MENU CLOSE
TEL

2025年 6月

6月12日 昼食

2025/06/12

ごはん

さけのマヨコーン焼き

いそあえ

かぼちゃの味噌汁

バナナ

麦茶

わらす組の様子 ~子どもたちの「やってみたい!」があふれる時間~

2025/06/12

 今日は、わらす組7人の子どもたちが保育園に残って過ごしました。
朝、まずはお部屋の片付けからスタート。いつもの片付けも、今日は少し特別に、「ミッション・インポッシブル」の音楽に合わせてゲームのように楽しみながら、みんなで力を合わせてお部屋をきれいにしました。

その後は、「どうして今日はお部屋に残ったの?(選んだ理由)」という問いかけを通して、みんなでそれぞれの考えや気持ちを伝え合う時間を持ちました。
「粘土でこれを作ってみたかった」「折り紙でこんなのを作りたい」など、自分の遊びのイメージをしっかり持って選んでいる子が多く見られました。また、「今日はちょっと歩くのが疲れちゃって…」という声もあり、自分の体の状態を考えて選んでいる姿もありました。

お集まりの終わりに、みんなで一緒に遊ぶ経験(機会)をもちたいと先生から課題を設け、屋上での「竹スライダーあそび」を提案して遊びました。

個数や種類をあえて制限をしてみて、じょうろやバケツなどを使って水を流しながら、どうすれば上手に流れるか、竹をどう使えばいいか、子どもたち同士で考えたり話し合ったりしながら、協力して楽しむ姿が見られました。自分たちで足りない部品、欲しい部品(高さの物)を選び準備する様子もありました。
また、材料が少し足りなかったり、ちょうどいい物がなかったり、水の動きが思い通りにいかなかったりする中で、時には悔しい気持ちになることもありましたが、そんな中でも工夫したり、助け合ったりする姿があり、子どもたちの「成長の瞬間」がたくさん見られた一日となりました。

 

🔶保育を振り返ってみて

生活の中で日頃から子どもの意見に耳を傾け、保育を通して育まれている【選ぶ力】を大事にしながらも、「みんなで協力して遊ぶ」ことの楽しさも味わってほしいと考え、屋上で【竹のスライダー遊び】を取り入れました。(これは、今回の活動に限らず、全てのわらすの子どもが日々様々な事柄を通して生活の中で体験しています。)

じょうろやバケツの数を全員分に揃えず、順番に使ったり、譲り合ったりすることで、自然と会話や工夫が生まれるようにしました。また、あえて壊れやすいものや、水を使った少し難しい環境を準備し、うまくいかない悔しさや、それを乗り越えていく面白さも体験できるようにしています。順番を待ったり、思うようにいかずにイライラすると感情のコントロールも難しいのですが、夢中になって遊ぶ中で「こうすればいいかも!」「こうしたらもっと面白い!」と子どもたちは試行錯誤を楽しんでいました。   遊びの中には、うまくいかない経験や、小さな葛藤もたくさんあります。でも、それらも子どもにとっては大切な学びの時間。気持ちを調整したり、友だちとどう関わるかを感じ取ったり、自分の考えを形にする力が、こうした集団(子ども同士)の遊びの中で育っていくのだと思います。

日々の遊びの中で子どもたちは自然と自分で選び、工夫し、周りと関わりながら成長していきます。お部屋でじっくり遊ぶことも大切な時間ですが、時にはちょっと違う環境や遊びを用意することで、子どもたちの新しい一面や関わりが引き出されていくのを感じました。

これからも、子どもたちが安心して自分らしく過ごせる環境と、時に少し背中を押してくれるような場を、丁寧に用意していきたいと思いました。

6月11日昼食

2025/06/11

ごはん

レバーのマリアナ風

キュウリの塩昆布和え

わかめスープ

バナナ🍌

麦茶

ヤングコーンの食べ比べ(東京すくわく)

2025/06/11

関東も昨日から梅雨入りですが、今日の味覚探訪は、ひと足先に夏のイメージがある「とうもろこし」の食べ比べ。白と黄色のヤングコーンを食べくらべました。皮を剥いて、中から身が出てくると、思わずさきっぽをかじってしまう子も。そのあと茹でて、かくる焦げがつくくらい炒めます。塩をふって、いただきま〜す。

この味の探究は、午前中ににこにこ組(2歳児クラス)で、午後に今日はわいわい組(3歳児クラス)で行いました。保育園で食べ物をじっくり味わうという活動は、昼食や午後の間食とはまた、一味違う活動になっています。もっとも異なるのは、野菜を一種類だけ、できるだけ収穫された状態にちかいところから、食べるところまでの、一貫した調理過程をじっくりと観察して、そのあと、その味だけを味わうというころです。

普通の食事だとこうはなりません。ご飯やパンなどの主食をはじめ、主菜や副菜、汁物などと合わせて食べるので、その味と同時に、合わせて食べる全体の味わいとして食べています。とくに一品だけをよく噛んで味わって食べて、次のもの移るというよりも、主食のお米やパンと一緒に食べる味の方が増えています。おにぎりにしても丼にしても、サンドイッチや麺類など、最初から混ぜ合わせた味で「一品」になっているものが多いのです。

まして野菜単品の味を味わうということは、めったにない、と言っていいでしょう。保育園の子どもたちと食事を共にすると、そうした合わせた味を好むことがよくわかります。真っ白なご飯だけ、単品の野菜だけ、というメニューはすくなくて、混ざって初めて完成という一品が多くなっていること、また子どもも、あえて混ぜて食べることを好むことが多いと感じます。

たとえば主菜が白ごはん、主菜がしゃけの塩焼き、副菜がサラダようのなとき、シャケ丼にしたり混ぜご飯にして食べている様子をよく見ます。そういう食事のあり方のなかで、単品の野菜をじっくり味わうという体験は、その美味しい味とつながって、一つずつの野菜の姿が明確になり、好きになり、もっと食べたい、さらにもっと〜につながっていくように感じます。その、もっと〜のところが何になるのか、子どもの姿ベースで次を考えていくときに、子どもの「こうしたい」を一緒に見つけていけたらと思います。

今日の活動の報告は、先生たちの振り返りを含めて、後日掲示します。

赤ちゃんの積み木遊びの見え方(カ 思考力の芽生え)

2025/06/11

子どもは目新しいものに目がありません。ちっち組で新しく提供した積み木のおもちゃに、興味津々で遊んでいる様子が報告されています。牛乳パックの中に詰めて、布を貼った立方体や直方体や円柱の積み木です。赤ちゃんが何か物を目にすると、なんだろう?と興味を持って、触ったり、持ち上げたり、落としたりしてみることがよくあります。物にはそれぞれに、こういう使い方をするという、作った人の意図がその形にデザインされています。

たとえばコップは中に液体を入れることを想定し、それを人が片手で持つことを前提にした大きさになっていて、口で飲むことがやりやすい縁だったりします。皿にしてもスプーンにしても、あるいは椅子やテーブルにしても、それぞれの使われ方が想定されています。物に目的とか操作性とかが、大人にその意味を伝えてきますが、赤ちゃんはそれを意識しないで関わる対象の場合と、ちょっと「これはなんだ?」と意識的に関わる場合がありそうです。今日の初お目見えの「積み木」は、それになります。

大人でも過去に見たことのない珍しいグッズやデザインに出会うと、興味を持ちます。自分の関心のある分野だったり、向こうから否応なく刺激してくるものなら、そのものに巻き込まれてしまいます。今朝、靖国通りを歩いていたら、2台のランボルギーニが青信号になるや、爆音を轟かせて発進したので、見入ってしまいました。車の運転方法と居住体感は、普通のセダンとは全く異なるでしょう。私にとっては未知の世界です。

赤ちゃんにとっての積み木も、未知の世界。赤ちゃんよっては、どう関わっていいものかも、当初は見当もつかず、恐る恐る触ってみるというあたりから接近していき、持ってみる、置いてみる、思わず落ちてします、ボールと違って転がらずに止まる・・・といったことぐらいから始まる場合もあるでしょう。似たようなものをすでに知っているなら、それとの連想から、きっとこうじゃないか、というイメージをもって関わり始めるかもしれません。

先生が積み重ねる様子を見て、ほう!そういうことができるのか!と真似してみる、というあたりから、今日の報告は紹介されています。積み重ねて崩れたことが面白いという様子が描かれています。

このことを最近の保育での言葉の使われ方、物事の捉え方に即して説明し直すとこんな感じになるでしょうか。

私たち大人は例えば「崩れた」という言葉でその現象を表現してしまいますが、つまり、そういう概念で世界を切り取ってしまいますが、そういう言葉の意味をしらない赤ちゃんにとっては、現象そのものが発する動きや音が、それはそれそのものとして目の前に展開されたこと自体との関わりが起きています。(どうしても回りくどい言い方になっていまがちですが)

積み木が崩れたという事態そのものをオノマトペで表すほうが、言葉以前の事態そのものを表せるとするなら、思わず姿を現してくる積み木周辺の事態が「グチャゴロン」となったことが、わあ、なんだこれ、おもしろ〜い!という世界との一度きりの出会いの瞬間でになっている、とでもいえばいいでしょう。

すると、きっと、またやって!と繰り返しながら、その世界が好きになっていき、どうやったらまた「グチャゴロン」が起きるかと、そのことに意識を向けて手が伸びていったと、捉えることもできます。

また「世界には深さとか広がりがある」とよく言われるのは、こういうことなのでしょう。積み木はどこまでいっても積み木なのですが、そのものが置かれて子どもが関わるとき、その子にとって起きている現象世界は、その子にとっての独自のなにか新しいことが世界から開示されている、あるいは新しい世界を発見している、ことを体験していることになります。

世界との関係を、このように能動的にでも、受動的にでも、どちらでもあるようで、ないようなあり方で、体験していくように見えてくること。つまり、私たちが使っている言葉は、直線に並べていかないと意味が通じないので、どうしても、そのような言葉遣いになってしまうわけですが、世界はそのように直線的な表現で表せるものにはなっていません。もっとトータルなことがいっぺんに起きています。

ですから積み木とそれが置かれた状況、そして積み木を積み重ねて遊んでいる子どもという主体の関係がどうなっているのか?という説明をしようとしたら、こんな感じになるでしょう。

そばにいる先生の真似をしてやってみた積み木とのかかわりで生成されていく事態がどういうことになっているのかを説明しようとすると、子どももその世界の一部となって、それを成り立たせている空間にはさまざまな要素というか主体(エイジェンシー)が影響し合っていて、そのうち主だった主体である先生、子ども、積み木という主体に目をやるなら、意図をもつ先生が引き金になって、相互に織りなす、協同的に世界が生成されているという言い方になっていくでしょう。

そして、その生成していくプロセスを、見方・考え方や資質・能力や3つの関わりの視点や五領域で捉え直すこともできます。

誰も何秒後に積み木の重ね合わせと崩壊が起きると予想することなどできず、「図らずも、思わず、偶然に」などと形容される事態のなかで起きてしまっていく事態なので、それらを生成するというように見えてくるというわけです。こういう事態が最もよく見られる事は、私たちが「遊び」と呼んでいる事柄なのかもしれません。

top