
私たちは何か生活や仕事がうまくいかないときや、困ったときは「どうしたらいいだろう?」というように考えます。ものをなくした、病気になった、家族が辛い思いをしている・・・その問題を解決するための方法を見出すために色々考えます。あるいはもっと良くするためにどうしよう?と知恵を絞ることもありますね。ただ私たちは自分や家族のことが滞りなく進むかぎり、あまり縁のない遠くのことは深く考えないものです。
ところが、他人があまり考えないようなことを「深く考察すること」が仕事になっている場合があります。研究者とよなれる人たちです。「どうしてだろう?」「どうなっているのだろう?」と探究することが「専門性」となっています。世の中には、一旦、一通り専門的な技能を修得してしまえば、その繰り返しで務まる仕事と、常に新たな知識を探究し続ける必要がある仕事があるといえるのかもしません。新たな知識を深めるといっても、その方法は同じ技能の繰り返しなのかもしれませんが、いずれにしても、常に刷新が必要かどうかということには仕事の種類によって差があるようです。
では保育という仕事はどうなるのでしょうか?私が個人的に思うのは、一旦専門的なスキル(知識と技能)を身につけて(豊かな人間性の裏打ちが不可欠ですが)しまえば、その応用で仕事の質を高めていけるように思えます。専門性の違いはあっても、その道のプロと言われる人たちの歩み方とそう変わりはないのではないかと思えます。でも実際のところ、これまでの経験から言えるのは、学び続けてきました。一旦身につけて終わりということはありませんでした。これはどう考えるといいのでしょうか。
確かに時代が変化するので、また保育も進歩するので、それに合わせてバージョンアップしていくという一般論はわかります。ただもっと本質的に保育が難しい、学び続ける必要があると思うのは、対象が「もの」ではなくて人間であり、子どもであり家族も対象になっており、そのうえ成長、発達、教育という目に見えにくい成果(を単に求めるのではない、という話もあったりして)を追求するという仕事だからかもしれません。
とくに最近思うのは、子どもや人間や世界についての捉え方が、刷新されてきていることに起因するのだろうといことです。言葉を変えると保育を進める上で考える概念が更新され続けており、それまで「そのことはこう捉えればいい」と考えてきたことが、そうじゃないかもしれない「こういうふうに捉えることが事実に近いはず」という見直しの連続だからかもしれません。
その難しさには、子どもの経験の意味を考察する必要があることも関係します。考察のためには、物事を理解していくために用意された概念を駆使する必要もあります。「いい保育というのはどういうことをすることなのだろう?」ということを考えることが、保育でもあります。そんなことを考えながら、今日はある学生さんと昨日話し合ったある光景について振り返ってみたのです。
園内を案内し、どんな保育をしているのかを説明しました。するとある3歳の女の子が、運動ゾーンから折りたたみの運動マットを一人でままごとゾーンに運び込もうとしていたのですが、その事例について「印象に残ったから」話し合っていたのです。そのときに、そのエピソードを考察するとしたら、どんなことを考えるかを話し合ったのでした。その時思ったのは、考察すること自体を専門性として、ちゃんと学ぶ必要があるのではないかと言うことでした。
保育園は保育士を目指す学生の養成機関の一翼を担っているのですが、具体的には「実習」の受け入れ先になっています。大学や短大、専門学校などを「養成校」と呼ぶのですが、その場での学びを実際に保育にいかしてみる実践の場というわけです。当園は毎年4〜6人程度の学生さんたちを受け入れていますが、実習が始まる1ヶ月ほどまえにオリエンテーションという事前の打ち合わせをします。昨日はその打ち合わせがあったのです。