が増えており、日々のゾーンでの経験が「自分で選んで遊ぶ」ということにつながってきていることを感じました。

また、すいすい組では、トンカチと釘を使って板に釘を打つ遊びを行い、「パチンコを作ってみたい」という思いをもって、集中して取り組む姿がありました。今回特に印象に残ったのは、周囲でさまざまな話題や会話が生まれている中でも、そこにすぐ注意を向けるのではなく、トンカチや釘から目を離さず、自分のやっていることを続けていたことです。

こうした姿を見ていると、道具を安全に扱えることだけではなく、興味をもったことに注意を向け続け、周囲の刺激がある中でも自分の活動に集中していく力も、こうした遊びの中で育っていく大切な経験なのだと感じました。子どもたちが「やってみたい」と思ったことに十分に時間を使える環境をつくりながら、それぞれの興味や集中の深まりをこれからも丁寧に見取っていきたいと思います。

 

10月2日 昼食

2026/10/02

ごはん

チンジャオロース

キャベツとわかめの中華和え

青梗菜の中華スープ

オレンジ

 

10月2日 室内遊びの様子

2026/10/02

今日はお部屋や屋上、運動ゾーンなど、それぞれの場所で子どもたちが自分の興味に合わせて遊びを選び、じっくりと取り組む姿が見られました。特に運動ゾーンでは、小林が中心で進めていた鬼ごっこを坪井先生と一緒に楽しく展開する姿があり、展開する大人が変わることで、同じ遊びの中にもまた違った面白さが生まれることを感じました。大人が一人で遊びをつくるのではなく、それぞれの大人の関わり方が子どもたちの遊びの広がりにつながっているように思います。

 

朝のゾーン選びでは、わいわい組の子が「虫のゾーンを開けたい」と自分から伝え、幼虫の観察をとても丁寧に行っていました。わいわい組の子どもたちの中でも、自分が興味をもったものを選び、実際に見たり触れたりしながら活動を進めていく姿が増えており、日々のゾーンでの経験が「自分で選んで遊ぶ」ということにつながってきていることを感じました。

また、すいすい組では、トンカチと釘を使って板に釘を打つ遊びを行い、「パチンコを作ってみたい」という思いをもって、集中して取り組む姿がありました。今回特に印象に残ったのは、周囲でさまざまな話題や会話が生まれている中でも、そこにすぐ注意を向けるのではなく、トンカチや釘から目を離さず、自分のやっていることを続けていたことです。

こうした姿を見ていると、道具を安全に扱えることだけではなく、興味をもったことに注意を向け続け、周囲の刺激がある中でも自分の活動に集中していく力も、こうした遊びの中で育っていく大切な経験なのだと感じました。子どもたちが「やってみたい」と思ったことに十分に時間を使える環境をつくりながら、それぞれの興味や集中の深まりをこれからも丁寧に見取っていきたいと思います。

AIで主体性を拡張できるか、それとも代行されてしまうか?

2026/10/02

AIとの付き合い方は道具として使っているときはいいけども、第2段階なら「主体性の拡張」として利用価値が高いのですが、だんだん、何かの判断まで任せるようになっていくと、第3段階の「主体性の代行」になっていってしまうのでは、というのが前回の話でした。

しかし、厄介なのは、その境目がはっきりしないことです。

たとえば、AIから「こんな見方もあります」と材料が提示されます。私が自分の経験と照らして「いや、そこは違う」「これは使える」と選び直したり、修正したりします。これは第2段階で、AIとの対話によって、私は自分の考えがより明確になっていると感じ、AIが有効だと肯定します。

一方で、

AIがそう言うなら、たぶん正しいだろう
うまくまとまっているから、このままでいいだろう

とだんだんなっていくと、自分の違和感を確かめなって、第3段階へ入り始めるかもしれません。これはまずいです。AIの文章は流暢なので、間違っていても「完成した考え」に見えやすいのです。ここが普通の道具より危険なところではなないでしょうか。

AIは、かなり自信たっぷりに、ほかの考えはないかのように肯定したり、場合によっては褒めてきたりして、知らないうちに、誘導されている可能性もあります。いや、こうじゃないか!と突っ込むと、あっさり修正したりします。このやりとりがないと、とっても危ういのです。

さらに、判断を任せる以前に、何を問題として考えるかまでAIに決めてもらう危険性も出てきそうです。人間が答えを手放すだけでなく、問いを立てる力まで弱くなるかもしれません。ワープロ(って、若い方には分からないそうです、ワードプロセッサー)が出てきた以降、漢字が書けなくなっていることを実感します。それと似ていますが、とても気づきにくい。

この違いは、子どもの主体性を育てる保育と、そうでない保育の違いとも重なる話なのです。

保育者が子どもの活動を豊かにする環境を用意し、言葉を添え、別の可能性に気づかせるのは「主体性の支援」です。しかし、大人が先回りして目標を決め、手順を示し、望ましい答えへ誘導すると「主体性の代行」になるからです。

AIとの関係もほぼ同じに思えてきます。この差をAIが表にしてくれました。

主体性を広げるAI 主体性を代行するAI
選択肢を増やす 結論を決める
問いを深める 問いを奪う
違う見方を示す 正解らしいものを押し出す
人間が経験と照合する AIの流暢さを根拠にする
最後は人間が引き受ける 結果だけ人間が受け取る

このように考えると「最終決定を人間がしたか」だけでは不十分なことがわかります。AIが示した案をそのまま選ぶだけなら、形式上は人間が決めても、実質的には代行されているかもしれません。

大事なのは、

AIとの対話を経たあと、自分の考えが以前よりよく見えるようになったか。それとも、自分で考えなくても済むようになったか。

という見分け方ではないでしょうか? 一度得た結論までのプロセスや思考の筋道を再現できるかどうか?子どもたちは「ごっこ遊び」で再現し、そのプロセスを見事に習得していきます。見ているだけでは身につかないのです。実際にやってみることが遊びなのです。

ここまでの話をAIに問うと、さらに次の問題があると、説明してくれました。

AIの性能がさらに上がり、その人らしい文章まで先回りして完璧に作れるようになるので、実はもっと注意が必要になります。便利さが増すほど、違和感を覚える機会が減っていくでしょう、というのです。

したがって未来の問題は、「AIを使うか、使わないか」ではなく、

AIに考えてもらうのか、AIと考えるのか

にあるのでは?と。

そして「AIと考える」ためには、ときどき立ち止まって、反論し、書き換え、現実の経験へ戻ることが必要になるのでしょう。

もう、お分かりだと思いますが、これは保育者の役割にも似ていますね。よい保育者は子どもに代わって生きるのではなく、子どもが自分で世界と関係を結ぶための応答的な環境になることです。AIは、その人の代わりに考える存在ではなく、あくまでも主体者の心が動き出すための環境の一部にとどまっていること、なんでしょうね。

10月1日 昼食

2026/10/01

ごはん

鮭にちゃんちゃん焼き

切り干し大根の甘煮

わかめとジャガイモの味噌汁

バナナ

AIに任せていると主体性が蒸発する

2026/10/01

私は、AIが人類を滅ぼす最大の危険は、AIが突然人間を攻撃することよりも、人間が少しずつ判断することをやめ、自分たちの関係までAIに預けていくことだと思います。

チャットの性能が向上すると、人間との関係は、おそらく次の三段階を進むでしょう。AI自身が次のように整理してくれました。

  1. 道具として使う段階
    調べる、要約する、文章を整える。ここでは人間が主体で、AIは便利な補助者。

  2. 対話相手として使う段階
    話しているうちに、自分でも気づかなかった考えが言葉になる。何かを相談したり、あることを話し合ってふかめていくと、知らない間にAI側の考え方に染まっていく可能性がある。

  3. 判断や関係を代行させる段階
    誰を採用するか、子どもをどう評価するか、相手に何と返事をするか、人生をどう選ぶかまでAIに委ねる。ここから危険が大きくなる。

一番重要なのは、第二段階と第三段階の境界ではないでしょうか。

AIとの対話によって自分の考えが深まることと、AI の判断を自分の判断として受け入れてしまうことは、似ているようで全く違います。前者ではAIが人間の主体性を広げます。でも後者では、AIが主体性を静かに肩代わりしてしまいます。

しかも、AIは、その人に優しく応答してくれます。疲れず、否定せず、すぐに返事をし、その人に合った言葉を返してくれます。これは大きな可能性ですが、同時に、人間関係にはない危うさも生んでしまいかねません。

なぜなら、人間同士なら、相手にも都合があり、疲れがあり、誤解があり、こちらの思いどおりになりません。その「思いどおりにならなさ」のなかで、待つ、譲る、謝る、相手の立場を想像する、といった力が涵養されるのです。AIがいつでも自分に合わせてくれるようになると、他者と生きるために必要な摩擦への耐性が弱くなるかもしれません。

保育との関係でいえば、ここは決定的です。子どもが他者と出会うということは、自分の要求を即座に満たしてくれる存在と出会うことではありません。積み木を壊される。遊びたいものが重なる。思いが伝わらない。それでも相手と関係を結び直していく。その経験から、社会性も言葉も自己も育つからです。

だから私は、AI時代に保育の価値はむしろ高まるだろうと、考えています。

AIは子どもの記録を整理し、保育者の気づきを言葉にし、異なる見方を提示できます。実際にそのようなツールとしては大変便利です。しかし、AIは子どもの表情を見て「今日は少し違う」と感じ、その子のそばに黙って座る責任は負えません。そこには身体があり、時間をともにしてきた記憶があり、「この子を大切にしたい」という人間の願いがあるからです。AI にそのふりはできても、愛情からではありません。

このことをAIが次のような一文に整理してくれました。

AIが人類を滅ぼすかどうかは、AIが人間に似ること以上に、人間が他者と生きることをやめ、AIに似た存在になってしまうかどうかにかかっている。

なるほど、と同感するのですが、それも危ないでしょうか?

 

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