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2022年 3月

自立の姿(その10)遊び

2022/03/10

今回で「自立の姿」の短期連載は終わりです。これまで生活の中から、食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔、危険回避、身近なものの扱い、あいさつについて「自分でそうなる」ような自立の意味やポイントや述べてきました。最後は、子どもたちの本分ともいえる「遊び」です。遊びの自立というのは、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもに好きなようにしていいよ、という状態を与えると、誰に言われなくても、自分からやり出すことがあります。それが遊びです。勾配のある場所に水を垂らすと、水は低い方へ流れます。それと同じように子どもは遊び始めます。私が保育の仕事を始めた四半世紀前、研修で聞いた話が忘れられません。それは幼稚園で「お絵描き遊び」をしていた時の話です。遠足にいった思い出を描いていたそうです。きっと楽しかったことを、それぞれの子どもが絵にしたのでしょう。研修の先生は「実は、このお絵描き遊びは、遊びではありませんでした」というのです。私はどういう意味だろうと思いました。話はこうでした。このお絵描き遊びが終わった子どもが、先生に所にやってきて、こう言ったらしいのです。

「先生、お絵描き終わったから、遊んでいい?」

子どもたちにとって、お絵描き遊びは、遊びではなかったのです。子どもは自分がやっていることが、遊びかどうかをわかっています。遊びというものは、自分でやりたいことをやり始めます。人にやらされることは遊びになりません。

一見、いかにも楽しそうに見えたり、大人から見て、やっている活動に意味のあるものに見えれば見えるほど、大人にとって、それが遊びなのか、そうでないのかの見分けが難しくなるかもしれません。でも見分け方は、簡単なんです。遊びは水が低い方へ流れるように、本当に自然に始まるものなのです。「さあ、これからお絵描きをします」。とって始まるお絵描きは、それをやりたかったならいいのですが、やりたくない子にとっては苦痛なものになります。

遊びの自立とは、まずこの条件が満たされることです。まずは、その遊びが遊びであること、です。

そうでなければ、「遊びもどき」の活動は遊びではないので、自分からやろうという気になりませんし、熱中しませんし、継続しません。基本的に「できればやりたくないなあ」という気分モードなので、やめるきっかけがあれば、さっさとやめます。

それに引き換え、本来の遊びは、自発的なものです。ですから、最近の保育所指針や幼稚園教育要領には、「遊び」と書かずにわざわざ「自発的な遊び」と書いているのです。遊びは本来、自発的なものなのですが、そうでない遊びが混ざり込んできやすいからです。「遊びは自発的なものですよ、大人がさせる遊びは慎んで下さいね」というのが国の方針です。本物の遊びでなければ、子どもは育ちません。本当の学びになりません。必要はものは子どもがやりたがる遊びの中で身につけるのです。その時、遊びの中で何を学んでいるのかを見極める力が、プロの保育士の力です。

これは他の生活の活動では、迷うことはないでしょう。食事は食事ですし、排泄は排泄です。それか食事なのか、排泄なのか、遊びなのか迷うことはないでしょう。ところが遊びの場合は、自然とそうなる傾向を持っているので、寝る時間だから寝せとうと思っても遊びが終わらない、とか、最後まで食べてほしいと思っても遊び食べになる、とか、あるいは手を洗っていたと思ったら水遊びになっていた・・・こんなことの連続ではないでしょうか。

ここではっきりすることがあります。それは、遊びは子どもにとって自然と「始まる」ものであり、自発的なものでなければならず、そうでない遊びは強制的な遊びか、自分で選び始めていない誘導された活動です。したがって、本物の遊びの自立を考えると「お終い」にすることが、課題になってきます。そこで遊びの自立の姿とは、「自分で遊び始め、自分でお終いにできる」ということになります。遊びは終わることが難しいものなのです。そこで自分で遊びをお終いにできる、区切りをつけることができる、一旦やめることができることが、現実的な生活の中では「自立のテーマ」になってくるのです。

そのヒントは次のようなものです。

(1)遊びは中断してもまた「続きができる」ことを納得できるようにすることです。これは発達が未熟なうちはできません。「一旦、おしまいにしてお食事にしよう」ができるようになるのが、これもまた見通し力が育つ満3歳のころなのです。2歳の頃からまた後でできる、という体験を積み重ねることで、それができるようになっていきます。

自分で決めることにこだわる時期に「すぐにやめる」カードと「あと1回」のカード2枚、3枚などを選ぶという方法もあります。選択肢の中で選ぶことで、自分が決めてそれに従いやすくなる時期があるものです。その段階を過ぎると「まだ途中です」とカードや札や目印を自分で置いたり示したりして、一旦おしまい、ができるようになります。

(2)質の高い遊びは、継続性が見られます。1日から2日は当たり前で、1週間ずっと続いたり、1ヶ月2ヶ月と続くことだってあり得ます。このような遊びは、同じような遊びをしているように見えて、実にさまざまな体験が含まれており、それを縦横無尽に使い切っていたりします。このように長い遊びは、一旦区切る、一旦おしまいにするということが何度もできており、遊びが自立していると言えます。

(3)もっと長い遊びがあります。それは実は人生です。私たちは本当に真剣に仕事に打ち込み、何かを成し遂げ、探求したり協力したり、何かを発明したり、社会に貢献したりしながら生きているわけですが、その本質は本物の遊びに似ています。人生にとって遊びの区切りをつけるということは、人生における本当の自由な生き方の選択に似ているなあと、私は思っているのですが、それはまた別の機会に。それはともかく、熱中して遊び込んでいる子どもの姿は、子どもの人生の熱中度を表しています。子どもが本当に生きている時間を過ごすには、本当の遊びを保障することです。そうやって遊ぶことが、その後の生活の基本を作っているのです。

3月10日 昼食

2022/03/10

🇻🇳ベトナム料理🇻🇳

フォー

バインセオ

いちご

麦茶

1冊の絵本から

2022/03/09

ちっち組のかほちゃんが『きんぎょがにげた』の絵本を持ってくると、それが読みたいんだね、と分かったぐんぐん組のゆいとくんが、読みきかせを始めました。かほちゃんも、読んでくれると分かったようで、前に座って眺めます。



ゆいとくん「きんぎょ どこ?」
かほちゃん「ここ!」


ゆいとくん「ぴんぽん」

…絵本の内容を覚えているので、文字が読めなくても、子ども同士で楽しんでいます。
ゆいとくん、かほちゃんに向けて絵本を開き、読み聞かせの形もよく再現していますね。

絵本との出会いのきっかけは、大人と一緒に読むところからかもしれませんが、そこから 一人で眺めたり、友だち同士で楽しんだり…。絵本の楽しみ方や味わい方はさまざまです。
1冊の絵本からも、色々な関わり合いが見られます。

自立の姿(その9)あいさつ

2022/03/09

本来のあいさつというものは、心のこもった言葉が交わされる繋がりを、浮き彫りにしたり、ないと困る心情なのに、本当はそうではないのにあることにするためだったり、あからさまにしないための方便であったりと、人間が編み出したうまい知恵のように思えます。ただ、好ましい挨拶は、それが嬉しくてその気持ちを再確認するような心の働きをもつ場合でしょう。

次のエピソードは、一度話したことがあるのですが、藤森統括園長が誕生日のお祝いに、園児から紙で作った紅白饅頭をもらった時の話です。「わあ、ありがとう」とお礼を言ったそうですが、その園児はしばらくして戻ってきて「あれ、嬉しかった?」ともう一度聴きに来たそうです。「ああ、そりゃ、嬉しかったよ」と藤森先生は答えたそうです。

このエピソードは私にとって、忘れられない、いい話だと思います。私はこのように感じています。その子は、最初に藤森先生に「ありがとう」と言われて、嬉しかったのでしょう。プレゼントはもらったら嬉しいわけですが、この場合「ありがとう」と言われたことが「嬉しかった」のではないでしょうか。ですから、その子は、自分に沸き起こった「嬉しさ」を感じていて、プレゼントをもらった藤森先生にも、その気持ちを確かめたくなった、のではないでしょうか。この心の通いあいを確かめたい、味わいたいという子どもの心の動きが生まれたは、とても大切な体験だと思うのです。

私は次のような話を毎年学生に必ず話します。「ごめんねは魔法の言葉」という話です。どうして「ごめんね」が魔法の言葉かというと、それを言って謝ると「いいよ」って許してもらえるからです。よくないことをしたら、ごめんなさい、と自分の子どもは素直に謝れる子どもになってほしいと、多くの親は願うでしょう。それなので、大人は子どもが悪かったら「ごめんねは?」と謝らせるのでしょう。

しかし、この話の次に、こういうのです。「ごめんは魔法の言葉にしてはいけません」と。悪いことをしたら「ごめんねを言いなさい」と、やり続けると、こんなことが起きかねません。実際にあったことですが、友達が作った積み木を間違えて壊してしまい、その子はすぐに「ごめん」と謝りました。しかし、やられた方はいいよ、と許せません。せっかく作ったものが台無しになったからです。すると「ごめん」が何度も繰り返されて、最後には謝っていた方が「なんで、いいよって言わないんだよ」と怒り出しました。

ごめん、と謝ればいいんだという方法だけが、その子どもには習慣になってしまったのでしょう。呪文のようの唱えることがごめん、という使われ方になったのです。ここで立ち返りたいのは、謝るというのは、本当に「ああ、悪かったなあ」という気持ちがこもっているかどうかが問題なのです。心のこもった「ごめんね」かどうか。それが「許し」を促すからです。これを心の通いあい、というのです。謝罪における心の通わせ方の基本です。これは最初のお礼「ありがとう」にしても、感謝の「ありがとう」にしても、言われた方が、心が温かくなります。

つい今さっき、和泉小学校へ4月に入学する子どもたちを連れて行ったのですが、昼食の時にTHくんから「今日楽しかった、ありがとう」と言われました。卒園した1年生が5人いるのですが、再会できたからです。その子は、その言葉が自然に出てくるようになっているので、素晴らしいと思います。そばで聞いていた千代田小にいく予定の子たちは「えー、いいなあ」と、本当に羨ましいようでした。その一言を聞くと別の機会に連れて行ってあげたいと思ったのでした。

人は人と関わり合うことを本質に持っている生き物です。面白いのは、かかわりあいや、一緒にいることや助け合うこと、心を通わせることをこんなに真剣に求めあう存在なのに、その一方では、一人ひとりが全く異なるものを携えて生きてきたし、生きていく存在だという、この2面性があることです。分かりあうことを真剣に求めていながら、分かり合えないこともあることを認めなければならないような、そんな矛盾した世界の中で、誰もが真剣に生きています。

社会的な生き物でありながら、人間だけがもつ個人の奥深さという、この2面性の中で、その接点を常に確認し合う営みが「あいさつ」なのです。ですから、挨拶というのは、挨拶を必要とする関係から挨拶を必要としない関係まで、実に幅広い人間的繋がりのスペクトラムの帯の中で、それにふさわしい形というものを取ります。挨拶にこれが正解というものはなく、そこに込められた心情や気持ちを大切にする中から、生まれた知恵のようなものでしょう。

出会いの挨拶、別れの挨拶、セレモニーの挨拶、政治家の挨拶、市井の人々の日常の挨拶、いろいろな挨拶というものがありますね。それぞれに意味や歴史や彩りが異なり、それぞれに期待されている役割があります。小さい子どもたちにとって、大切にしたいことは、あくまでも気持ちの通いあいが「嬉しい」と思えるような体験になることです。

毎日、その都度、必要な時に使うもの挨拶です。いま、外遊びから帰ってきた子どもたちが「ただいま〜」と元気な声で<楽しかったあ〜>という気持ちを伝えてくれます。誰もいないのかな、と思っていた場所で「ばあ〜」と私を驚かして喜ぶような朝の挨拶もあります。あるいは「私がここにいるよ、気づいて」というサインのような挨拶もあれば、いつまでも深々と頭を上げずに、そこにはこぼれた涙しか跡に残さないような挨拶もあるでしょう。

あいさつは「こんにちは」「おはようございます」と挨拶することで、私はあなたに心を開いていますよ、身近な人だと思っていますよ、という確認なのでしょう。挨拶をしたい相手や場面や状況に応じて、あいさつが生まれたり、なくなったりします。挨拶というのは、それによって相手との関係が見えてくるものだからです。

その判断は多様な経験の中で、ふさわしい形を編み出した方がいいのですが、学校や町会などが行う「あいさつ運動」という場合の、あいさつは「ここには自然発生的に生まれる挨拶がないので、することにします」と宣言しているように見えます。いかに心を通わせる空気がなくなってしまったのか証明しているように見えます。あれをやってしまうと、挨拶がもつ本来の多様性や歴史や意味あいが漂白されてしまいます。人間関係が希薄になって心を通わせることが難しくなった時代を自ら覆い隠すために行っているということさえ、気づけない鈍感な人間関係を蔓延させてしまうのです。

子育てで大事な挨拶の姿は、大人同士が気持ち良く心を通わせているかどうかです。クレーマーにはきっと挨拶がありません。一方的ですから。大人同士が楽しそうに心を通わせている関係を見ると、その空気の中で子どもは安心して心を許し、素敵な挨拶を示してくれるようになります。やらされている挨拶は痛々しい。そのさせる力がなくなったら、きっとしなくなるものだからです。先にあるのは心と心のつながりなのです。保育はそれを守り、育てる営みです。

 

自立の姿(その8)身近なものの扱い

2022/03/08

「身近なものの扱い」の自立の姿は「社会の変化で変わる生活スキルの基礎を模倣を通じて学ぶこと」ということになります。

ちょっとだけ、人間と環境の関係の本質について説明しておきます。

人間は周りの環境世界から、自分にとって気に入るもの、自分を惹きつけるもの、有用なものを取り入れようとします。世界は自分にとってどうあるのかこそ、生存を左右しかねないテーマになるからです。そういう意味では、発達というのは、子どもが事物を見たり触ったりしながら、自分にとって気に入った心地よいもの、有用なものを引き寄せながら、自分の生活圏の中に「あるもの」を取り込んでいくことでもあります。

事物は子どもにとって、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。それを探り当てながら、その事物そのものが伝えてくるものを、子どもは受け取っています。心地よいこと自体に意味があるのではなく、それを与えるにふさわしい性格がその事物に備わっていると言う事が大事なのです。

また、身の回りの「もの」のそれぞれについて、子どもはその用途や目的を理解することで、その扱い方を覚えます。その用途の目的と「もの」の概念はセットです。例えば、ここにコップがあります。初めてコップを見た子どもは、その用途をまだ知りませんから、触って倒したり、持って口に持っていって舐めたり、場合によっては手を離して落としたり、転がしたり、半ば偶然に任せていろんなことをします。毎日の生活の中でそれにお茶やミルクが注がれて、飲むという場面でコップが現れるので、それを口へ持っていって傾けて飲むものであることを認識するようになっていきます。また使われるたびに、「はいコップどうぞ」だとか「コップはこっちね」など、繰り返し聞こえてくるコップのところが、どうも「コップ」というものらしいと気づき始めます。言葉の獲得も「もの」の扱いを促します。

子どもはいつもの使われ方と意味される概念を結びつけて自分のものとします。こうして子どもは教えてもらわなくても、見る力、聞く力で、その対象のものの扱いを習得していくのです。そうではければ、身の回りの物の扱い方を、まるで自動車教習所で車の運転を学ぶかのように、いちいち一つずつ教えなければならないことになります。以上をまとめると、子どもは世界から意味のある対象を選び取るのですが、そこには他の人が使っている意図と方法をセットで模倣し、自分のものにしていきます。

このイミテーション学習を、ざっくりと「模倣」と呼びます。真似ることが学ぶことになっていきます。その中にものの扱いも含まれるのですが、人間は手順を覚えるというよりは、その目的を先に理解してしまうので、その目的に適った方法を自分で編み出します。前置きが随分と長くなりましたが、この物の扱い方は、そのものの用途にあった扱い方をモデルを通じて身につけていくので、上手な扱い方を見せることが、上手な扱い方を真似するようになります。実は挨拶も同じ原理なのですが、それは次回の最終回で説明します。

さて、本題に戻りましょう。生活上のものの扱いというと、衣食住の中に見られるものは全てです。衣類と食事はお話ししましたが、住むということの中には、居住空間の中にあるものですが、現代はかなり電化製品が代わりをしてくれるようになり、昔は子どもの頃から習得する必要のあった掃除や洗濯、裁縫、水汲みや灯り、火を起こしたり灯りを灯したりといったことも、生活技術の中から消えてしまいました。家庭生活の中に残っているものの扱いは、どんな取扱説明書があるかが象徴的です。

当園では、あえて昔からある生活技術の中から、ほうきとちり取り、雑巾掛け、モップなどの掃除スキルは体験しています。お米とぎや野菜の栽培、金魚や生き物への餌やり、生花なども生活の中のスキルです。現代は学問優先の学校教育になってしまいましたが、高等教育を受けても、現代社会を生きるための生活技術がすっぽりと抜け落ちているので、恋愛や子育て、経済や保険など、すぐに必要な基礎スキルを持たずに社会に放り出されている若者が多い気がして、とても気の毒です。やっと英語やプログラミングや金融を学校で学べるようになりましたが、教える先生が足りないという状況です。

こんなにあからさまに抜け抜けと戦争が勃発する社会を突きつけられると、きちんと政治と平和を教える国際的カリキュラムが不可欠なようです。核やロケットや武器を身近なものとして、大人もその扱い方を1から学び直してもらう必要があるようです。

 

 

リクエストメニュー①

2022/03/08

今日は、すいすい組によるリクエストメニューの日でした✨

(くだものは、いちごでした🍓)

 

今日のメニューは、今まで保育園で食べてきた給食のメニューを思い返しながら、先月すいすいミーティングで話し合い自分たちで決めました。

 

話し合いの中では、「全員が好きなものにしようよ!」「この前食べたやつなんだっけ〜。」「献立表見てみようよ!」などなど、子どもたちだけでのやりとりが広がっていました。敢えて大人は話し合いの中には入らず、「みんなが食べたいものを美味しく食べる日にしようね!」とだけ伝えて、話し合いはお任せしました。

 

近くで話し合いを見守っていると…

相手の意見を聞く姿勢や自分の意見を伝える姿勢…一人ひとりがお互いの意見に寄り添う場面が多く見られました。意見がまとまらなくても、譲りあう子がいて、その子に対して「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えていたり、ここは決めていいよ!と譲ってもらったお詫びをしたり…

なんだか素敵なミーティングとなり、すいすいさんの仲間意識を強く感じられました👏

 

みんなで仲良く楽しくいただきました〜♪

 

明日もすいすいさんのリクエストメニューです!お楽しみに…✨✨

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