
のりごはん
ヤンニョムチキン風
春雨サラダ
ミヨックク(わかめスープ)
メロン、オレンジ
2025/05/22

のりごはん
ヤンニョムチキン風
春雨サラダ
ミヨックク(わかめスープ)
メロン、オレンジ
2025/05/21
さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。

するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。
このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。
それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。
「でもぼく、もうかえるんだよ」。
先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。
でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。
相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。
2025/05/21

しらすとわかめのおにぎり
食べる小魚
2025/05/21

しょうゆラーメン
シュウマイ
バナナ
2025/05/20

醤油ラーメン
シュウマイ
バナナ
2025/05/19
特定の子どもを選んで、じっくりと観察して、そのあとで話し合って保育の援助計画を修正しています。この話し合いを保育カンファレンスと読んでいますが、先ほどそれが終わりました。

子ども本人してみると、「きっと、こんな感じのことが無自覚に起きているのかもしれない」と想像しながら、支え方をああかな、こうかなと話し合います。だったらこんなふうしたら相互作用が変化するんじゃないか?とか、こんなふうに誘ったりすると、うまくいくんじゃないだろうか? こんなものや空間にしたらどうかとか。・・・
保育の話し合いでやっていることは、それぞれの子どもにとって、周りからの「呼びかけ」のあり方と、その子が「どう応答しているか」という関係を分析していることになっていそうです。そこで気づいたことがこういうことだろうから、こう思わず動いたのだとしたら、ここに空隙があって、越えられなかったからかもしれない、とか。

たとえば車の運転にたとえると、入ってくる視界情報と路面とスピードの関係を考えながら操縦している主体(子ども)は運転手です。当てずっぽうに運転する子どもの運転技術の度合いの違いが個性や発達の度合いで、保育とは、その車体がどう走りたがっているか、またそのスキルを想像しながら(この子はこうだね)、視界情報や路面環境などを整えているのに似ているかもしれません。
空間を止まったり走ったり常に動いている車の動的な動向を環境の方からうまく走らせていくような感じ。
運転手にとって、環境からの呼びかけ方は「聴覚からよりも視覚からのものがよさそうだ」とか、「声かけが先だと抵抗するから、そっと見えるように置いておいて、何気なく始まってしまった方がいいだろう」とか。そのカーブでは一時停止の標識は確認しにくいねとか。標識が多すぎて判別しずらそうだから、他の標識を隠してしまったほうがいいみたい、とか。運転しやすい道路空間のデザインを考える感じです。
子どもの姿が車の運転ぶりだとすると、この道路空間は「いつも走っているから、こうだ」と見通して安心できると好きなことに集中できる(車を快適に運転できる)が、予想外のものから呼びかけられたり、時間的にちょっと先に始まることの見通しがもてないと不安に感じたり、しているのかもしれない。急に「いやだ〜」になってしまったりするのは、どうして?その話し合いから、こんなアナロジーに似た感触を話し合いました。
本人にしてみたら、たとえば気持ちよく運転しているときに急に視界が遮られて、思わず急ブレーキを踏んでしまうようなことかもしれない。きっとこうなるとパターン化されているならできるが、未知の世界への入っていくときは、何かの既知からのつながりのある未知でないと不安なのだろうか?あるいは、「やりたいことがあってもできないことからのもどかしさ」がそうさせているのではないか?とか。
たとえは車の運転が相応しいかどうかわかりません。波乗りサーファーや川下りのカヌーのようなものでもいいかもしれません。いずれにしても動的な動きのある空間の例えがいいような気がしました。
それにしても私たちは本当に知らないことには不安を覚えるものです。その既知と未知はどうつながっているのだろう。そのつながり具合を工夫しているのが保育のようにも思えます。楽しい、面白いと思えるように世界への通路を作っているのが保育なのだとしたら、既存の世界と未知の世界の繋ぎ方として、楽しく運転していたら、新しい世界にはっていったというような形で運転をサポートすることが保育なのでしょうか。その微妙な調整の仕方を話し合っているのが保育カンファレンスのように感じました。
2025/05/19

バナナケーキ
牛乳
2025/05/19

ご飯
カレイの煮付け
じゃがいも炒め
大根と小松菜の味噌汁
オレンジ
2025/05/17
あいにくの雨になってしまいましたが、室内での「わらべうた遊び」は、ゆったりと楽しい空気感に溢れていました。歌とリズムと声のハーモニーが子どもたちを包み込んで、幸せな気持ちになりました。このような空気感は保育園ならではのものでしょう。

上野動物園は雨の中でしたが、3グループに分かれてのんびりと散策できました。私がついて回ったグループではシロクマが水中でボールで遊んでいる様子を楽しみました。

雨のために団体がキャンセルしたのか、空いていたこともあってコウモリ、タンチョウヅル、象なども見ることができ、それぞれの場所をゆったりと楽しめました。

2025/05/16
金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。

どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。
私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。

面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。